040:不穏の予感
「あんた、結局昨日もずっと仕事してて、そんなに寝てないだろ?大丈夫なの?」
「誰にものを言ってる。今日は遅くなるから先に帰っていろよ」
リィンとラディスはロンバートの病院を訪れていた。今日は若い研修医達がこの国指定の病院に来ており、ラディスはその指導と外科の手術を任されていた。彼は普段と何一つ変わらない様子だ。寝ていないのに、その体力と精神力はどこから来ているんだろうかとリィンは不思議でならない。
「ああ、リィン。そうしたらお使いを頼めるかしら」
受付の女性が話しかけてきた。リィンは空いた時間に、病院のちょっとした仕事を任されるようになっているのだった。今ではラディスの護衛というよりも、このお使いの仕事の方が大きな割合を占めている。
「この明細をレイルトンさんのところへ持っていってくれる?」
リィンが差し出された封筒を受け取り、玄関へ向かおうとした時だった。
「この人殺し!娘を返して!!」
女性の、悲鳴に似た叫び声が廊下に反響した。一瞬で空気が凍りつく。それからがたがたと物音がして、複数のなだめるような声と女性の叫び声が聞こえ、それからばたばたと数人が固まりになって廊下へ出て来た。
丈の長い上着を着ている人物が三人。医師や助手と思われるが、一様に表情を強張らせている。その中心にいるのは、長い髪をばらばらに乱れさせたまま抱えられるようにして歩いている中年の女性。折れてしまいそうな程痩せている彼女は、まだ何事かを叫んでいる。その隣で女性の肩を抱くようにしている男性。取り乱している女性の主人のようだ。
「もう良いから、やめなさい」
男性がなだめようとする。彼もがりがりに痩せていて、身なりも貧相で表情には疲労が見て取れる。
「私の娘が殺されたのよ!ここに来れば治ると聞いていたのよ!それなのにっ…」
女性は主人の手を振りほどき、医師達に向き直った。リィンからはその背中しか見えないが、恐ろしい何かが彼女に宿っているように見え、全身に悪寒が走った。
「許さないわ!私の大事な娘を死なせたなんて…。責任者を出しなさいよ!訴えてやるわ!」
その場にいた全員が、彼女の鬼気迫る凄まじい叫びに凍りついた。病室から顔をのぞかせている人々も息をのんで動けずにいる。その中で、ラディスだけが素早く動いた。
医師達と女性の間に割って入るようにして、彼女の前に立ちはだかり、告げた。
「ここの責任者は俺だ」
驚いたリィンは咄嗟に『力』を発動させようと身構えるが、ラディスはすかさずそれを目で制した。
「そんなはずはないわ!ここの院長はあんたみたいな若いのじゃないはずよ!!」
ラディスの背後にいた医師達の中の一人、若い女性が憤然とした表情で一歩前に出ようとする。が、それも彼が片手で制する。
「この現場の責任者は俺だ」
ラディスがそう言い終える前に、発狂せんばかりの女性は彼の頬を思い切り平手で打った。乾いた音が辺りに反響する。
「人殺しっ!ひとごろし!娘を返してちょうだい!!」
なおも殴りかかろうとする女性を、主人が羽交い絞めにして止めた。その様子を無表情のまま見下ろしながら、ラディスは冷静な声音で言う。
「処置に間違いはないし記録も見せる事が出来る。それでもそうやって騒ぎたてるんなら、正当な手続きを踏んで訴えを起こす事だ。それでも、あなた方に勝ち目はない」
だんだんと彼の頬が赤く染まってゆく。リィンは棒立ちのままそれを凝視した。瞳は紅く揺らいでいるが、何とか『力』を押さえている状態だ。
「な、んですって!」
女性は怒りのあまり震えている。ラディスは背後にいる一人に紙とペンを用意させ、それにすらすらと書きつけ、男性を見ながらその紙を差し出した。
「ここに俺の診療所がある。話はそこで聞こう。今日はこのままお引き取り願いたい」
男性は紙きれを受け取り、女性を促してよろよろと歩いてゆく。
「許さないわ…覚えていなさい…。私の娘を…私の、娘を…」
女性の瞳は狂気に歪んでいる。誰も何もできぬまま、二人が去ってゆくのを見守るしかなかった。
「ラディス!」
リィンがラディスの元へ駆け寄り、服の裾を鷲掴む。
「どうしてっ…」
言い募ろうとするリィンの頭に手を置いて、彼は静かな声で言った。
「泣くな」
その言葉を聞いて、自分の瞳が涙で一杯になっている事に初めて気がついた。リィンは慌てて腕で顔をこする。
「な、泣いてないよ!」
「上出来だ」
ふん、と笑ってラディスは気の抜けたようになっている医師達を促し奥の部屋へと消えた。リィンにはその背中を見送る事しか出来ない。
何だかわからないけど、どうしてラディスが殴られなきゃならないんだ。
「ねえあなた」
その声にリィンは目の前にいる女性に視線を向けた。先程、ラディスに制された女性だ。
暗めの色の巻き髪は一つに束ねられており、丈の長い上着を着ている。どうやらここの医師か研修医のようだ。リィンと変わらない程の背丈で、尖った口元に意思の強そうな眉をしている。その目元は厳しく、リィンを睨む。
「あなたがリィンという子ね。護衛気どりの」
リィンは警戒しながらその女性に向き直った。彼女の瞳には、侮蔑の色が滲んでいる。
「一度しか言わないわ。ラディス先生のところから今すぐ出て行ってちょうだい。あなたは先生にとって邪魔なだけなのよ」
リィンが何も言わず黙っていると彼女は更に苛々を募らせ、それを隠そうともせずにリィンにぶつけた。
「聞いているの!?あなたなんか、ここには必要ないの!」
「僕はあんたを知らない。あんたは誰だよ」
「まあ!なんてひどい口の聞き方をするのかしら!…やっぱり、駄目ね。イリアス族だもの。先生も災難だわ、こんなのにつきまとわれているなんて」
リィンはぎゅっと相手を睨みつける。対する彼女も臆する事なく、睨み返しながら言った。
「私はベルシェ・レニツィ。ここの医者よ」
レニツィ…。どこかで聞いた名だ。
リィンは小さくあっ、と叫んで目を見開く。
「私の父はロンバート・レニツィ。私はここの院長の娘よ」
そう言って、ベルシェは眉間にしわを寄せながらリィンの全身を下から上へ値踏みするように睨みつけた。
何か、汚いものでも見ているようだ。
「この病院にも来てほしくないわ。すぐにこの町から出て行く事ね」
「あなたがロンバート先生の家族だというのは分かりました。でも僕はラディスの護衛として正式に雇われているんです。たとえあなたであろうと、何の理由もなしに解雇できないはずです」
リィンは真っ直ぐにベルシェを見据え、きっぱりと言い切った。今さら少し何かを言われたところで引き下がるつもりはない。イリアス族であるというだけで、石を投げられるような仕打ちをされてきているリィンにとっては、このような事も初めてではないのだ。
「まあ!なんて図々しいのかしら!」
ベルシェは怒りに目元を赤く染めながらリィンに一歩近づく。それから一瞬驚いたような顔をして、突然リィンの胸に自らの手を押しつけた。
「なっ!」
慌てて後ずさるリィン。
「…あ、あなた女性ね!?女性のくせにそんな汚い格好をして、護衛なんていう仕事をしているというの?」
ベルシェの顔が意地悪く歪んだ。
「いい事?あなたがラディス先生のところからいなくならない限り、私はあなたを許さないわ」
そう言い捨てて、ベルシェは踵を返して消えていった。
玄関から表の広場まで様子を見に行っていた受付の女性が戻り、顔を青くしながらリィンにおそるおそる話しかける。
「大きな声が聞こえたけど、大丈夫?ベルシェさんは気の強い方だけれど、ラディス先生の事になると余計なのよ。何かあったの?リィン、平気?」
リィンは声をかけてくれた相手に笑顔を向けて頷いた。
「大丈夫、びっくりしただけだよ。…それにしても似てない親子だ」
「そうね…」
二人はそうする他ないといった様子で、弱々しく笑いをこぼした。