039:戦う人
リィンはそれから何かとかまってくるエンポリオを会社へ戻し、彼の言ったとおり徹夜になりそうなラディスを置いて診療所へ帰った。寝室の大きなベッドの上であぐらをかいて、じっと考え込む。
昼間にエンポリオから聞いた話がリィンに重く圧し掛かってくるようだった。
ラディスの行っている改革は、診療内容に基づいた一律の料金で、どの種族のどんな職業の人々にも診療を受けられるように広く開かれた画期的なシステムの開拓だ。それにより、今まで際限なく私腹を肥やしていた怠慢な医者や聖職者達から反感を買っている。そしてあのルーベン司教は反対派のリーダー格だ。ラディスとルーベンの主張はことごとく対立する。その診療スタイルはもちろんの事、投薬の仕方や倫理観までも違う。ラディスはルキリア国の医療の発展の為に、レーヌ国の医療技術についてもっと学んでゆくべきだと提案している。それは主に解剖学の分野におけるものだという。
「レーヌ国ではね、遺族の同意を得て遺体を解剖する事を実際に行っているのさ。それは人体の内部構造を想像ではなく実際に知るという事だよ。その基本が様々な病理の解明や外科的手術にとても役に立つ。だからこそレーヌは世界一の医学と薬学を誇っているんだ。
でもそれがどういう事か分かるかい?リリーネ・シルラを信仰するこの世界にあって、死者の遺体を解剖するなんて、冒涜以外の何物でもないよ」
そう言ってエンポリオは鼻にしわを寄せていた。
確かに死者の遺体をどうかするという行為は喜べるものではないというのが事実だ。丁重に扱い火葬に伏して、天に魂を返すというのが今の世界の常識だからだ。
けれどそこにも矛盾が生じている。何故ならリリーネ信仰の発祥はレーヌなのだから。しかし当のレーヌは、解剖学を抜きにしての医療の発展はあり得ないという結論に既に達しており、次の段階へと昇華している。元々リリーネの宗教哲学には死者の弔い方に関して、何かの制約があるわけではない。要するにリリーネ信仰はレーヌを出て、ひとり歩きしている状態にあるのだろう。
ラディスはベイルナグルの有識者達が集まる会議で恐れもせずに言い切ったという。医者や貴族、聖職者に教師。それに帝国政府の要人も参加する場所での事だ。それからラディスを排斥しようとする流れも激化したという。当時既にルーベンは絶大な権力を得ており、その彼の意に反する発言をする者は誰ひとりとして存在しなかった。そんな事をしようものなら、この町にいられないばかりか全てを失いかねない。それ程にルーベンの存在は畏怖されている。ラディスは診療所を開いてすぐに、その巨大な人物に噛みついた。無謀と言う他ないが、現在では支援者が増えてきている。
それはここに至るまでの彼の行動の成果による以外にないと言って良い。新しい診療システムは一部の富裕層以外の民衆にとっては歓迎するものであり、ラディス自身がこの国で一番の腕の良い医師だ。魅力ある人柄と美しい容姿に≪黄金の青い目≫も助けとなり、今では絶大な信頼を勝ち取るまでになった。帝都の有識者達の中からもラディスを応援する流れが生まれている。今までルーベンを恐れて言いたい事も言えず、正しいと思う事も発言できずに小さくなっていた者達が、ラディスという柱を得た事により団結し始めた為だ。ベイルナグル一の病院の院長であるロンバートもその一人だろう。だからこそ、ルーベンはまずラディスを潰したいのだ。
リィンはうーんと唸って、ベッドに倒れ込んだ。
このまま考え込んでいたら頭が変になってしまいそうだ。
要するにラディスは患者の為に何をすべきかという、この一点を重要視しているんじゃないだろうか…。
どちらにせよ難しい事はリィンには分からない。ただラディスと敵対しているルーベンという人物が、帝都の良心と言われ人々に仰がれる大司教であった事には少なからず驚いた。ぼんやりと悪人を想像していただけに余計だ。かたや慈愛の笑みをたたえ、≪清廉なる織布≫を首から下げてありがたい説法を説いたり、祈りを捧げる壮年。対するラディスは、皇族の目を持ちながら正統な位もなく変革の旗を掲げ、変化を恐れず傍若無人に突き進む若者。一見してこの構図は、ラディスにとって俄然不利なものだと分かる。想像以上に厳しく険しい道のり。ただ、全く味方がいないわけではない。しかし現状はその味方でさえも彼一人が守っている状態なのだ。むしろ今までよく無事だったと言わざるを得ない。
リィンは静かに目を閉じる。
どちらの主張が正しいのか、そんな事は僕が考えたって意味のない事だ。
僕はラディスを護ると決めた。
あらゆる攻撃から彼を護りたい。
ジェイクと、ユマと約束したんだ…。
もっと、強くならなければ。
◇◇◇◆
翌日もいつものように朝から診療が始まり、昼過ぎには最後の患者を送り出した。その後ラディスとクレイは簡単に食事を済ませ、すぐに居室を出て行ってしまった。リィンはまだニコルとチェムカと食事の最中である。
「二人は?」
「今日はこれから大きな会議があるんだって。たまあにやるんだわ、ベイルナグルの偉いさん方が集まって色々決めるんだって」
チェムカが口を動かしながら答えた。
「そういや最近なかったわねえ」
「大丈夫かな…」
リィンは少し心配になる。ラディスは明け方に帰ってきて、そのまま診療に入ったので寝ていないはずだ。自分もついて行きたいがきっと邪魔になるだろう。その集まりがエンポリオから聞いた会議の事だとすれば、イリアス族の自分がいればそれだけで非難にあってしまうかも知れない。もどかしい思いを、肉の欠片とともに飲み下す。
「先生は大丈夫よ」
ニコルが言い、チェムカがうんうんと頷いている。
うん、そうだけど…。と言いながらリィンは席を立った。廊下へ出ると話し合いながら階段を降りてくる二人と出くわした。
クレイは普段通りの隙のない完璧な装い。緑がかった髪は乱れなくセットされブラウスもズボンも折り目正しく、黒の革靴もきちんと手入れされていて光を反射している。今は手に茶革の鞄を持ち、資料と思われる紙束を仕舞いながら降りてくる。その隣にいる人物が、リィンに気がついて声をかけた。
「お前は留守番だ。ついて来たって面白いもんはないからな」
「ラ、ラディス…?」
「何だ」
青い瞳が不思議そうにリィンを見つめ返してくる。呆然と立ちつくすリィン。
彼はいつものしわの寄ったブラウスを着ておらず、すらりとした長身によく似合う黒の礼服を身につけていた。足元も編み上げ靴ではなく品の良い革靴。普段ぼさついている髪も今はきちんとセットされていて、美しい顔立ちがより引き締まって見える。まるで貴族だ。それも上等の。やはり彼は≪黄金の青い目≫にふさわしい品格と威厳を備えている。見た者にそう思わせるような、美麗な容姿。
「…ラディス様、だから私はいつも言っているんです。普段から身なりに少し気を使うだけでよろしいんですから…」
クレイが苦笑しながら言った。はっと我に返りリィンは赤面する。見惚れていたのだ。
「ふん。せいぜいこの外見で相手を威圧してやろうじゃないか」
そう言いながらラディスはリィンの頭にぽんと手を置いて通り過ぎる。
「ではリィン、夜には戻りますので留守を頼みます」
「うん。いってらっしゃい…」
ラディスは普段通りの飄々とした様子だった。リィンはほっとして二人を見送る。
◇◇◆◆
「クレイ、大丈夫?」
それから二人が帰って来たのは、月が高く昇り夜もだいぶ回った頃だった。居室に来たのはクレイだけで、ラディスは書斎に上がって行ったという。
目に見えてクレイは憔悴しきっており、何だかよれよれで顔色も悪い。
「ええ…」
重そうな足を何とか動かすようにして、椅子に腰かけた。リィンは茶を淹れてクレイに差し出す。
「すみません」
心配そうに見つめているリィンに、彼は弱々しい笑顔を向けた。
「どうしたの?」
「いえ、特にいつもの会議と変わらなかったのですが…」
僅かに言い淀む。
「分かっている事なのですが、情けない限りです」
詳しい事を話すつもりはないらしく、クレイは黙ってカップに口を付けた。
会議で何があったのだろうか…。
「リィン、上手くなりましたね」
クレイがカップを見つめながら言った。茶の事を言っているのだろう。律儀な彼は、自分が疲れているにも関わらず良く気がつく。
「そりゃあクレイの直伝だから」
「申し訳ありませんが、ラディス様にもお願いできますか?」
「うん」
リィンは茶の用意をして書斎へ向かった。
薄々は想像出来る。会議ではラディスが槍玉に上げられたに違いない。
ノックをし扉を開いて書斎へ入る。ラディスはすでに礼服の上着を脱いで着崩した格好になり、幅広の机に向かっていた。
リィンは応接用のテーブルで準備をし、ラディスに声をかける。
「お茶、入ったよ」
「ああ。こっちに頼む」
ラディスは顔も上げずにいる。
「だめだ。こっちに来て飲んでよ」
そう告げると、彼はやっと手を止めて顔を上げた。
「少しは休んでよ」
「俺なら大丈夫なんだが」
「…今すぐここに来ないと、『力』を使ってでも机から引きはがすぞ」
「やれやれ。クレイより融通の聞かない奴だな」
苦笑しつつセットされた髪型を崩しながらこちらへやって来た。リィンの隣に立ち、そのままカップを手にとって茶を味わう。
「会議って何を話し合うの?クレイはとても疲れていたよ…」
「何の実もないものさ。議題はさんざん今までも話されている事で、あいつらには勝てる見込みもない。俺の理論も実証も確実なものだからな。それに今はこの町の外からも賛同者が出始めている」
「だったら…」
どうしてあんなにクレイは落ち込んでいるんだ。
リィンは隣にいる背の高いラディスを見上げる。彼は面白そうに眉を上げて答えた。
「俺が皇族の恥ずかしい隠し子で、胸に汚らわしい奴隷の烙印があるだけだが、奴らは喜んでそれを議題にする」
「何だって!?」
リィンは思わずラディスの片腕を掴んだ。
「おっと」
腕を掴まれた彼は空いている手でカップをテーブルに戻しながら、
「言ったのは俺じゃない。そんなに睨むなよ」
とリィンを見下ろす。
「そんなの、ひどいじゃないか!」
「ひどいから、奴らはわざと言ってるんだ」
リィンは辛さに眉根を寄せて彼の青い瞳を見つめた。
澄んでいて真っ青な海を思わせる瞳。黄金の琥珀は光を含んで輝く。
「僕は、あんたをちっとも護れていないよ…。どうしたら良い。どうしたらあんたを護れる」
彼の必死の努力を、この生き方を、知ろうともしない奴らが言いたい事を言ってけなしているなんて。
…悔しい。
じっとリィンを見つめていたラディスが、柔らかく微笑んだ。リィンの心臓が、どくんと跳ね上がる。
「何を言われようが俺自身に傷はついていない」
彼はリィンの髪に触れ、長い指でその栗色の髪を優しく梳きながら続けた。
「あいつらは俺の何を知って批判をしてる?噂や表面的な、うわっつらしか見ていないさ。だから蚊や虻に刺されたようなもんで、ちっとも痛くない」
「で、でも!それでも僕は腹が立つよ。
…ラディスを悪く言う奴らを、どうにもできない自分にも、腹が立つ」
リィンは耳まで真っ赤だが、その瞳は真剣だった。
「そうだな。痛くはないが、確かにうっとおしい」
ラディスの手はゆっくりとリィンの髪から頬へと伝う。そして、そのふっくらとした頬をきゅっとつねった。
「だ!」
むっとするリィンを見て、にやりと笑いながらラディスが顔を近づけてくる。お互いの額がくっつきそうな程の至近距離に、ラディスの整った顔。
リィンの心臓が、またもや跳ね上がった。
「お前はそのままで良い。難しい事は考えるな。お前はお前らしくいれば良いんだ」
そう呟いて、身体を離した。
それによくやっているしな、と言いながら幅広の作業机へと歩いてゆく。
リィンはつねられた頬に手を当てながら、腑に落ちないような表情でいた。
何だか、ごまかされた気がする。
「絵画展は良かったか?」
ラディスが視線を資料に落としたまま言った。
「よく分からなかったよ。…どうして知ってるのさ」
「エンポリオの奴が、嬉しそうに俺に報告してきた」
「エンポリオって、変だよ」
リィンは憮然としながら後片付けをして、部屋を出ようと扉を開く。
「まあそう言うな。あいつは変態だが悪人じゃない。それに、お前にはそういう時間があって良い…」
ふん!とリィンはそのまま扉を閉めて、廊下をすたすたと歩き出した。
僕はエンポリオと遊びたいんじゃないや!
有名な絵画展が見れなくったって、話題のお菓子が食べられなくたって…
ただ、ラディスの傍にいられたら、それで良いのに…。
そこまで考えて、そんな事を考えた自分が急に恥ずかしくなり、思いきり首を振った。




