034:想いの行方
気づくと薄暗い廊下を歩いていた。
それはネルティエがいた店の従業員通路に似ている。暗い灯が点々と先を照らす。息を吐き出すと白く曇った。何て寒い所だろうか。
「リィン」
懐かしい声が聞こえた。視線を先へ向けると、廊下のずっと先の方に立っている人影が、三つ見えた。
ああ…。どこに行ってたの、僕を置いて。
「リィン、おいで」
ゼストが、こちらに向かって手を差し伸べている。
隣にはシルヴィがいてライサも優しい笑顔をたたえている。
「リィン、こっちよ」
シルヴィの声。記憶の中の、優しい声。
良かった。僕はもう、一人ぼっちじゃない。
歩く速度を早める。なのに、歩いても歩いても三人に近づけない。慌てて走り出した。
「リィン」
だんだんと三人が遠ざかる。黒い影になってゆく。
待って、すぐ行くから。行かないで。
母様、ゼスト、ライサ。
行かないで。
僕を置いていかないで。
もう嫌だよ。
一人ぼっちは嫌だよ。
目を開けると見慣れた天井が見えた。
「…ゼスト」
リィンは呟きながら身体を起こす。額に置かれていた冷えた布が、ぱさりと落ちた。辺りを見回す。
「ゼスト、いないの?」
そこでやっと、夢から覚めた。
そうだった。
ゼストはもう、ここにはいない。
だんだんと意識が覚醒してゆき、恐怖に身を竦める。
リィンは寝室に寝かされていた。どうやらあの後、気を失ってしまったらしい。窓の外から雨の音が聞こえる。さほど暗くはなく、まだ夜にはなっていないようだ。リィンは思うように動かない身体で必死にベッドから這い降りた。自分を見ると患者用の長いローブを着せられていて、両手には包帯が綺麗に巻かれ擦り傷にもきちんと手当が為されている。
『力』が暴走してしまった事、そのせいでユマを傷つけてしまった事。謝らなければいけないと思う。
しかしリィンの心を支配していたのは、何よりも恐怖だった。とにかくここから逃げ出したい一心で壁に手をついて歩き出す。
「おいおい、何をする気だ」
水の入った瓶を片手にラディスが戸口に立っていた。
青い瞳が、リィンの異変を瞬時に感じ取る。
「…まだ寝ていろ」
ラディスが慎重に一歩踏み出すとリィンがびくりと身体を震わせて、一歩後ずさった。
「く、来るな」
恐怖のあまり口元が震え出す。
「…大丈夫だ、何もしない」
ラディスの低い声が落ち着かせるように囁いた。
「あ、あんな事、するつもりなかった」
リィンの顔が苦痛にゆがむ。
「ご、ごめん…。僕、ぼく…」
「良いんだ、リィン。お前は悪くない」
ラディスがまた一歩、リィンに近づく。
「来ないで!!」
リィンが叫んでラディスを拒絶した。同時に、ラディスが手に持っていた瓶が内側から爆発した。バン、という破裂音とともに、水とガラス片が盛大に辺りに飛び散った。鋭い瓶の欠片がラディスの頬をかすめ、赤い血が滲み出す。
リィンの瞳が深紅に揺らいでいた。ラディスの血を見て、その両目が大きく見開かれる。
「リィン、大丈夫だ」
「は、早く、ここから出ていけ…」
リィンは口の端から絞り出すように呟いた。顔色は真っ青で、がたがたと震えている。
「リィン」
ラディスは飛び散ったガラス片や頬から流れる血にも構わずに真っ直ぐにリィンを見つめたまま、また一歩近づく。
「僕に構うなっ!早く出ていけよ!」
叫んだ瞬間、ラディスの手が伸びてリィンの腕を掴んだ。暴れるリィンをそのまま抱き締める。
「…うっ。は、離せ!」
ラディスの袖を掴んで引き離そうとするが、彼はより強くリィンを抱き締める。
リィンが喘ぐように叫んだ。
「い、いやだ…!あんたを傷つけたくないっ!」
『力』がまだ制御しきれない。自分の感情を自分がコントロールできないせいでラディスを傷つけたくなかった。だから、一人にしてほしかった。
「大丈夫だ。俺が受け止めてやる。…だから、そんな風に感情を抑え込むな」
ラディスの声が身体を伝って届いた。リィンを包み込む彼の香り。
「…う、うう…」
紅い瞳からぼろぼろと涙がこぼれ出す。ぎゅう、とラディスの服を掴んだ。
「リィン。すまなかった。俺が悪かった」
「ご、ごめっ、なさい…。ぼく、ユ、ユマを…」
しゃくり上げながらリィンは必死に言葉を吐き出した。
「ユマなら大丈夫だ、何ともない。お前の方がボロボロだ」
ラディスが呼吸を促すように、小さな背中をゆっくりと優しく撫でる。
「う…。ラディスっ。ごめっ…ん」
「大丈夫だ、誰も怒っていない。誰もお前を責めたりしない。安心しろ」
「ぼ、僕を嫌わないでっ…。ぼく、もっと頑張る、から…」
ラディスの手が止まった。
「…リィン」
リィンは泣きじゃくりながら訴える。
「ぼくを、そばに置いて…。お、おねがいだ…僕、もっと強くなるから…」
「リィン…。もう良い。分かったから」
強く、リィンを抱き締める。華奢な肩が震えている。
「ラ、ディス…」
「大丈夫だ。お前をどこへもやらない」
「う…」
全身から力が抜けた。
◇◇◇◆
リィンをゆっくりとベッドに横たえる。
眉間にしわを寄せ苦しそうに喘いでいる。高熱が出ているうえに感情が激しく乱れたのだから当然だ。汗で額に張り付いた栗色の髪を、手で梳いてやる。
リィンが薄く目を開いた。その目にはまだ涙が溜まっている。
「ラ、ラディス…」
彼はリィンにぐっと近づき額をつけて、その赤茶の瞳をのぞき込んだ。
「ここにいる。お前が眠るまで傍にいるよ」
そう言って額に口づける。リィンは弱々しく瞼を閉じた。ふっくらとした白い頬に、涙が伝う。指先でその涙を拭った。
ラディスは苦悶の表情を浮かべリィンを見つめる。
ユマの部屋を飛び出したリィンをすぐに追いかけた。小さな身体が怯えながら走り去る。
薄暗く汚れた路上で見つけた時の光景は、悲惨なものだった。
容赦なく降り続く雨。傷だらけのリィンは、まるでボロきれのように横たわっていた。両手を見ると真新しい傷口から血が流れている。転がっていた短剣の意味を悟り、愕然とした。
リィンには、『力』など使わなくても済むような生活をさせてやりたかった。その為ならば何だってしてやるし用意するつもりだったのだ。大事な、娘だ。
なのに、そのリィンが求める居場所が、よりにもよって一番置いてやりたくない場所なのだ。一番危険で過酷で平穏とは正反対の場所。それをリィンは望んでいる。
自分の護衛をする事によって今後も言われもない迫害と差別を受け続ける事になるだろう。
そんな事はさせたくなかった。
自分一人なら良い。運命を共にすると誓った同士なら構わない。だが…。
リィンを、ティルガの大事な娘を、その渦中に置くなど…。
深いため息を落とす。
自分の考えが甘かったのだ。
俺のせいで、こいつを巻きこんでしまった。
自分のこの壮絶な人生に…。




