046:亡くすという事
数日しか経っていないのに、とても懐かしく感じる玄関をそっと開いて様子をうかがう。今日は既に診療を終えているようだ。珍しい。いつもは星が輝く頃まで開いているのに、廊下は静かで薄暗い。居室の扉を遠慮がちに開くと、診療が早めに切り上げられたのだと知った。
ひどくやつれた男性が、テーブル席に座っていた。その向かいにラディスが座り、クレイは壁を背にして控えている。ニコルとチェムカは台所にいて、リィンに気づいて声を出さずに手招きをした。
「ついさっき来たとこなのよ。亡くなった娘さんの、ご家族みたいなんだけど…」
ニコルがリィンに耳打ちする。
「あれは…」
ロンバートの病院で暴れていた女性の、主人だ。リィンは少し緊張する。
「どうかあいつがした事を許してやってくれませんか。本当に、どうもすみませんでした」
ゆるゆると頭を垂れ、そのまま小さな声で話しはじめた。
「私達はここからずっと遠くにある村からやってきました。村から四日間、交互にあの子を背負って歩いて来たんです。この帝都には、私達のような貧しい者でも治療を受けられる病院があると聞いていましたので…」
彼はずっと俯いたままで、目の前にいるラディスには視線を向けようとはしない。
「ご主人、食事はちゃんと取れているんですか?」
「え?え、ええ…」
やっと顔を上げて男性がラディスを見た。しかしすぐに視線をはずしてしまう。
ニコルが無言で台所に立った。
「今はどこで寝泊まりを?」
「広場近くの安宿です。…私はあいつの兄です。あいつは、パウラには主人はいないんです。女手一つで娘を育てて来たんです。あの娘は、パウラにとったら自分の命より大事な娘でした…」
最後は消え入るような声で、パウラの兄は手で顔を覆った。骨ばった指から、啜り泣く声が漏れる。
「せ、先生を恨むつもりはありません。分かっているんです、あいつだって本当は…」
「パウラさんは今は?」
「眠っています。泣き疲れたんでしょう。パウラはあれからずっと部屋にこもりきりで、泣き続けているんです。もう私も、どうしたら良いか…。私も村に家族を残して来ているので、いつまでもここに居る訳にもいかないし」
静かに話を聞いていたラディスがゆっくりと息を吐き出した。
「…分かりました。どんな理由にせよ、あなた方の娘さんを助けられなかった事は事実です。それは本当に申し訳なく思っています。どうでしょう。パウラさんをしばらく預からせてもらえませんか」
「え?」
「このままでいたら彼女の心はもっと病んでしまう。後を追いかねない。今は医師達に向けられる憎しみでかろうじて保っている状態だ。彼女の心を治療するには時間が必要です」
「し、しかし…。もうお金が…」
「大丈夫です。俺を信じていただけませんか」
ラディスは不安げな表情を浮かべる相手をいたわるように微笑んで、ひとつ頷いた。
パウラの兄は慌てて席から立ち上がり、それから身体を折り曲げて言った。
「あ…ありがとうございます、ありがとうございます!」
そう言いながらその場に泣き崩れた。チェムカがそっと、彼の痩せた肩を抱く。
きっとずっと悩んでいたのだろう。
娘を亡くした妹の悲しみは重く、計り知れない。何とかしてやりたいが、もう金も底をついてしまった。八方ふさがりだ。この町には知り合いがいるわけではなく、どこに何を言って誰を頼ったら良いのかも分からない。もう村へ帰らなければならないけれど、あの道を引き返すのも容易ではない。それに帰ったところで、弱り切った妹と自分の家族とを養っていける程の、蓄えも稼ぎもない。いっそ二人で首をくくった方が、楽なのかもしれない…。そこまで思いつめていた時、ふと、病院で出会った彼の事を思い出したのだろう。
「先生。そったらパウラさんをあたすの家の近所にしてくれねえだか」
「いや…」
ラディスは立ち上がりながら僅かに言い淀んだ。
「母さんにも事情説明します。何だか、他人事だとは思えねえもの」
「ラディス様、私もそれが良いと思います。チェムカさんの家は家族も多く、人手があっても良いかと」
クレイがチェムカを助ける。
「…そうか」
「す、すみません」
よろりとパウラの兄が立ち上がった。ラディスが手を貸して椅子に座らせる。今日はもう遅いので馬車を呼ぼうと言ったが、彼はそれを固辞して首を横に振り続けた。クレイがついて行く事で話がまとまり、玄関まで送る。
「明日には宿に馬車を用意します。馬の足なら一日走り続けたら村へ着くでしょう」
「あ、あ、ありがとうございます。あなたは、何という崇高なお方なんでしょうか…」
ラディスの顔に陰りが差した。一瞬の事で、その表情には誰も気づかない。
「ああ、間にあって良かった。これ少ないですけど、二人で食べてちょうだいな」
ニコルが大きめの身体を揺らしてやって来て、紙包みを渡す。
「残り物で申し訳ないけど、お芋をふかしたものよ」
パウラの兄は何度も頭を下げながら、クレイと石畳の道を去っていった。
◇◇◇◆
「あたすも、北の村からこの町に家族で来たんだわ…」
病気の父さんの為に。噂で聞いた病院を目指して。
リィンとチェムカは彼女の家へ向かっていた。あの後リィンはラディスにワドレットからの包みを渡して、ニコルとチェムカを送る為にまたすぐ診療所を後にした。何だか気まずくてラディスの顔が見れなかったし、彼も何も言わなかった。
先にニコルを家まで送り、そこからチェムカの家へと向かう。
「とっても良くしてもらったんだけども、父さんを苦しめてる病気は難しいものだったんだべ」
このベイルナグルに来て半年後、チェムカの父は旅立った。たくさんの愛する家族を残して。
「それからも、先生にはお世話になりっぱなしだ。あたすの働き口も用意してくれて、今でも時々様子を見に家に来てくれるだ」
リィン、早く帰っておいでな。そう言ってチェムカは家に帰っていった。見上げると夜空には無数の星が瞬いている。
あの女性は、人殺しと叫んでラディスを殴った。僕はあの時、どうしてラディスが殴られなくちゃいけないんだと思った。でも…。
きっと、そうしなければ心を保っていられなかったんだ。あの女性の心は、殴られる痛みよりもずっと辛くて深い痛みを感じていた。
「ラディス。あんたはそこまで、分かってたの…?」
人はいずれ死ぬ。必ず一度はそうなる。それが、とても苦しくて悲しい事なんだ。
生きていく残された者達は、それぞれにその悲しみを乗り越えていかねばならない。
◇◇◆◆
翌日もリィンは研究員達やエンポリオが出かけた後に朝食の後片付けや掃除をしていた。ちょうど玄関先を掃き掃除していた時、ふと顔を上げると隣の会社の玄関に見知った人物がいるのが見えた。
「ユマ!」
黒の上着に藍色のスカート、真っ白でつばの大きな帽子をかぶったユマが、こちらを振り返って笑顔になった。ブラウンの巻き髪がふわりと肩で揺れる。
「まあリィン!珍しい所で会ったわね」
可愛らしい笑窪を見せて手を振りながらやってくる。
「ユマは?お使い?」
少し背の高いユマを見上げてリィンも笑顔を向けた。
「まあそんなところね。リィンもお使いか何か?」
「あ、ああ。うん」
正直なリィンは途端に言い淀んでしまった。勘の良いユマは、それだけで何かあったのだと分かった。
「どうしたの?お使いじゃあなさそうね」
「いや、その…」
「このユマさんにお話しなさい。さ、座って」
ユマはそのまま玄関先の階段にちょこんと座ってしまった。
「ユマ。綺麗な服が汚れちゃうよ」
「良いのよ。私はこういうのが好きなの。父にははしたないって叱られるけどね」
にっこりとユマが笑ってリィンを見上げた。やっぱり、ユマって良いな。リィンはそう思いながら隣に座る。
「…ふうん。なるほどねえ。ラディスがそんな風に言ったの」
「うん。…きっと、僕が面倒になったんだよ」
「そうかしら」
「そうだよ」
しゅんとしたリィンを横目で見て、ユマは、よし!と一声かけて立ち上がった。
「こういう時はね、リィン。美味しいお菓子を食べてお茶を飲みながら、悪口を言うに限るわ!」
「悪口?」
「そう。ラディスのね!ここの事はエンポリオに任せて、私の家に来ない?昨日はケーキを焼いたの。ちょうど良いからリィンに毒見係になってもらうわ」
リィンは自然と笑顔になる。会社にいるエンポリオに一言断って、二人はユマの家へと出掛けていった。