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紅い月 青の太陽  作者: 茂治
第三章
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035:ティルガ

「ティルガとはこのベイルナグルに来た時に知り合ってね、彼はその当時すでに腕ききの医者で評判だった。その頃の私はまだまだ、野心だけは一人前の、小さな会社の経営者にすぎなかった」


リィンは体調が戻ってからすぐに、ジェイクの邸宅へ一人で向かった。謝罪をするためだ。

しかし迎え入れてくれた婦人の従者や、主のジェイクは何事もなかったかのように温かい笑顔を向けてくれた。リィンはともすると涙腺が緩みそうになるのを必死でこらえた。ユマの具合も随分良くなり、今は使いに出していて外出中なのだと言う。応接室でジェイクと向かい合って座り、昔話をしよう、と彼が語り出した。

いまだに緊張の解けていないリィンを見てジェイクは目を細めて笑った。


「ティルガなんてもっとひどかったよ」


「え?」


「『力』の暴走というのかな?私は何度も彼に吹っ飛ばされた」


「ええっ!」


楽しそうにジェイクは声をあげて笑った。リィンは信じられないという面持ちでジェイクを見つめる。


「彼はイリアス族の中でも、強い『力』の持ち主だったんだろう。私を吹っ飛ばしてもからからと笑って、すまんすまんと謝るだけだ。あいつはとても明るい奴だった。

 どんな非難や陰口を叩かれても気にせずに、いつだって真正面から人とぶつかった。だからこそ私も彼を信頼し親友になれたのだと思うよ。種族の違いなんて大した事ではないと思えた。アルム族の私でも、ルキリア貴族が天下を治めるこの帝都で、一旗あげてやろうと何度勇気づけられたか知れない」


ティルガは美しく聡明な青年だった。白い肌に栗色の柔らかな髪。物腰は優しく、ユーモアに富む話術。

当時他のイリアス族の人々は、捕らえられては強制労働施設に送り込まれていた。それを免れたイリアス族でも運命は似たようなものだった。奴隷として貴族に仕え、一生涯そこから抜け出せない。死してもなお、その子孫さえも生まれる前から定められている奴隷としての運命を辿るしかなかった。

明るい太陽のようなティルガであったが、自分と同じ種族の事を語る時だけは暗い影を落とした。その影には光は届かない。影は大きく膨れて彼自身を捕らえて離さず、暗黒へうずめてゆく。親友であったジェイクでさえも救う術を持ちえない程の闇だ。彼はいつも言っていた。


自分には使命があるのだ、と。


何故自分だけが、こうしていられるのか。自分は医者としての技術と経験を武器に≪人≫として生きているが、同じイリアス族の者達は今この時にも拷問のような仕打ちに命を落としている。地獄の日々を暮らしている。そう思うと心臓を抉られるような痛みを覚える。自分に何が出来るのか、と常に自問する。


「私と変わらない同年代の青年であるはずのティルガは、あの頃から既に思索し続けていた。イリアス族の将来を自分の将来と同じように考えていたんだ。そんな事到底出来ない。自慢じゃないが、私はその頃自分がどう成り上がるかしか考えていなかったよ」


それからすぐにティルガは強制労働施設にいるイリアス族の診察を許可された。ジェイクはその時まで、彼が帝国政府と交渉している事さえ知らなかった。

その頃から互いの仕事が忙しくなり顔を合わせる機会も減っていった。ジェイクはいつでも彼に会いたがったが、ティルガはなかなか相手にしてくれない。久々に会った時に愚痴をこぼしたジェイクに、彼は一人の女性を紹介した。


「名をエルダといって、トゥームという町の出身の女性だった。ベイルナグルへは勉学の為に来ていたらしい。ティルガは私があんまりにも人恋しくしているもんだから、余計な世話を焼いてくれたのさ。私は一目で彼女に恋をしてしまった。ばっちり好みでね。まんまと彼の思い通りになったわけだ」


リィンは微笑んだ。


「じゃあその人が、ユマのお母さん?」


「そう。ただ、身体が丈夫な方ではなかったんだ」


ジェイクは遠くを見つめて口元に笑みを浮かべた。今でも愛している妻の面影を、そこに見ているのだろう。


エルダと結婚し仕事も軌道に乗って着実に会社を大きくしていった。そして二人の間に新たな命が宿る。

出産は身体の弱いエルダにとって、死を覚悟しなければならない事だった。ジェイクは身もだえる程に悩んだが、エルダの心は決まっていた。ユマを身ごもった時から既に、彼女は母親としての強さを兼ね備えていたのだ。もちろん主治医はティルガが買って出てくれた。多忙だったにも関わらず彼は最善の処置を尽くしてくれた。


エルダはユマを産んでから一年足らずでこの世を去ったが、彼女は幸せだったと言ってくれた。彼女はジェイクにユマを残してくれた。エルダと出会わなければ、自分の人生は虚しいものだったに違いない。彼女の事を思い出すと、ジェイクの心に温かな光が灯る。しかし…。


「その頃の私は必死だった。仕事は多忙を極めていたし、ユマはまだ幼くて放っておけない。エルダを亡くした悲しみに沈んでいる暇もなければ、周りの事に気を使う程の余裕もなかった。

 エルダが亡くなってから一年が過ぎようとしていた頃、久々にティルガがここを訪れたんだ。…私は驚いたよ。

 彼は今にも倒れてしまいそうな程ぐったりとして、随分と痩せてしまっていたんだ。目だけが、力で漲っていた。今でもあの時の事は忘れられない…」


ゆっくりとティーカップに手を伸ばし、ジェイクは茶を飲み下した。苦々しい表情。まるで出がらしの茶を飲んだみたいだ。


◇◇◇◆


「ティルガ、一体どうしたんだ。何か悪い病気にでもかかっているのか?」


心配顔でジェイクは目の前の青年を問いただす。ティルガは微笑んだまま、ゆるゆると首を振った。椅子に腰をかけているのもやっと、というような状態に見えるが、目だけがやけに綺麗で澄んでいる。赤茶の瞳はしっかりとしていて、病人の目には見えない。


「ジェイク。ずっと黙っていたんだが、実は俺にも愛する人がいる」


「え」


「同じイリアス族でシルヴィと言うんだ。とても美しくて良い女だ。もうそろそろ二年程になるかな」


ティルガがいたずら小僧のようににやりと笑った。


「何だ!水臭い奴だな。何故紹介してくれない」


「お前はエルダを亡くしたばっかりだったしな、横取りされたらたまらない」


ジェイクは彼を睨みつけてから、肩の力を抜いた。


「悪い冗談はよせよ」


「…彼女はあの施設の中にいる。紹介しようにも今は出来ない」


「何だって!?」


ジェイクは思わず椅子から腰を浮かす。目を見開いて彼を凝視するが、ティルガは長い足を組んで余裕の表情。

あの労働施設の中にいる、奴隷の女性を…。

頭が混乱してジェイクは言葉を失った。


「それでお前に頼みがあるんだが」


「ティルガ、お前…」


確かに彼はあの施設で暮らしているイリアス族の診察をしているが、しかしまさか、その中の女性と…。

そこまで考えてジェイクは首を振った。どちらにせよティルガが決めた相手だ。自分がとやかく言う筋合いはないし、彼の選んだ事に異を唱えるつもりもない。何があろうと自分は絶対的に彼の味方だ。


「私に出来る事があるなら言ってくれ。お前は大事な親友だし、恩人だからな」


真剣にティルガと向き合う。彼は目を閉じて笑った。


「ありがとう、ジェイク。お前ならそう言ってくれると思っていた。恩ってのは売っておくもんだな」


「馬鹿だな。これは貸しだぜ」


「そうか。なら大きな貸しになっちまうかも知れんな…」


ジェイクは僅かに眉をひそめる。

目を開けたティルガの瞳は、真剣そのものだった。


「数日中に、ここへ少年を連れてくる。まだ七、八歳くらいの子供で名をラディスと言う。お前に預かってもらいたい」


「何?それは一体どういう事だ、ティルガ」


「訳は言えん」


「何だと?」


「頼む」


意味も訳も分からない。ティルガは口を閉ざしたまま恐ろしい程真剣な表情でじっとこちらを見つめている。ただならぬものを感じて、ジェイクの背筋に汗が伝った。


「分かった」


「…すまない」


あまり謝らない彼が、頭を下げて言った。

ジェイクはその時にどうしようもない程の後悔を感じた。それは彼の頼み事を聞いてしまったからではなく、今まで彼を放っておいた事に対してだった。


彼は何か大変な事に巻き込まれている。


「訳は言いたくないのか?私にも言えない事か」


「俺は俺の、やるべき事をしたまでだ」


沈黙が二人を包む。

もう一度問いただそうとジェイクが口を開いた時、ノックの音がして扉が開いた。


「ぱぱ」


申し訳なさそうにしている従者に手を繋がれて、寝間着姿のユマが部屋に入ってきた。


「申し訳ありません。ユマお嬢様がどうしても旦那様にご挨拶したいと…」


「良いよ。おいでユマ」


場の空気が一変して温かいものに変わる。ユマが眠そうに目をこすりながらやって来てジェイクにしがみついた。優しく我が子を抱き上げる。


「おやしゅみなさい、ぱぱ」


「ああ。おやすみ」


ユマは眠たげな目をティルガに向けて言った。


「おじちゃん、おやしゅみ」


ティルガは目を細めて微笑む。


「おやすみ、ユマ」


ユマと従者が出ていってすぐに、ティルガはさて、と言いながら席を立った。


「お前が受けてくれて良かった。お前にしか頼めなかったからな」


「あんまり無茶はするな。何かあったら私に言ってくれよ、いくらでも協力する」


「ああ。ありがとう」


「そこまで見送るよ」


「ユマも大きくなったな。エルダに似て美人だ」


「ああ。変な男が寄りつかないように今から目を光らせてる」


「くく。怖い親父だ」


玄関口でジェイクは呼び止めるように言った。


「おい、今度紹介してくれよ、彼女。私もお前の診察についていけば会えるだろ?」


振り返ったティルガは一瞬驚いたような顔をして、そして笑った。


「ああ。そうだな」


それから手を振り合って別れた。

それが最後だった。


次に彼を見た時、彼は処刑台の上にいた。


◇◇◆◆


「あいつは一切私に言わなかった。レーヌに嘆願書を書き続けていた事を。私も政府から疑われて家探しされたよ。会社も調べられた。しかし関わるものが出てくるはずがない。…知らなかったんだからね」


しんと静まり返った部屋でジェイクの声だけが響く。リィンは知らないうちに両手を握り締めていた。


「ティルガは捕まってすぐに処刑された。審議なんてなかった。誰も彼を助ける事は出来なかったし、きっと本人もそれを承知の上だったんだ。

 そして施設では反乱が起こった。奴隷として隷属させる為につけられていた、首輪を外したイリアス族が次々と外へ飛び出したんだ。それと同時期にレーヌ国からの使者が、女帝直々の書状を持ってやって来た」


語りだしたリィンを、驚いてジェイクは見つめた。


「僕はすべて聞いているんです」


リィンはわざと、自分の父の事を名で呼んだ。一番言いたくない場面をリィン自身が言う事によって、ジェイクの心痛を和らげたかったからだ。


「そうか…」


レーヌ国の女帝からの書状は、有無を言わさない強硬な内容であったと聞く。即刻イリアス族を解放しなければ全ての取引を停止し、ザイナスにも働きかけて制裁を加えるという趣旨のものだった。事態は急展開した。それからルキリア国王が宣言を出すまでそう長くはかからなかった。


「…私の所にラディスがやって来たのは、解放宣言の数日後だったよ。数名のイリアス族が付き添いで来ていた。それが大勢のイリアス族を率いている青年達で、その中の一人にシルヴィがいたんだ。彼の言ったとおり、とても美しい女性だった」


ジェイクはラディスを引き取った上に、行く先に困っていたシルヴィ達に手を貸して住む土地を探し提供した。それでも、彼はいまだに後悔している。自分の親友を助けられなかった事に。親友の苦悩と苦闘を知らなかったあの頃の自分に。


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