048:事件
その日もいつもと何も変わらない一日だった。リィンは朝早く起きて朝食を作り皆にふるまう。後片付けをしている頃にエンポリオが大あくびをしながら起き出して来て、のろのろと支度をする彼をせかして会社へと追い出し、掃除をして昼食の準備に取り掛かる。ラディスの診療所に居た時と基本的には変わらない。もう体調はすっかり良くなっていた。だけど、まだ自分はここにいる。
もう僕は、あそこに帰る事はないのかも知れない。
あまり考えないようにしているのに、つい頭をもたげてくる思い。
「リィン、町へ行こうよ」
エンポリオがにこにこしながら戻ってきた。もうそろそろ昼時だ。
「こっちの事は誰かに頼んで、お昼を食べに行こう」
リィンの腕をとってずんずん歩き出す。彼は強引である。その柔らかな雰囲気のおかげであまり気にならないが。
「僕は良いよ」
「とっても美味しいお店を見つけたんだ。リィンと行きたい」
反論しようとリィンが顔を上げた時だった。エンポリオの顔がものすごく近くにあると思った瞬間に、唇が重なった。
「ぎゃっ!」
「ふふ。隙あり」
エンポリオは片目をつぶって見せ、リィンは顔を真っ赤にしてごしごしと腕で唇を拭う。
「リィンてば。そんな事されたら僕、傷つくよ」
「もう。やめろって言ってるだろっ」
こんな調子でリィンは彼に何度もキスされていた。だんだんと彼のペースに慣らされつつある。
「さ、行こう」
いつもと変わらない一日。そうだと信じて疑わなかった。
「ああ、美味しかった!」
「うん」
エンポリオの言った事は本当だった。その店はベイルナグルの西のはずれに一戸建てで店を構えていた。コース料理を出すところで、値段が高いのじゃないかとリィンは内心ひやひやしながら料理を味わった。どれも繊細な味付けでメインの魚料理も良かったし、デザートもフルーツがふんだんに盛られ、上にかかっていた冷たくて甘いクリームがとても美味しかった。
「また来ようね、リィン」
「今度はワドレット達も連れてこよう。その方が、お金使えるだろ?」
「ふふ。言うねえ」
突然、どくん、と心臓が鳴った。肌が異変を感じ取る。
びしりと鋭い殺気を感じて、瞬時に身構えた。剣を持って出なかった事を今更ながらに後悔する。
「リィン?」
「誰かが…」
リィンが何かを言う前に、奇妙な格好をした男達が飛び出してきてエンポリオを殴りつけた。彼が倒れて、男達がそれに追い打ちをかける。
「エンポリオ!」
瞳が瞬時に深紅に燃え上がり、彼に覆いかぶさっていた二人の男が吹っ飛んだ。
「いてて…」
エンポリオが頭を押さえながら起き上がる。リィンは目の前にばかり気をとられていた。背後に何かの気配を感じたと思ったが、一瞬動きが遅れた。がん、と後頭部に鈍い痛みが走り、目に火花が散った。
油断した。こんな昼日中に襲われるとは思っていなかった。
ぐらりと視界が歪んで気持ちが悪くなり、その後思考は暗闇に閉ざされた。
◇◇◇◆
昼下がりの診療所では、普段と変わらない時間が流れる。ラディスは診察室の奥の部屋にこもっており、クレイは応接室で紙束を睨みながら計算をしていた。ふと、クレイは顔を上げる。何だろう。
がたがた、と激しい物音が玄関から聞こえた。緊張して紙束を手にしたまま席を立つ。廊下へ続く扉を開くと、先にラディスが廊下へ出ているのが見えた。
「エンポリオだ」
彼は低く呟いて走り出す。玄関口に目をやると、確かにエンポリオが壁に手をついてこちらを見上げていた。肩で息をしている。尋常ではない空気を察して、クレイも慌てて部屋から飛び出した。
「す、すまない。リィンが連れていかれてしまった」
長椅子にエンポリオを座らせて、その場で事情を聞く。彼もしたたか殴られたようで、金の髪は乱れているし口の端が切れて血が滲んでいた。
「相手は」
「わ…分からない。でも最初から僕じゃなくて、リィンを狙ってたみたいだ。僕はわざと逃がされた。この住所にリィンはいるって、ラディスが一人で来いと言っていた…」
左手に握られていた紙きれを差し出す。ラディスがそれを見つめて言った。
「これは最近力をつけ始めているチンピラの溜まり場があるところだ。阿呆すぎてシーカーも手を焼いている連中だ」
エンポリオはクレイの持って来たグラスを傾け、ごくごくと水を飲み干した。
「た、大変だ。軍に知らせよう」
「駄目だ。見張りがいる」
「え…」
「この建物の裏に二人。饐えた臭いをさせていやがる。通報したら、奴らの一人が仲間の元へ走る」
「じゃあどうしたらっ」
ラディスが低く呟いた。
「この俺に、喧嘩を売るとは良い度胸だ」
ぞわりと背筋に寒気が走る。クレイとエンポリオが、じっと息を殺した。身体の芯から震えあがるような、恐ろしい殺気で身動きがとれない。ラディスの顔さえ見る事が出来ずに、クレイの背中に汗が伝う。この感覚は随分と久しぶりだった。
「阿呆共が。話に乗ってやろうじゃないか。俺が行って一時間後に軍とウィリアムに連絡をしろ」
そう言い置いて、彼は剣も持たずに行ってしまった。
「だ、大丈夫かな…」
エンポリオがぼそりと呟く。
「相手がさ」
クレイは神妙な表情でこくりと頷いた。
◇◇◆◆
後頭部に鈍い痛みが走り、うっすらと目を開いた。左の頬がひんやりと冷たい。視界は薄暗く、頼りない灯りが点々と灯っている。手前に男が四人。ずっと先に、三人。靴音が響いており、どうやらここは倉庫か何かで、そこに左を下にして横たわっているようだ。どうも身体の感覚がおかしいし思考もぼんやりとしか働かない。何か薬を使われたのかも知れない。
「お。起きたぜ」
靴音が近づき、リィンのすぐ傍で男がしゃがみ込んだ。
「うっわあ。本当に紅い目をしていやがる」
「おい、そんなに近づいて大丈夫か」
「平気だろ。薬が効いてる」
やっぱり。意思が定まらない。『力』を使うのは、今のままでは困難だ。どうする…。
「お前は餌だ。あの男をおびき出す為のな」
下品な笑い声を立てて、奇妙な格好をした男がリィンの胸倉を掴んだ。過剰なアクセサリーをごてごてと身につけている。ここにいる全員が似たような格好をしていた。嫌な臭いをさせて、無精ひげの伸びた顔を近づけてくる。
「それまでは、何もしないでおいてやるぜ」
「何だってシーカーはあんな男に執着していやがるんだ?」
別の男が言った。
シーカー?あんな男…?まさか、ラディスの事か。
「ふん。知るか。とにかくあいつを潰せば、シーカーも俺達を認めるはずだ!ほえ面かかせてやる」
リィンの背後にも一人いるようだ。ここから見えるだけでも敵は九人。
「…ラディスは、来ない」
声を振り絞って呟いた。
「ああ?」
「来る訳ないだろ…」
もう僕はラディスの護衛じゃない。
「そいつはどうだか。…お前良く見ると良い顔してんじゃねえか。けけ、どうやってあの男に取り入ったんだ?夜な夜なご奉仕ってわけか。良いねえ。少年、俺にもしてくれよ」
「…やっぱり、下品な奴は考える事も粗末で下品だ」
「何だと!」
無精ひげの男は立ち上がって、リィンの腹を蹴りつけた。抉られるような痛みに身体を丸めて耐える。
そうだ、僕を殴れ。
この痛みのおかげで、だんだんと意識が覚醒してゆく。
あともう少しだ…。
「来ます!奴です!」
「ほら来た」
倉庫内が俄かに慌ただしくなる。リィンは背中から引っ張られ、乱暴に椅子に座らされた。ががが、と大きな音がして遠くに見える鉄の扉が開いた。入ってきたその人物を見て、リィンは驚く。
何で来たんだよ…ラディス。
脇に男三人がついて、念入りに身体をチェックされてから、どんと肩をつかれてラディスがこちらに歩いてくる。しわの寄ったブラウスを肘まで捲り、黒のズボンに編み上げ靴。久々に見る彼はいつもの格好で、いつものように飄々としていた。
「へえ、お前がラディス?随分と色男じゃねえか」
「お前がここの頭か」
「そうだ。ハッザムだ。自分を倒す男の名くらい、知っておきたいだろ?」
ラディスと男の周りを、十一人の男達が囲む。十二対一。いくら彼でも敵が多すぎる。
「お前達はこれで全員か?随分と少ないな」
「驚いたか?少数精鋭って奴さ。このチームで俺達は天下をとる」
くくく。ラディスが笑った。こんな絶体絶命の窮地にいても、彼は普段と何ら変わらない。
「すまん。あまりにも馬鹿らしくて笑っちまった」
「な、何?」
男の声音が変化した。
「そう近づくな。臭くてかなわん」
辺りに鈍い音が反響した。男がラディスを殴りつけ、ラディスがぐらりと一歩よろける。
「ラディス」
リィンは何とか身体を動かそうとする。腕がぴくりと動いた。あと、もう少しなのに…。
どうするつもりだよ、相手をそんなに挑発して。
「下手な口利くんじゃねえ!楽にはやらねえぜ、なぶり倒してやる」
「面白い。出来るもんならやってみろ」
「ちっ。かかれ!」
男達がぞろりと剣を引き抜いて、丸腰のラディスに一斉に襲いかかった。
「ラディス!」
身体を無理に動かそうとして、椅子から落ちて地面に転がった。腕をついて身体を起こす。薬が切れてきたようだ。目を細めて前方を睨む。そこで、信じられない光景を目の当たりにした。
すでに三人の男が倒れており、ゆらりと長身のラディスが立ち上がった。思わず叫び出したくなる程の、恐ろしい殺気。極悪に冷えた青の瞳。怒鳴り声を上げながら三人の男達が同時に斬りかかった。
切っ先を避けて相手の腕を鷲掴み、そのまま引き寄せる。そこへ敵の剣が振り下ろされ、ラディスに掴まれていた男が叫び声を上げて倒れた。味方同士で斬り合ってしまい僅かに動揺した瞬間を逃さずに、ラディスは素早く二人に突きを食らわせて倒す。床に転がっていた剣ではなく、角材を取り上げてラディスは笑った。
ぞくりと背筋が凍りつくような、微笑。
「弱い」
残った男達はもうそうするしかないといった状態でラディスに斬りかかった。強さのレベルが違うとは、こういう事を言うのだ。北の町を仕切る夜の帝王、シーカーが欲しているのは、このラディスだ。
まるで鬼そのものだ。
「な、んだ!こいつはっ…」
ばたばたと倒れてゆく仲間達。あっという間に頭の男一人だけになってしまった。男は慌ててリィンを振り返り、走り出す。リィンは紅い瞳で男を睨みつけた。
「へっ」
男は奇妙な声を残して後方へ吹っ飛んだ。壁に打ちつけられ、その場にずるりと崩れ落ちる。
不穏な集団が僅かな時間で全滅した。