037:清廉なる織布
「これは火傷に効く薬草だ。表面を少しだけ揉んで、患部に当てて使う」
「へえ。こうやって見ると、何でもない雑草でも役割があるんだね」
昼下がりの穏やかな日差しが落ちる道をゆく。今日は良く晴れていて雲ひとつない青い空が広がり、とても心地の良い陽気だ。
リィンは手にひし形をした緑の葉を持って、まじまじとそれを見ながら歩いている。その隣にはいつもの大きな鞣革の鞄を肩に担いで歩くラディス。エンポリオの会社へ行く途中である。
リィンはラディスの往診に護衛としてついてゆく、この時間が好きになっていた。長時間の徒歩での移動にもすっかり慣れ、今では次の目的地までの道すがら、色々な事をラディスに教わったりしながら歩いてゆくのが常だ。ラディスの持つ雑学は多岐に渡り、その話を聞いているだけでも面白いものだった。それにこの時間だけは、二人きりになれる。何だか人気者の彼を一人占めにしているみたいで、ひっそりと嬉しんでいるのだ。
リィンが護衛として実際に働いたのは、今までで数える程しかない。それもベイルナグルの市場を歩いていた時に偶然遭遇したひったくりを捕らえたり、はぐれイグルの退治を頼まれたりといった類のものだった。今日も何事もなくエンポリオの仕事場へ着けそうである。診療所より少し南、点々と民家が続く石畳の道を、二十分程歩けばすぐの所だ。
向かいから小さな男の子を連れた、若い婦人が歩いて来る。ラディスを見て笑顔になり、何やら男の子に話しかける。それから婦人はラディスに向き直り、会釈をしながら言った。
「ラディス先生、お久しぶりです」
ラディスが柔和な笑みを浮かべて答える。
「ああ。元気そうだな」
「はい。この子もすっかり大きくなって。ねえ、いくつになったか先生に教えてあげて?」
手を繋いでいる息子に語りかけ、その子は無言で手の平をラディスに突き出し、それからぎこちなく親指を折り曲げた。どうやら四歳らしい。リィンも思わず笑顔になる。
「先生、どうかこの子にシルラ様の祝福を与えてくださいませんか」
婦人は幼い息子を抱きあげて、きらきらとした瞳でラディスを見上げる。
彼は無言で微笑み、男の子の頭に手を載せ、ぶつぶつと何かを呟きはじめた。そのラディスの行動と呟きを聞いて、リィンは驚きのあまり口をぽかんと開けてしまった。
古よりの聖なる光/授かりし女神リリーネ・シルラ/かの慈愛の泉より汲みいださんとす/我らの善と優良なる心を糧とし/その健全なる命を満たし/その永遠なる未来をも照らす/全ては生きとし生けるものの共生と/豊穣なる平和のために/兄弟よかくも歩まん/使徒ラディス・ハイゼルの名の元に/この者こそリリーネ・シルラの後継の者ぞ
「ありがとうございます!」
上気した頬を嬉しそうにほころばせて、若い婦人は息子を抱えたままラディスに礼を述べて去っていった。
「…な、何。い、今の」
「ああ。あの子は俺が取り上げたんだ。もうあんなに大きくなっちまって。それだけこっちも年をとったって事なんだがなあ」
「そうなの…。あ、いや違くて、その、ぶつぶつ唱えてたろ?」
「知らないのか。≪聖典≫の一説だろう」
「そんなの知ってるよ!そうじゃなくって、何であんたがそんな事するんだ…」
ラディスが諳んじていたのは、リリーネ・シルラを神と仰ぐ信仰の教本ともいうべき≪聖典≫の一説だ。この≪聖典≫の内容は伝説の女神リリーネ・シルラがこの地上に降り立つ所から始まる長編の物語のようなもので、聖職者達は≪聖典≫の一説を、様々な用途ごとに切り取って暗唱しながら祈るのだ。
しかしそれはあくまでも聖職者がする事であって、医師がする事ではない。ラディスがその真似をしたって、ただのペテンじゃないのか。
腑に落ちない顔でラディスを見上げると、彼はにやりと意地悪く笑みを作る。
「知らなかったか?俺はこう見えても聖職者だ」
「ええ!!」
大声をあげて驚くリィンを見て、ラディスは声をあげて笑った。
「レーヌの大学校で学んだ連中は、大抵は宗教学も習得する。成績上位の中から希望者がいれば聖職者試験も受けられるようになっている。ちなみにロンバートも拝み屋だぜ」
「でも、だってじゃあ、聖職者なら必ず持ってるだろ?きらきら光る真っ白の布…」
教会や講堂で見る聖職者は必ず首から細長い布を下げているものだ。とても珍しい糸で精巧に編まれており、それ自体が大変に高価なもので、この布がリリーネ・シルラの使徒である証明になっているのだ。
「≪清廉なる織布≫か?俺だって持ってるさ」
「だってそんなの見た事ないよ」
「…どこへやったかなあ」
呟きながらラディスは歩き出した。リィンは今や愕然として、背の高い後ろ姿を見つめて叫んだ。
「何だって!?そんな大事なもの、失くすやつがあるかよっ」
「ふん。あんなのはただの布だ」
「…やっぱりあんたは聖職者じゃないな。普通はそんな事言わないよ」
「祈りっていう行為は人間ならば本質的に備わっているものだ。あの布は聖職者だっていう権威を振りかざしたい奴が勝手に作った道具にすぎない。それに俺は元々無神論者だ。この世に神もへったくれもあるか」
「だったら何で聖職者の資格なんか取ったんだよ」
「必要だからだ」
少し前を歩くラディスに追いついて見上げる。彼は遠くを見つめていた。すっきりとした顎のラインが美しい。薄茶色の髪は今日もぼさついているくせに、相変わらずの美形っぷりだ。
「場合によっては治療ではなく、祈りが必要な時があるからな」
「祈り…」
医者という職業は人の生死に一番近いところにいるからこそ、聖職者が医師を兼業している事が多い。それがどういう意味なのか、考えたら分かる事だ。処置の施しようのない大怪我を負った者、不治の病の者、最終的に看取る場面に立ち会う時、そこには人智では計りようもない大きな存在が必要なのかも知れない。そういえば、とリィンは思い出す。
ゼストを弔ってくれたのもラディスだった。
「しかしそれは裏を返せば医者の怠慢でもある。履き違えている奴が多すぎる」
「え…」
「助かる命も助けようとしない。自らの力不足を顧みずに全てを相手の信心のなさで片づけて、適当に呟いて祈って金を取る。相手が死のうが知ったこっちゃないし、どうなったとしてもリリーネ・シルラの思し召しだと言って憚らない。ルーベンのような奴は犬も食わんな。イグルだって吐き出すさ」
「ちょ、ちょっと」
リィンは思わず周りを見渡す。聖職者に対して悪口を言う人間なんて、悪人かよほどの変態しかいない。…いや、彼は変態かもしれない、と変に冷静に考えてしまう。でも…。
「…でも、そうだな。僕自身もそういう存在を信じない。もし神がいたとしたら、何て無慈悲な奴なんだろうと思うよ」
「そうだろう。そんな神なんかよりよっぽど俺の方が偉大だぜ。リィン、遠慮なく俺を拝め」
口角を持ち上げて笑いながらラディスがリィンを見る。彫像のような美しい笑みは、それこそ神がかり的だ。リィンは可笑しくて笑った。
「そんな偉そうな神がいるかよ」
そんなやりとりをしている間に、目的地にたどり着いた。