033:大事なひと
町の中央広場を中心にして、南東に位置する区画は高級住宅街だ。貴族や富裕層がこぞってそこで生活をしている。この地区で家を構える事が、ある種のステイタスにさえなっているのだ。以前に立ち寄ったモルスディック邸があるのも、この地区である。
大通りに面した大きな石造りの家。見た目は会社のようにも見え、飾り気のない外観。巨大な門扉に作りつけられた呼び鈴を鳴らすと、しばらくして婦人の従者が施錠を開けて顔をのぞかせた。
「ラディス先生、どうぞお入りください。旦那様がお待ちですわ」
「ああ。ユマの様子はどうだ?」
ラディスは家に入りながらすぐに状態を聞き出す。
「お嬢様は先程ちょうど起き上がられたところです。二日前から少しお熱があるようで、胸が苦しいとおっしゃられて。食欲もあまりないようですし…」
四十代だろうか、少し顎の尖った輪郭で、眼鏡をかけている従者はため息をつきながら続けた。
「ラディス坊っちゃんには、もっとこちらへ寄っていただくようにして欲しいですわ。お嬢様を元気づけてあげてくださいまし。
…あら、この子は?」
従者がフードをかぶったリィンの存在にようやく気付いて、ラディスを見上げた。
「俺の護衛だ」
「ラディス、待っていたぞ」
目の前の広い階段から一人の紳士が下りてくる。
ひょろりとした体躯に白のブラウス、上等な生地の茶のベストに対のズボンを身につけている。白髪混じりのブラウンの髪は綺麗にセットされ、柔らかな物腰。
「まったく、用がないとお前は顔を見せにこないな。親不孝な奴だ」
ラディスに笑みを向けて握手を交わす。柔和な笑顔は、慈愛をたたえている。
ジェイクは髪と同じブラウンの瞳をしていた。ルキリア貴族ではないようで、それはこのベイルナグルでは珍しい事だった。ルキリア族以外の種族がこの地区にこれ程大きな家を構えられるという事は、商人としての才能に恵まれているのだろう。
ジェイクが傍らにいるリィンに気づいて視線を寄こした。
「ジェイク、これがリィンだ」
ジェイクの目が大きく見開かれる。
ラディスが挨拶するように目で合図した。リィンはフードをとり、ジェイクを見上げて言った。
「リィンと申します」
「…君が…」
口元が僅かに震え出す。ジェイクはそのままじっとリィンを凝視し絶句した。それから口元がふにゃりと曲がり目じりが下がる。笑顔を作っているようだが、それは何とも不格好な表情だった。
「…綺麗な子だ…。シルヴィに、似ている。それに、その髪の色は…ティルガの…」
震える手がリィンの髪におそるおそる触れる。ジェイクの瞳に涙があふれた。
「リィン…。私はジェイクだ。ジェイク・ハイゼルだ。君のお父さんの事を良く知っている。彼は、とても偉大な、人物だったよ」
リィンは初めて、こんな大人の紳士が泣く所を見た。ジェイクは泣きながら微笑んでいる。
「ああ、よく来てくれた。よく、ここへ来てくれた。君は確かに、ティルガとシルヴィの子だ」
ありがとう、とジェイクは言った。
リィンの胸は熱くなり、そして涙ぐんだ。
彼は知っている。父様と母様の事を。
そして、リィンの中の、ティルガを見つけて泣いているのだ。
ラディスがそっとジェイクの肩を抱いた。ジェイクは何度か頷きながら鼻をすすり涙を拭う。
「はは…。すまないね、どうも年をとると涙もろくなってしまって。ラディス、ユマを見てくれないか」
「ああ」
ジェイクがリィンに振り返り、また笑顔を向ける。
「後でゆっくり話をしよう」
「はい」
ジェイクに微笑みを返した。
これが、父様の友達だった人でラディスのお父さん。
優しい人だ。
従者に剣とマントを渡して階段を上がる。
美しい木目の扉にノックをしてラディスが中へ入り、ジェイクと従者は隣の部屋へ入っていった。リィンの目の前に開かれた扉の奥に、≪ユマ≫がいるのだろう。緊張で少し息苦しくなる。
「ラディス、来ていたの」
「ああ。大丈夫か?」
「ええ。ちょっと無理をするとすぐこれだわ」
気遅れしながら部屋に足を踏み入れる。花の優しい香りが流れる室内は、綺麗に磨き上げられた家具や装飾品が並び女性の部屋らしく華やかな内装だった。大きな出窓の傍らに豪奢な作りの真っ白なベッドが置かれ、そこに身体を起こした女性がいる。
ユマは、とても綺麗な女性だった。
あまり外に出ない為に日焼けをしていない色白の肌。ブラウンの髪は柔らかい曲線を描いて、その華奢な両肩へと流れる。瞳には力があり愛らしい口元には笑窪が浮かび、微笑んでいるのが見えた。
ゆったりとした白の寝間着を着ているせいか実年齢より幼く見えるようだ。
ラディスはユマと対するように傍の椅子に座っていて、彼もまた微笑んでいる。
リィンはその光景に、激しい衝撃を受けていた。
いつかネルティエとラディスを見た時のような息苦しくて胸が詰まる感覚と似ているが、まるで違う。リィンは自分があまりにもショックを受けている事に、動揺した。何故目の前の光景に、こんなにも動揺しているのかも分からないまま無意識に自制をかける。
落ち着け…。
自分に言い聞かせる。が、視界がだんだんと暗くなってきて、深呼吸をしようとしても浅く息を吸い込む事しか出来なかった。
ラディスの表情は今までに見た事のないものだった。
ユマを見つめる彼は、無防備で穏やかで、何のてらいも一切混ざらない瞳をして、その微笑みはとびきり優しく、相手を包み慈しんでいる。
そう見える。
そんな彼を初めて見た事で、予想していた事が真実だったと気づかされた。
どくん、と心臓が脈打つ。
苦しい…。
目をそらさなきゃ。早くここから去らなきゃ。
そう思うのに視線は目の前の二人に張り付いたままで、身体も凍りついたように動かない。すうっと自分の身体が二人から遠ざかってゆくような感覚。
胸がぎゅう、と潰されているかのように、痛い。
ラディスの手が、ユマの頬に触れる。
「まだ熱いな」
「もう大丈夫よ。ラディスの熱さましは、とっても良く効くもの」
リィンは両目をぎゅっと固く閉じた。
その時だった。
パリン、と窓ガラスの割れる音。
「きゃっ」
「ユマ!」
はっとして目を開く。目の前の光景が否応なしに飛び込んできた。
ユマの寝ているベッドのすぐ横にある、大きな出窓。その窓ガラスが割れて、バラバラと下に降り注いでゆく。ラディスがユマを抱きしめるようにしてその身体で彼女をガラス片から守っていた。
愕然とした。
『力』が暴走してしまった。
そう認識した途端、全身に悪寒が走り、がたがたと口元が震えだす。
「…あ、あ」
何かを言おうとしたが喉が詰まって言葉が出ない。浅い呼吸を何度も繰り返す。
ゆっくりとラディスが身体を起こし、リィンの方へ顔を向けようとしている。
怖い…!
リィンは駆け出した。
「リィン!」
背後からラディスの声。
視界の端に隣の部屋から何事かと従者が出てきたのが見えた。
全力で広い階段を駆け下り、扉に飛びついて外へ飛び出した。そのまま石畳の上を走る。
僕は何て事を!
息が上がって苦しい。でも、走らなければ。
足を動かせ。もっと早く。早く!
遠くへ逃げなければ。怖い。怖い。
怒ったラディスが追いかけてくるかも知れない。
ベイルナグルの通りをがむしゃらに走り続ける。小さな段差に躓いて、その勢いのまま転んだ。
膝や手の平に鋭い痛みが走り口に砂利の味が広がった。
「う…」
両目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。
「おい、大丈夫か」
目の前に手が伸びて来た。誰かがこちらに手を差し伸べようとしている。
「僕に、触るな!」
リィンは大声を出しながら立ち上がり、声をかけてくれた相手も振り返らずにまた走り出す。
『力』で傷つけてしまう。心が乱れて制御出来ない。
角を何度も曲がり、薄暗く細い道を走り続け、小さな袋小路で崩れ落ちるように膝をついた。
両手をついて喘ぐように荒い呼吸をすると喉が切れてしまったかのような痛みが走った。そこでやっと雨が降っている事に気付く。
リィンは泣いていた。
雨はリィンの小柄な身体の上にも容赦なく降り注ぐ。全身ずぶ濡れで四つん這いになったまま声をかみ殺して泣いた。
何てひどい事をしてしまったんだ。
僕は何てひどい事を…。
ラディスはきっと怒ってる。
だって、ラディスの大事なユマを、僕は傷つけようとした!
苦しい。
息が、思うように出来ない。
壁際に積み上げられた木箱が、がたがたと音を立てている。呆然としたままそれを見上げた。
また『力』が勝手に暴れている。
泣いているからだ。
感情を、コントロールしなければ。
泣くな。泣き止め!やめろ!
そう思うのに、後から後から涙が出てくる。
「…っう、あ…」
震えながら緑のベストに右手を入れて短剣を取り出し、鞘を乱暴に取り払う。躊躇なく銀色に光る切っ先を両手で握り締めた。雨に混じりながら赤い血が滴り落ちてゆく。固く目を閉じて、痛みに耐える。
揺れていた木箱がぴたりと動かなくなった。
両手に込めていた力を緩め、ゆっくりと目を開く。
目の前の水たまりが泥と血で濁っていた。
このままここにいたらいけない。でも、剣もマントも置いてきてしまった。このままの格好では目立ってしまう。
僕はイリアス族だから…。
立ち上がろうと足に力を入れるが、身体が思うように動かず転んでしまった。絶え間なく降り続く雨がリィンの体力を奪ってゆく。そのまま這って移動して壁に背をつける。見上げた空は灰色で、天から無数の水滴が落ちてくる。
リィンはそのまま気を失った。