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紅い月 青の太陽  作者: 茂治
第一章
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003:その先の悲しみに

隣室の診察室に続く扉が開いた。

現れたのは長身の男性。ブラウスの袖は肘まで捲り上げられ、医師にしては逞しい両腕がのぞく。黒の上等そうなズボンだが、皺だらけの上、足元はしっかりとした編み上げ靴を履いていた。リィンは瞬時に身構え、窓を背にその人物に向き直る。相手は腕を組み、テーブルを挟んだ向こうから語りかけてきた。


「お前の連れの処置は終わった。今は眠っている。だが、受けた傷はかなり深い」


リィンはラディスを睨みつけるように見つめ、両手を固く握り締めて次の言葉を待つ。


「見たところイグルにやられてから数時間は経過しているだろう。幸いにイグル化しなかったのが救いだが、もう既に、特効薬は効かない。あれが効くのは三十分以内に処方した時に限る。毒は全身に回ってしまっている」


淡々と表情を変えずに話してゆく。彼の瞳は深い海のような青色で、整った顔立ちから冷たい印象を受ける。

リィンは感情を殺し問いかけた。


「ゼストは、助かるのか?」


「次に目覚める時が、最期だ」


目の前が真っ暗になる。

目眩がして、膝から崩れ落ちそうになるのをこらえ、一歩後ずさった。

背中に窓が当たる。

瞬間、リィンは自分がどこに立っているのかさえ分からなくなり、俯いて自分の汚れた靴先を見つめた。

目がかすんで、耳の奥からゴオッという奇妙な音が聞こえる。


ゼストが、死ぬ。

いなくなる。

そんな絶望的な事が、今これから起ころうとしている。


「おい、大丈夫か」


遠くから声が聞こえる。しっかりしなくては。


「…部屋に行きたい」


それだけ告げる。


「これから連れて行くが、ひとつ、絶対に守らなければならない事がある」


リィンはゆるゆると顔をあげ、ラディスを見上げる。


「決して感情を高ぶらせるな。強く願ったりしてもいけない。『力』が相手に影響を及ぼしてしまう恐れがあるからだ。できるか?」


顎を引き頷く。

リィンは訓練を積み、すでに『力』を完璧に制御できるようになっているのだ。

しかしラディスは動かずにじっとリィンを見つめる。少しの間、二人は見つめ合う状態になった。

ラディスの青色の瞳が、心の奥底までを見透かしているような錯覚に陥る。よく見ると青の瞳の奥が黄金色に輝いており、とても珍しい目の色をしていた。まるで真っ青の海の底で揺れる琥珀のようだ。その瞳が納まっている彫像のような綺麗な顔を見つめていると、何故だか心が落ち着いてくる。表情がないせいか人間的な生臭さが感じられず、絵画を鑑賞しているような感覚に似ているのだろう。リィンはもう一度頷き、言った。


「分かった。『力』は絶対に発動させない」


「ついてこい」


◇◇◇◆


リィンを診察室に連れて行き、何かあったら呼ぶようにと言い置いてから二階に上がり、書斎の扉を開く。散らかっていたはずの床は、綺麗に掃除されていた。

ラディスの幅広の机の上は相変わらずの散らかり様だが、その向かいにある応接用のテーブルには茶の用意がされてあり、良い香りが部屋に流れている。

窓と扉以外の壁は天井まで本棚になっており、クレイが梯子を使って本を棚に戻しているところだった。

白のブラウスに黒のベストとズボンは折り目正しく、その雰囲気からも彼の几帳面な性格がうかがえる。


「お疲れ様でございます」


ラディスは頭を掻きながら応接用の椅子に腰かけた。


「後でニコルを呼んでこよう。しばらくはここにいてもらった方が良いな」


クレイが傍につき、カップに飴色の茶を注ぐ。


「私が行って参ります」


「いや、今夜はイグルが出るかもしれないから俺が行こう。しばらくしたら食事を運んでやれ」


「はい。あの…ラディス様、少々よろしいですか」


ラディスは眉を上げクレイに先を促し、長い指でカップの取っ手をとる。淹れたての温かな茶を口へ運んだ。


「あの方々はイリアス族ですね」


「そうだ」


「私は初めてイリアス族に出会いました。紅い瞳と真っ白な肌。それにあの『力』は、本当に不思議でなものでした」


クレイは至極真面目な表情のまま続ける。


「イリアス族はひどく凶暴で残忍な性格だと聞いています。イグルの次に気をつけねばならないと。絶対数は少ないですが極めて危険な種族であり、あの『力』を使って人を傷つけると。管理が必要だと帝国政府は公表していますが…」


刹那逡巡し、意を決したように再び口を開く。


「私にはそう感じられませんでした。確かにあの『力』は恐ろしいものでしたが、あの少年からは殺意を感じませんでしたし、何より理性があります。俄かには信じがたいですが…ラディス様のおっしゃる通りのような気がしてきました」


「やっと分かってきたようだな。垂れ流される情報を鵜呑みにしたらいけない。それは飼い馴らされた阿呆がする事だ。まずは己で事実を正確に捕らえ、そして風評を介さずに判断する事が大切だ」


「はい」


真剣にラディスを見つめ返事をし、視線をテーブルに落とす。


「あの深手を負ったゼストという男性は…」


ラディスは表情を変えずに告げた。


「今夜か明朝がヤマだな」


「…やはり…。しかしラディス様、イグルにあのような傷を受けた人間が、毒に侵されずにイグル化も起こさずに数時間もいられるものなのでしょうか」


「いいや、有り得ない」


「それでは、あれもイリアス族の『力』なのですか?」


「イリアス族の『力』というのは、この中空にある大気の質量を変化させるものだ。それも感情や意志によって発動される。治癒力や持久力は通常の人間のそれと変わらない。まあ、人間と同じだから、鍛えれば鍛えた分だけ頑丈にもなるだろうが」


「はあ…」


「さあ、今夜は長いぞ。今のうちに仮眠をとっておけ」


「最後にもう一つ、あの少年の身体が光りだした現象は一体何なのですか。あんな事はどの文献にも載っていません」


「いつになく勉強熱心だなクレイよ、残念ながら俺にも分からん。イリアス族についてはただでさえ資料不足だ。今後の要研究課題だな」


そう言って席を立ち、椅子に無造作にかけてあった上着をとる。クレイは腑に落ちない様子ではあるがラディスに向き直り、


「お気をつけて」


と一礼した。


この書斎はかなり大きく、家の中でも一番の広さを占めている。壁一面の書棚にある書籍や文献は、どれも貴重なものばかりであり、その全てが現在のラディスの地盤を固めている知識となっている。いくら豊富な知識を必要とする医師という職業とはいえ、これ程広範囲を網羅する蔵書を持つ人物は、そうはいない。部屋にはラディスの作業机と応接用のテーブルの他に、あと二組のテーブルと椅子が用意されていた。ここへ書物を探しに来る医師仲間も多いからだ。そして今現在もなお、この部屋の書物は増え続けている。


だからこそ、とクレイは思う。


分からないはずはないのだ。あの時の対応はそういうものではなかった…。

それに、あの方は知っているはずだ。ここにあるどの文献よりもイリアス族の事に詳しいのだから。


クレイはそこで考えを中断しテーブルの上の茶器を片づけ始めた。


◇◇◆◆


ランプの灯が入った診察室のベッドの上に、ゼストが静かに眠っている。その傍らにリィンが小さな椅子に座ったまま、張り付くようにして付き添う。うとうととしては目を覚まし、ゼストの様子に変わりはないか確認をして、安堵の溜息をつく。

ゼストの顔色は一時よりもだいぶ良くなってはいたが、やはり青白いままだ。リィンは彼の不精ひげの伸びる顎をそっと撫でる。こんなに弱々しい彼を見るのは初めての事だった。

いつも大きな身体で悠々と前を歩いてくれていて、決して揺らいだりしない、それが彼だと思っていた。幼い頃はよくわがままを言ったり泣きべそをかいてゼストを困らせていたが、今ではそれも懐かしい。今のリィンになら、ゼストが背負ってきた苦労や辛さがどれ程大変なものなのかが分かる。前をゆく彼が、常に不安と強がりの中で、一生懸命にリィンを守り育ててくれていたのだ。

視線をずらすと、頭髪に白髪が混じっているのが見えた。ずいぶんと苦労をかけてしまった、リィンは唇を噛みしめる。


マントや荷物はベッドの脇に置かれ、今はブラウスに緑色のだぼついたベスト、麻のズボンに丈の短い編み上げ靴という格好のリィンは、より一層小さくなってしまったように見える。

剣は数時間前に食事を運んできたクレイという青年が、安全の為といってどこかへ持って行ってしまった。食事には手をつける気にならずそのままにしていたが、次にやってきた恰幅の良い五十代後半の、気の優しそうな女性が下げてくれた。彼女はニコルといって、この診療所の近くに住んでおり、家事全般をこなす通いの使用人だという。リィンは彼女の温かい笑顔を見てライサを思い出し、ニコルの言葉には素直に返事を返した。ニコルは多くは質問せず、何か食べたいものはあるか、喉は乾いていないか、寒くないかといった類の問いかけだけをした。それに対しリィンは首を左右に振るばかりであった為、ニコルは心配そうな顔をして一度だけリィンの頭をなでた。その時によく干した布団のような、太陽の香りがしてふいに泣きそうになったが、ぐっとこらえてありがとうとだけ告げた。

定期的に背の高い医師がやってきて、ゼストの状態を観察してゆく。その横顔を睨みつけているリィンには目も向けずに、淡々と診察を済ませては部屋を出てゆく。彼がすぐ近くにいるとミントハーブの清涼感のある香りがした。


リィンは心身ともに疲れきっていたが、極度の緊張と不安のせいで、浅い眠りと覚醒の間を行き来していた。

断片的な夢ばかり見る。母の面影、ゼストと旅をしながら過ごした日々、その先々で出会った人、特に数少ない同じイリアス族の人々の事が蘇る。この世界でのイリアス族の扱われ方は相変わらずひどいものであった。化け物と呼ばれ忌み嫌われ、しかしひっそりと平和を願いながら健気に生活するイリアス族の人々…。

リィンは学問を習った事はなかったが、時折ゼストや旅先で出会った人に読み書きを習っていた。何より本を読む事が好きだった。そしてゼストからこの世界の成り立ちと、イリアス族の壮絶な歴史を教わったのだ。

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