042:北の森
「いい事?絶対に私の邪魔だけはしないでちょうだい」
「…はい」
ベルシェはリィンを鋭く睨みつけて歩き出した。彼女の前には急きょ雇った護衛の男がいて、後ろからはリィンがついてきている。
「イグルの特効薬の研究には、その化け物の組織サンプルを採取する必要があるのよ。あなたは知らないでしょうがね。命にも及ぶ危険があるから、私の為にラディス先生がわざわざあなたをつけたの。いざという時はちゃんと働きなさいよ」
暗い色のマントを羽織りフードをかぶっている為、彼女からはリィンの表情は見えない。三人は北の森へと分け入った。
女のくせに、と言われるのが一番嫌いだった。プライドが高く気の強い女性の類にもれず、ベルシェはそう言って蔑まれるのが大嫌いだったし、そんな風にして相手を貶めようとする人間を軽蔑した。だからこそ誰よりも努力を惜しまずに必死になって勉強に励んだし、だからといって他の事もおろそかにはせずに、全てを全力でこなしてきた。
ベルシェは父を尊敬している。物心ついた時から、自分はいつかその父の仕事を受け継いでゆくのだと思っていた。人の命を助ける医師という職業は偉大な聖業だとさえ思っている。ベルシェには上に兄が二人いるが、兄達は医者にならなかった。それぞれがルキリア国の遠方で、家庭を作って暮らしている。
前を歩く男が、行く手を阻むかのように広がる木々の枝葉を剣で薙いでゆく。
「おかしいなあ。いつもはこの辺りに一匹ぐらい転がってるもんだが」
「もっと奥へ進んでちょうだい」
「あまり行くとまずい」
「行くのよ」
男性は舌打ちをして、森の奥へと歩を進める。
いやあね、これだから学のない男って…。
父のロンバートは愚直な程に真っ直ぐな性格で、そのせいで損な事もたくさんかぶってきていた。しかし母は、そんな父を一度も責めたりはせずに陰で支え続けた。
この帝都にラディスがやって来た時、父が笑いながら母に彼の事を話したのを覚えている。
あのルーベンに食ってかかった若造がいる。あいつは理想ばかり語っている。どこにそんな自信があるのか分からない、世間を知らなすぎるのではないか。きっとそのうち潰されるさ。
母は黙って聞いていて、そして一言、こう言ったのだ。
良かったですね、あなた。味方が来てくれて。
それからほどなくして父はラディスとともに過酷な道を歩む事を決めた。
ベルシェが初めてラディスと会ったのは、家族と彼とで食卓を囲んだ時だった。噂には聞いていたが、その眉目秀麗な容姿は帝都の中でも飛び抜けていた。だがベルシェは彼を嫌っていたし、自分と変わらない年齢の為、信用ならなかった。父を危険な所へと連れていってしまった張本人なのだから。しかしラディスは既に紳士の振る舞いを身につけており、同世代とは到底思えなかった。
彼は全てを見透かしていたのだろうか。用意された食卓へつく前に、紹介された母に心からの礼を述べたのだ。
それからベルシェが彼の事を好きになるのに、そう時間はかからなかった。
彼女自身、開かれた診療システムには手放しに賛成するが、この世の中善良な人々ばかりではない。綺麗事だけでは済まされない事を知っている。こちらがいかに手厚い治療を正規の料金で施そうとも、言いがかりをつけたり、たかりまがいの事をする者がいる。そんな輩はやはり貴族のような富裕層ではなく、山間部に生活する貧困層や所得の低い労働者といった者なのである。ラディスはこのような問題が起こる事も予想していたようで、皇族の目を武器にして政府にわたりをつけ、その要人の中にも味方を作って同時進行で法の整備にも取り掛かっていた。それでも悪意のある人々はこちらを食いつくそうと襲いかかってくる。先頭を走り続けるラディスはその問題の処理を一手に引き受けて、時には金を握らせて片づけているのだ。
彼は何をするのも厭わない。
父も、その辺は覚悟の上のようだ。しかしベルシェは違う。
何故そんな人間にまで、こちらが手を差し伸べてやらなければならないの?
私達の好意を踏みにじるなんて、許せない。
だからこそ、ベルシェには頑なな一面がある。貴族や富裕層は一定のモラルを持っていて接する時も安心できる。だけどきちんと教育を受けていない人々ときたら、最悪である。
「あったわ」
茂みに少し隠れるようにして、干からびたイグルの死体が見えた。ベルシェは斜めにかけている麻の鞄から密閉性の高い小瓶とピンセットを取り出す。傍へしゃがみ込んで、腐敗の進んだ紫色の組織をはぎ取って小瓶に入れ、きつくふたを閉めた。
「うへえ。相当な変わりもんだぜ」
護衛の男は顔をしかめながら言った。彼女は力いっぱい相手を軽蔑して言い放つ。
「あなたになんか、分からないでしょうね」
「けっ。お高くとまりやがって。さっさと帰るぞ」
リィンは終始無言で背後を警戒している。どうしてこんな子を…。ベルシェの胸にまた憎しみが滲む。
ラディスとともに走りたいと願い、レーヌへ留学して猛勉強の日々を終え、この町に帰ってみたら、彼の隣には少年のようなみすぼらしい格好をした見知らぬ女性がいた。しかもイリアス族だなんて。今でさえ多すぎる敵を、また内外に増やすだけだと思った。その上ラディスを見つめるその顔は、恋する女性のそれだった。
自分が一番嫌っていた軽蔑すべき言葉を使ってでも、排除したかった。
許せなかった。これでもかと攻撃すれば、今までの女性達のように逃げてゆくと考えていた。だって彼女達はラディスの事なんてこれっぽっちも知らないで、彼の容姿にだけ恋しているのだから。
「イグルだ!」
男性の叫び声に、はっと我に返った。
三ナルグ程しか離れていない茂みの先に、野犬型のイグルが三匹。うなり声を上げながらこちらの様子をうかがっている。男とリィンがベルシェの前に立ち、剣を抜いて構えた。
「…おかしい。何故襲ってこない」
「うん。何か変だ」
護衛の二人は慎重にイグルを観察する。
「何をしているのよっ。早く退治しなさい!その為に雇ったんですからね」
ベルシェの言葉に、男がゆっくりと彼女に顔を向けた。
「イグルは向こうよ!」
「…やめた。こんな女、護る気もおきねえ」
「何ですって!?こっちはお金を払っているのよっ」
男は顔を歪めて懐に手を入れ、硬貨の入った小袋を取り出す。がしゃり、とベルシェの足元にそれを投げ落とした。
「じゃあな。後は好きにやってくれ」
そう言いながら身を翻して男は走り去ってしまった。
「待ちなさいよ!」
ベルシェが一歩踏み出す。
「ベルシェ!」
リィンの緊迫した声。
ベルシェの視界が暗くなった。まるで太陽が雲に隠れてしまったようだ。
背筋にぞわりと悪寒が走る。
すぐ左に、その影を作っている主がいた。ものすごく巨大なイグルが一匹。元は大熊だったのだろうか、二本足で器用に立っている。その躯を覆っている毛は体液でべとついており、目や口は大きく裂けて赤い肉がはみ出ていた。ベルシェの黒目がちの瞳が大きく見開かれる。
「ガゴオオオオ」
イグルが奇妙な吠え声をあげながら太い腕を振り下ろした。
身体が凍りついてしまったかのように動かない。殺される、そう思った瞬間にぐらりと身体が傾いた。
リィンがベルシェの腕をとり、素早く彼女を引き寄せたのだ。
イグルの腕は宙を切り裂き、麻の鞄が無抵抗に遠くへと飛ばされた。
「か、鞄が…」
リィンが自らの背にベルシェを隠して怪物との間合いを取る。
野犬型のイグル三匹と、巨大なイグルに囲まれてしまった。間合いをとったままどちらが先にこの新鮮な獲物を奪うのか、イグル同士がいがみあっている。
「あの男!許せないわ…」
ベルシェは震えながらもそんな事を言う。
「あの人にだってプライドはあるよ。あなただけじゃない」
思いのほか冷静な声でリィンが呟いた。
「相手の態度で簡単に揺らいでしまうような信念なら、最初から持たない方が良い」
「なっ…!」
ベルシェはすぐ傍にいるリィンを睨んだ。てっきりこちらを向いて言ったのかと思っていたが、リィンは前を見据えたままだった。その瞳が深紅に揺らいでいる。息をのんだ。
白い肌に紅い瞳。不思議な『力』を使いこなす、凶暴で残忍な悪魔。
今ではその血が絶えようとしている希少な種族。
最初に動いたのは野犬型のイグルだった。三匹が一気にベルシェとリィンに向かって走り出した。その瞬間に二匹のイグルの頭が飛んだ。紫色の化け物の血が辺りに飛び散る。リィンの『力』をかわした一匹が飛びかかり、リィンは咄嗟に剣でその牙を防いだ。その瞬間、巨大なイグルが辺りの木々が震える程の咆哮を上げて襲いかかってきた。
「ガアアゴオオオオオ!!」
「きゃああああ!」
「ベルシェ!しゃがんで!」
何を考える暇もなくベルシェは両膝をがっくりと折り曲げてしゃがみこんだ。
大熊のイグルの首が、前触れもなしに真横にずれる。切り口から勢いよく紫の血が噴き出し、頭が地面へぼとりと落ちた。
頭から切り離された胴体が、よろよろとベルシェに近づいてくる。
「いやあああああああ!」
ベルシェは恐怖のあまり悲鳴ではなく絶叫した。身体が動かない。
すっと視界の端を横切り、リィンがその胴体に飛び込んでいった。がくん、とイグルの動きが止まる。頭を亡くしたその胴体がゆっくりと傾き、どうと真横に崩れ落ちる。そこには深々と剣が突き刺さっていた。
「ベルシェ!怪我はない!?」
リィンが荒く息をしながら振り返ってこちらを見る。イグルの血は体内に入らない限りは大丈夫だ。ベルシェはしりもちをついたまま、小刻みに頭を縦に振る。
「よかった…」
リィンはイグルの返り血を頭からかぶっていた。でも怪我をしていなければ、大丈夫…。
「リィン!」
ベルシェは悲鳴を上げた。右腕のブラウスがずたずたになっていて、その白い腕から、真っ赤な血が流れている。大熊のイグルに『力』を集中させた為に、その隙をついて野犬型に噛みつかれたのだろう。そのイグルもすでに絶命している。しかし…
「た、大変だわ!早く特効薬を…」
ベルシェは四つん這いになりながら、麻の鞄を探す。
「そんなのは後だ。イグルが仲間を呼んだ…」
「えっ」
リィンに腕を掴かまれ、よろりと立ち上がる。森のずっと奥、木々の間の茂みが、ざわざわと不気味に揺れている。
「早くこの森から抜けるんだ」
そのままリィンに腕を引っ張られるようにして走り出した。ベルシェは足がもつれて何度も転びそうになりながら、必死に足を動かす。恐ろしくて後ろを振り返れない。こんなに怖い思いをするのは生まれて初めてだった。どんどん息があがってゆく。苦しい。でも走り続けなければ。すぐ後ろにあの化物が迫って来ているような気がして、叫び出したい衝動に駆られる。でもそんな体力、使っていられない。
この森は永遠に続いているの?どうしてまだ森から抜けられないの?
来た時より、出口がずっと遠く感じる。
「…こっちの方向に行けば、診療所の裏に、出れる」
走りに走って、もうこれ以上は無理だというところでやっと森の切れ目が見え、リィンの足が止まった。ベルシェも肩で息をする。膝ががくがくとして立っているのがやっとだし、全身が心臓にでもなったかのように、どくどくと脈打っていた。
「行って…」
「え…」
「僕はもう、走れない」
戦慄した。
嘘…。
リィンががくりとその場にひざまづいてしまった。ベルシェの頭がぐるぐると混乱する。
そうだった、この子はイグルから傷を受けていた。腕から血を流しながらベルシェの手を引いて、走り続けていたのだ。なんて小さくて線の細い身体。この子がいなければ私は死んでいた。自分がイグルになるかも知れないっていうのに、そんな事もお構いなしに走り続けた。
私を助ける為に。
どうして…どうして。
「どうして私を助けたのよ…」
あの男みたいに、逃げれば良かったじゃない。
良い気味だって、笑えば良かったじゃない。
あなたをいじめていたのは、私なのよ。
あなたにひどい事をしていたのは、私なのよ。
なのにどうして、自分が傷ついてまで守ったりするの…。
「そ、そんなの…。僕は護衛だ。ベルシェの命を守るのが、僕の、仕事だ」
無意識に身体が動いていた。
ベルシェはリィンの細い腕をとって首に回し、身体を支えて歩き出す。
「あなたをイグルになんかさせないわ。夢見が悪くなるじゃない」
助けなければ。私は一生後悔する。