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紅い月 青の太陽  作者: 茂治
第四章
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043:大切な事

「誰かっ。誰かいないの!?」


やっとの思いで診療所にたどり着き、崩れるようにして玄関に飛び込む。


「先生!クレイ!」


誰もいないはずはないのだが、診療所はしんと静まり返っていた。


どうして誰も出てこないのよ!


ベルシェはリィンを長椅子に座らせ、診察室へと駆ける。傷を受けてからもう十分は経過している。早く特効薬を打たなければ。特効薬には注射用と服用するものと二種類ある。どちらもこの診察室には置かれているはずだ。

扉に飛びついて、取っ手を掴む。すっと血の気が引いた。鍵がかかっている。

乱暴にがちゃがちゃと回すが、開く感触はしない。ベルシェは髪を振り乱して扉に体当たりをした。


「何で鍵なんか、かかってるのよ!先生、いないのっ!?」


何度も何度も、扉にぶつかるが、ぴくりともしない。

あきらめるわけにはいかない。早くしないと。早く!

扉をばんばんと叩く。叩き続ける。手の平の痛みも、体当たりをした肩の痛みも感じない。

自分の背後ではリィンが震えながら苦しそうに呼吸をしている。そう思うだけで、息がつまりそうになる。


長い廊下に、扉を力任せに叩く音とベルシェの叫び声が反響した。


「開いて!お願いよ、特効薬が必要なのよっ!あの子が、あの子が死んじゃう!」


死なせるわけにはいかない。

死なせない!


もう一度扉を叩こうとした時だった。

びくともしなかった扉の施錠がガチャリと音を立て、すうっと扉が開いた。


丈の長い上着を羽織った、長身のラディスが無言で立っている。

髪を振り乱したまま呆然と立ちすくむベルシェの横を通り過ぎて、長椅子に座るリィンの傍へ行き慣れた手つきで注射をした。

リィンは僅かに口を開き何かを言おうとしたが、そのまま気を失ってしまった。彼は立ち上がり、ベルシェに向き直って言った。


「リィンは助かるよ。大丈夫だ」


あんぐりと口をあけてラディスを凝視する。


「い、いたのにどうして、出てくれなかったの。私を騙したの…」


「騙してなんかいない。ただ思い出して欲しかったんだよ」


青い瞳がベルシェを見つめる。


「自分が医者だって事を」


彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。


「ひ、ひどいわ…」


彼は弱々しく笑った。

ああ、綺麗な顔。場違いな思いがベルシェの胸に浮かぶ。


それに、泣いたのは何年ぶりかしら…。


「ベルシェ。俺はお前がロンバートの娘だという理由だけで、強要したり縛るつもりはないよ」


ラディスが目の前に立った。彼から良い香りが漂う。ベルシェはこのミントハーブの匂いが好きだった。


「それにお前にも、自分がロンバートの娘だからという理由に頼って生きて欲しくない。自分で考えて、自分の好きな道を行けば良いんだ。理由を言い訳にせずに、自分の足で立って歩く。それが自立というもんだぜ」


胸が詰まる。私はこんなに頑張っているのに、ひどい人ね。…見抜いていたのね、厳しい人だわ。


でも、優しい人。


「…私を泣かせたなんて。父に言いつけてやるんだから」


「悪かった」


ぽんぽんとラディスが頭をなでる。ベルシェは泣きながら笑顔を彼に向けた。


でも、おかげで大切な事を思い出したわ。忘れちゃいけなかった、大切な事を。


幼い頃から見ている父の背中。医師である父に、泣きながら感謝を述べる婦人。父に感謝する人々を何度となく見て来た。それでこの仕事がとても大事なもので、人の命を助けるという事が、どれほど尊いものなのかを知った。そうなのだ。皆、医者というだけでありがたがってくれる。丈の長いこの上着を羽織っていると、まだ研修中のベルシェにさえ、先生、と言って患者は話しかけてくる。何の疑いもなく、屈託なく向けられる信頼のまなざし。こんな私達にまで、治療してくれるなんて、と言って目に涙をためる女性。こんな汚い格好じゃ、申し訳ないと言って恐縮する老人。無防備でけなげな人々。


私は何がしたかったの?ねえ、ベルシェ…。


◇◇◇◆


頭に靄がかかったみたいにどんよりとして、身体が重い。リィンは何とか首を動かして辺りを見渡した。寝室のベッドに寝ているようで、すぐ傍にベルシェが立っていて記録をつけている。リィンと目が合い、ふてくされたような顔になった。


「目が覚めたようね」


「僕…助かったんだ」


「あなたってどうかしてるわ」


「…そう、かな」


ベルシェがため息をついて、むすっとした表情で言った。


「…あなたにひどい事したのは謝るわ、ごめんなさい。もうしないから安心して。でも助けてもらったお礼は言わない。おあいこだものね」


リィンは薄く笑った。気の強い彼女らしい言い方だ。あの表情は怒っているんではなくて、照れているのだと分かると、心に温かいものが広がった。


「うん」


ベルシェが部屋を出て、入れ違いにニコルとチェムカがやって来た。


「大丈夫けえ、リィン」


「イグルに襲われたって聞いてね、もうあたしはびっくりして、心臓止まるかと思ったわ」


クレイが後から来て、リィンの枕を高くしてくれた。


「今日って…診療は?」


「診療は続いていますよ。ラディス様が下におります。昨日から半日は眠りっぱなしでしたね」


「んもう!先生がついていながら、何でこんな事になるんでしょ!」


ニコルはぷりぷりしている。リィンは笑った。


「僕の方が護衛なんだよ、ニコル。それにこんな事になったのも僕がへまをしちゃったからで…」


そういう事じゃないの、と言いながらニコルは納得しない。


「それはそうと、ちょっと待っててね、リィン。今スープを持ってきたげるから」


そう言い置いてニコルは慌ただしげに去っていった。


「リィン、そのお、女の子だったんだべな…」


「えっ」


チェムカが眉をこれ以上下げられないほどに下げて、ごにょごにょと呟いた。

熱を出していたリィンの身体を拭こうとして、分かったのだと言った。その時にはニコルも傍にいたので診療所の人々全員が本当の事を知った事になる。


「黙ってて、ごめんね」


赤茶の瞳が真っ直ぐにチェムカを見つめる。少し寂しそうに揺れた。


「そったら事、全然良いだよ。リィンはリィンだもの」


「…ありがとう」


「ただ、ニコルが先生を怒ってねえ、大変だったんだ」


「ええ。女性に危険な仕事や重労働をさせて、何たる事かと。それはすごい剣幕でしたよ。そのあと何とか納得してもらえましたが」


チェムカとクレイが笑っている。ちっと先生が気の毒だったべなあ、とチェムカ。

ここの人達はいつも優しい。リィンは少しだけ泣きそうになった。


◇◇◆◆


次に目覚めた時辺りは真っ暗で、薄くランプの灯が入っていた。ばきばきと節々が鳴りそうな身体をゆっくりと起こす。ずっと寝っぱなしで全身がだるかった。


「気分は?」


ラディスの声。

窓の近くの椅子に座っていた彼はベッドの傍へやって来て、瓶に入った水をグラスに注いでリィンに手渡した。それからベッドの脇に腰をかけて、顔をリィンへ向ける。


「あんまり…」


水はよく冷えていて美味しかった。


「だろうな」


「ごめん。ラディスのベッド占領しちゃってるね」


「気にするな。俺はクレイと寝てる」


「ええっ!!」


くく、とラディスの笑い声が闇に溶ける。冗談に決まってるだろう。


「あれは、どこまであんたが仕組んだ事?」


ラディスは無言でリィンを見つめる。リィンはただ何となく、そう感じていた。彼が現れてリィンに注射をした時に、ふとよぎったのだ。知ってたの?あの時そう言おうとした。


「俺を信じろってそういう事かよ。なんて奴だ」


「いくら俺でもイグルまで操れるわけがないだろう」


「ほんとかな」


「ま、結果オーライってやつだ。良く頑張ったな」


「…僕がイグルになったら、真っ先にあんたを食べるよ」


ラディスが暗闇で微笑んだ。どきりとする。この表情は、心臓に悪い。

彼の腕が伸びて、長い指でリィンの頬をなでた。


「良いよ。お前にやる」


リィンは気絶しそうになった。こんな単純な言葉なのに、何故こんなにも恥ずかしくなるのか分からなかった。熱のせいだ。そう思う事にした。


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