047:涙と星空
「昨日リィンがラディスに持って行ってくれたサンプルね、やっぱりはずれだったって。大発見にはならなかったみたいよ」
町の広場近くの石畳の道を歩く。左右には商店が並び、この先がユマの家のある高級住宅地区だ。昼前の今の時間帯は行商の馬車や行き来する人々も多いので、リィンはいつものマントでフードをかぶっていた。
「そうなの」
リィンはワドレットの眼鏡顔ときらきら輝く瞳を思い出した。
「ワドレットも皆も残念がっていたわ」
その時、背後の方から何やら騒がしい物音が聞こえた。人の悲鳴と、がたがたと車輪が回る音。リィンとユマは同時に振り返って遠くを見つめた。
「どいたどいたー!さっさとどかないと引いちまうぞお!」
荷車を手で引きながら、ものすごいスピードで走ってくる若者が見えた。坊主頭に前掛け。どこかの店の従業員らしきその人物は、歩く人々を無理矢理に脇へどけて、我が物顔で道をゆく。
「ユマ。こっち」
リィンがユマの手を引いて彼女を壁際に避難させ、荷車がガタガタと音を立ててリィンの背後を通り過ぎようとした。その時、車輪が大きな石にぶつかり、スピードのついていた荷車は簡単にひっくり返ってしまった。荷を止めていた紐がほどけて、辺りに様々な種類の野菜がごろごろと転がってゆく。引いていた若い男も一緒になって転がった。
「いってぇ!ちくしょう!」
悪態をつきながら男が立ち上がった。周りに人だかりができ、人々は自業自得だと言わんばかりに迷惑そうな顔をしてその男を見つめている。男は何を思ったか、リィンに目をつけ怒鳴り散らした。
「てめえのせいだぞ!早く荷を片づけろっ」
言いがかりである。ユマが憤慨して何かを言い返そうとするのを止めて、リィンはその場を離れようとした。
「待てよ!てめえイリアス族だろ。俺の荷車を転がしたのはてめえだろう」
しん、と辺りが静まり返る。男がずかずかと歩み寄って来て、また口を開こうとした時だった。
「ちょっと待ちなさいよ。私達は何もしていないわ。言いがかりはよしてちょうだい」
男とリィンの間に立ちふさがるようにして、ユマが両手を腰に当てた格好で言い放った。
「いいや。そいつが『力』を使ったんだ!イリアス族だからな!」
「まあ。どこにそんな証拠があるっていうの?」
「ユマ。良いから、もう行こう」
リィンは冷や汗をかきながらユマの腕を引く。しかしユマは頑として動こうとしない。
「駄目よ。だってこの人が言っているのは嘘だもの。第一こんな人通りの多い道で、あんなスピードを出して荷車を引く方が悪いんじゃない」
「何だと!」
男が怒鳴ってユマに近づく。ユマは動じなかったが、リィンが彼女を庇うように前へ出た。
「てめえ!早く荷を積み直せよ!奴隷のくせに!」
リィンの胸倉を乱暴に掴み上げて、男が怒鳴った。あまりの横暴さにユマが怒って叫ぶ。
「何するのよ!」
そして彼女が男の腕を掴もうとした時、異変が起こった。
ユマの動きがぴたりと止まる。異変を感じてリィンは瞬間に男を突き飛ばし、ユマの腕を掴み顔を覗き込んだ。身体がゆっくりと前のめりになり、ブラウンの巻き髪が前へ垂れる。その額からじわりと汗が流れ、苦痛に顔が歪んでいた。
「…っつ」
「ユマ!」
ユマの全身から力が抜け、帽子が地面に落ちる。リィンは小さな身体でユマを抱きとめた。
「ユマ!」
ざわりと人垣が揺れる。遠くで若い男が顔を青くして棒立ちになっていた。
「ユマ!だ、誰か!」
◇◇◇◆
「リィン…。ご、ごめんなさいね。びっくり、させちゃって…」
「ユマ。良いんだ。もう喋らないで」
その後町の人達に手を貸してもらい、ユマを自宅のベッドへと運んだ。出迎えた婦人の従者は血相を変えて、リィンに留守を任せてラディスを呼びに出て行った。ユマはベッドの上で、苦しそうに喘ぎながら必死に話しかけてくる。熱が出ているようで顔が赤く、息も熱い。リィンはそのすぐ傍でユマの手を握り締めた。
「こんなの、いつもの事なの…。平気よ、大丈夫」
自分が苦しいのにも関わらず、ユマは心配をかけまいとリィンに笑顔を向けた。
「ユマ…」
「ごめんね、リィン。あなたは悪く、ないのよ…」
リィンは泣きそうになるのをこらえてユマを見つめた。
泣いたらいけない。だって、ユマの方が苦しいし、辛い。
「ケーキ、今度一緒に、食べましょ…」
「うん。今度一緒に食べよう。一緒に作ろう」
ユマは苦しそうに眉根を寄せて瞳を閉じた。
「リィン…ここに、いてね…」
「うん。ユマが起きるまでここにいるよ」
それから苦しそうな表情のままユマは眠りはじめた。先程飲んだ薬が効いて来たのだろう。心臓の痛みを和らげる鎮痛剤のようなものだと言っていた。
「ユマ…。ごめんね…」
リィンはユマの熱い手を握り締めたまま呟いた。
あの男は、きっと以前からリィンの事を見知っていたのだろう。だからこそあの場に居たリィンに目をつけて絡んで来たのだ。フードをかぶっていたのに、イリアス族だと分かっていた。
自分のせいだ。
固く目を閉じる。
ユマはこんなに優しい。そして強い。熱が出て苦しい思いをしているのに、僕の事をずっと気遣っていた。僕が自分を責めないように、笑顔を向けてくれた。
こんな僕なんかの為に。
「ユマ…」
リィンの頬に涙が伝う。
ユマはラディスの大事なひとなのに、また傷つけてしまった。
僕は何も出来ない。何も護れていない。
「君に、僕の命をあげたい」
それが出来たら、どんなに良いだろう。
階段を上がる足音が聞こえてきて、リィンは両手で涙を拭って深呼吸をした。部屋の扉が開き、ラディスと従者がやってくる。
「リィン。話は聞いた。あの後町の住人達がお前は悪くないと証言して、あの男の方が引っ張られていったようだ」
リィンはこっくりと頷きながら場所をラディスに譲った。
「僕は大丈夫だ。それよりユマを…」
一瞬ラディスはリィンを見つめ、ああ、と言ってユマの容体を診察し始めた。ラディスは真剣な表情で心音機を取り出し、胸に当て、脈を測る。それから緊張を解いて息を吐き出し、ユマの頬に触れた。
「一時的なものだから大丈夫だ。心臓の方も安定している。この熱が下がればじき良くなる」
「ああ…。良かった」
ほっと胸をなでおろす婦人の従者。彼女は眼鏡を外して目頭を押さえた。少し泣いていたようだ。ラディスは鞄の中から薬を取り出して、従者に説明をしながらそれを手渡す。
「お前は少し騒ぎすぎだな」
「だって、坊っちゃん。私はお医者様ではありませんもの。そりゃあ心配でたまりませんわ」
ラディスは診療中に出て来たのですぐに帰ると言った。
「お前は?」
リィンは首を横に振り、
「僕はユマが起きるまで、看病したい」
と言って、俯いたままベッドの脇の椅子に座った。あまり顔を見られたくなかった。
それからラディスが去り、従者はリィンに礼を言ってこまごまとした用事を片づけると階下に降りて行った。リィンは冷水で冷やした布を何度となく取り替えて、じっと傍についていた。しばらくしてジェイクが帰宅し、挨拶を交わしていたところでユマが目を覚ました。だいぶ顔色も戻り、リィンに気付いて笑顔を向けた。夕食を一緒にと言われたが、エンポリオも心配しているだろうからと頭を下げて家を出た時には、もう空には星が輝いていた。
誰もリィンを責めたりしない。
リィンは星空を見上げて、真っ暗な石畳の道を歩いて行った。
◇◆◆◆
「ラディス様。ユマさんは大丈夫でしょうか」
診察室の後片付けをしながら、クレイがラディスに話しかけた。
「ああ。いつもの軽い発作だ。心配ない」
昼頃、ジェイクのところの従者がラディスを呼びに来て、一時は騒然となった。結局は何事もなくてほっとしたクレイだったが、ラディスから事の顛末を聞き、また心配になってしまった。それに昼過ぎから診察を受けに来た患者達が、どこで聞いたのか口々にその事件の事を言ってはリィンを心配するのだった。
*
「あ、あのよ先生。あいつどうした」
腕を骨折して通院していた土建業の男性が、おずおずとラディスに声をかけた。
「ん?」
「ほら、あいつだよ。イリアス族の小僧」
「リィンの事ですか」
クレイが助け舟を出す。男性はわざとらしく膝を打って、ああ、そうそう、そういう名前だったなと言った。
「最近見ねえなと思って、さ」
ラディスは視線を手元に向けたままさらりと告げた。
「今は少し使いに出している」
男性は一瞬じっとして、また照れたように大声を上げる。
「ああ!なあんだ!そうだよな。いや、別にどうっていうんじゃなんだ。…その、俺、前にあいつに気味悪いとか何とか、色々言っちまったからよ。その、出て行ったのかと思ってよ」
ぽかんとするラディスとクレイをよそに、男性はそうかそうかと、一人で頷きつつ部屋を出て行った。皆似たような感じで、リィンを心配して聞いてくる。最後に現れたロムじいさんに至っては、何故リィンが居ないのだと怒鳴って帰っていった。いつの間にかすっかり仲良くなっていたようである。
*
「ラディス様、聞いてもよろしいですか?」
クレイは物思いから戻ってラディスに声をかけた。彼は机に向かって記録をつけている。
「何だ」
「どうしてリィンをエンポリオさんの所へ預けたんです?」
確かにリィンの体調は戻っていなかったが、何の相談もなしに決めてしまった事で、ニコルも怒っていた。
聡明な彼はニコルを怒らすような事は決してしない為、今回はクレイにもその真意がつかめずにいた。ニコルが怒ると食事が貧相なものに変わってしまう。その食事をとる毎日がもう十日以上は続いているだろうか。
「何か理由があるのなら、ニコルさんにはちゃんと説明をした方が…」
「理由なんてない」
「え?それでは…」
「お前も変わったな、クレイよ。あいつがここに来た時は、ここに置く事を反対していただろう」
「それはそうですが…。リィンが不憫でなりません。私はラディス様が、リィンの事を憎からず思っておられるのかと考えていました。今さら追い出すのですか」
クレイが珍しく詰問口調になっている。ラディスは苦笑を洩らした。
「どうやら俺が聖人か仙人だとでも思っているようだな。まいったもんだ…」
「は?」
意味が分からずクレイはラディスを見つめる。彼は天井をぼんやりと見上げていた。すっきりとした顎のラインに繊細さが滲んでいる。
「憎からずなんてもんじゃないさ。…あやうく手を出しそうになる」
クレイは絶句して、それから一瞬で理解した。自らの思いの至らなさを恥じた。
「も、申し訳ありません。私は何て無神経な事を…」
リィンはイリアス族だ。それも彼の大恩人である人の娘だという。そんな大事な娘を、護衛という形で雇っているうえに、彼の歩む茨の道をともに歩かせようなどと考えるはずもない。
「良いさ。俺の芝居は完璧だ」
「ですが、しかし、それでは…」
リィンにとっても彼にとっても、辛い事にしかならないのではないか。
クレイは目を伏せた。
何という事だ…。ラディス様は身を引くおつもりだろう。しかしリィンは、そのラディス様のお心を知らずに傷ついているに違いない。リィンはどうするだろうか。
そのうちラディス様の事を、諦めるのではないだろうか…。