032:胸に秘めるもの
翌朝、目覚めたリィンは身体が鉛にでもなったかのような感覚を覚えた。ベッドから起き上がるのもやっとで、膨らんだ胸を抑えつけるように日常的に巻きつけている布を今日はどうしてもする気になれなかった。ただでさえ息苦しい感じがする。とにかく今は止めておこう。この緑のベストを着ていれば、身体のラインは隠せる。
身支度をのろのろと整え階下へと続く階段を降りてゆくと、人の話し声が聞こえてきた。玄関口にラディスとクレイ、それに珍しくエンポリオもいて、三人は立ったまま何やら話しこんでいた。
「…実際に見てみないと何とも言えんな。昼過ぎにそっちに行く。クレイ、お前も来い」
「はい」
「僕は専門的な事は分からないからね、ワドレットに直接聞いてくれ。
リィン、おはよう!今日も可愛いね」
エンポリオが目を細め、手を振ってやって来る。くせの強い金色の髪がふわふわと朝日に輝く。彼は何の冗談か分からないが、しょっちゅうリィンを口説こうとしていた。
ラディスは両手を腰に当ててリィンをじっと観察し、ずかずかとエンポリオを追い抜かしてやって来た。
「お前…。熱があるな」
そう言ってリィンの額に手を当てる。
「な、ないよ」
慌てて言い張るが、その顔は熱で赤く目も潤んでいる。
「今日は寝ていろ。昼過ぎからはエンポリオのところへ行くだけだから護衛もいらん」
「大丈夫だよ!」
「かわいそうなリィン。この人でなしに、さんざんこき使われたんだろう?ああ、こんな華奢な身体をしているのに!」
そう言いながらエンポリオが突然リィンをぎゅっと抱きしめた。
反射的に逃げようとしたが、熱のせいで動きが鈍っていた為、がっちりと彼に抱きすくめられてしまった。
しまった…。
エンポリオの紺色の両目が大きく見開かれる。
「リィン、君…。君ってば…」
エンポリオがリィンの顔を覗き込んで続けた。
「女の子だったんだね…」
リィンはどうして良いか分からずエンポリオの腕の中で俯いた。ラディスがため息をつきながら頭を掻く。
「…イリアス族の女性は、何かとリスクが高い。お前も知っているだろう、エンポリオ」
「ああ…。イリアス族は美しい種族だ。奴隷の時代から、惨たらしい運命を背負わされる女性の、何と多かった事か」
奴隷として高値で売られ、凌辱され、心と身体を切り刻まれるのだ。
「そういう事だ。この事はお前の胸の内にだけ留めておけ。それと、今まで通りリィンに接するように。良いな」
ラディスが念押しし、エンポリオはこっくりと頷いた。
「…まさか女性だったなんて」
やっとクレイが声を出した。顔面蒼白である。
「で、では、私は女性に剣を振るっていたという事に…」
生真面目なクレイには相当のショックだったようでリィンは慌てた。
「良いんだ、僕が望んだんだ。それに、下手に女扱いして欲しくない」
必死で言い募るが、クレイは弱々しい視線を投げるだけで言葉を発しない。ラディスが振り返ってクレイに言った。
「気にするな、クレイよ。この凶暴な奴を淑女と一緒に考えない方が良いぞ」
「…何だよそれ」
ラディスの物言いにむすっとして言い返す。
「ああ、リィン。僕は嬉しい!何せこれで堂々と交際を申し込めるのだからね!」
エンポリオが満面の笑みで、また強く抱きしめてくる。
「エ、エンポリオ…くるし…」
ラディスがエンポリオの頭を叩きリィンを解放してやりながら首を振った。
「まったく…。やっかいな奴にバレちまったな。とにかく、リィンは大人しく寝室で休んでいろ。エンポリオ、お前は仕事場へ戻れ」
「リィン、僕は君の味方だからね」
紺色の瞳がこちらをじっと見つめる。
「…ありがとう」
エンポリオは満足げににっこりと微笑んで帰っていった。すぐに診療所の慌ただしい朝が始まる。ラディスは颯爽と廊下を歩き、クレイがふらふらとその後に続いた。
◇◇◇◆
診療の合間、ラディスは記録をつけながらクレイに話しかけた。
「何か言いたそうだな」
クレイは次の患者を迎え入れる為に脱脂綿やガーゼ等を所定の位置へセットしながら、憮然として答えた。
「…何も私にまで秘密にしておく事はなかったのではないですか」
ラディスは苦笑をもらす。
「女性と知っていたら、あいつに護衛を頼まなかったか?」
クレイは逡巡し言葉に詰まった。
「…分かりません」
「どちらにせよ、あいつはそのうち護衛から外す」
「え…」
「ゼストと約束をしたからな。あいつには人として『力』なんか使わずに済むように、暮らせるようにしてやらないと。護衛なんていう職業はその真逆の行為だ。それにまだ若い。こっちの都合で生きる世界を狭めるような事があってはならない」
クレイはラディスを見つめた。やはり、彼はリィンの保護者のようにその将来を案じていたのだ。真っ先にその事を最優先に考える。
しかし…。
「リィンはそれを望むでしょうか。私にはそうは思えません」
ラディスが眉をあげてクレイを見やる。
「望まないというのか?そんな訳ないだろう」
「しかしもし、リィンがラディス様の護衛である事を望んだら、どうなさるおつもりですか」
珍しくクレイが言い募る。
「あり得ない。意味が分からん」
クレイがまた口を開きかけた時、次の患者が入って来てその話は中断された。
彼の胸中には確信めいたものが去来する。
…ラディス様は分かっていらっしゃらないのだ。
強い精神力と揺るぎない信念を持ち、休む事もせず戦い続けるラディスという人間。その彼に魅了されたクレイにならリィンの気持ちが手に取るように分かる。クレイ自身がそうであったように、何を言われても何があろうとも、この主とともに生きていこうと決断させる程の影響力とカリスマ性を、併せ持つ人物。それがラディスという人間だ。
その傑出した人物に出会えた事こそがクレイにとっての、奇跡ともいうべき大事な出来事なのだから…。
◇◇◆◆
大きなベッドの上でリィンはうっすらと瞳を開けた。ニコルが作ってくれた氷嚢が、ひんやりと額を冷やしてくれている。
数時間眠っていたようで、だいぶましになったように思える。ゆっくりと身体を起こし居室へと向かう。
リィンは必死だった。熱なんか出してラディスに護衛は無理だと言われてしまいそうで、落ち着いて眠ってなんかいられなかったのだ。
ぼおっとしたまま扉を開くと、ラディスが既に外出しようとしている所だった。
クレイも席を立とうとしており、ニコルとチェムカは二人で台所に立ち後片付けをしている。室内は慌ただしく、リィンにはまだ誰も気付いていないようだった。
「あ、待って先生。さっきジェイクさんとこの従者の人が来てね」
ニコルが前掛けで手を拭いながらラディスを呼び止めた。
「ユマさんの診察日を早めて欲しいって。どうしましょ」
具合が良くないのかしら、と不安げな表情。
「そうか。明日は休診日だったな。明日出向くと伝えてくれ」
振り返ったラディスが目の前にいるリィンに気付いて、つんのめるようにして立ち止まった。
「…びっくりさすな。まだ顔が赤いな、大人しく寝ていろよ」
リィンの小さな頭に、ぽんと手を置いて出ていった。
「あらリィン、起きて大丈夫?お腹すいたでしょう。こっちへおいでな」
ニコルが声をかけてくれる。
「う、うん…。あの、ジェイクって?」
ああ、とテーブルにてきぱきと配膳をしながらニコルは説明をした。
「ジェイク・ハイゼル。先生のお養父さんで、貿易商をしている方よ」
「ラディス様の後見人とでも言いましょうか」
クレイが付け足して説明を加える。
「ジェイクさんとこには、お嬢さんが一人いてね。身体があんまり強くないんだよ」
確か今年で二十二だったかしらねえ。色白の美人で優しくって、とっても気立ての良い娘さんなんだけどねえ。
「…ていう事は、ラディスの妹、さん?」
「そういう事になるね」
「…ふぅん」
リィンはテーブルの隅の席に座りながら、何の気もなような返事を返した。
「リィン、まだ辛そうでねえの。無理しちゃだめだべ」
チェムカが心配そうにリィンの顔を覗き込む。
「平気だよ。ニコルの美味しい料理を食べたらすぐに治るさ」
にっこりとチェムカに笑顔を向けてから、リィンはもりもりと目の前の料理を食べはじめた。
「あはは。ほんと、食欲はあるみてえだ」
「これリィン。ゆっくり食べなさいな」
だって、早く治さなくちゃ。明日は絶対ついていくんだ。
以前にラディスの友人の、運び屋ミッドラウが言った言葉をリィンは記憶していた。
ラディスは愛する人を作らない。それは自分のゆく道が、あまりにも険しく過酷なものだと承知しているからだ。その道を、自分と同じ運命を、愛する女性に課す事などできないからだ。そしてそう思う彼を安心させて包み込んでやれるような女性が、今まで現れなかったという事も事実だ。
しかし≪ユマ≫は違う。
ミッドラウの言い方はそうだった。
ジェイク・ハイゼルはラディスの養父で、そのジェイクには一人娘がいる。その女性の名が≪ユマ≫だ。
単なる偶然ではない。きっとその人物こそが、ミッドラウの言っていた≪ユマ≫なのだ。ラディスの妹。しかし血は繋がっていない。
リィンはその女性に会いたいと思った。
どんな人か見てみたい。
ラディスが好きなのかも知れない女性…。
◇◆◆◆
「おい、何してんだ」
ラディスが呆れた声でリィンを咎めた。
「僕も行く」
翌朝リィンは素早く準備を済ませ、ラディスが外出するのを待ち構えていた。
「病み上がりが何言ってる」
「もう平気だよ!」
既にマントを羽織りフードをかぶっているのは、ラディスに顔色を見られないようにする為だ。ラディスの調合した熱さましの薬はよく効いて、もう熱は下がっていた。まだ少し頭がくらくらするが、歩けない程ではない。
「…どうしてそんなに頑固なんだか。まあいい。そのうち連れて行こうとは思っていたからな」
ラディスが折れてクレイに留守を預け診療所を後にした。今日はどんよりとした曇り空で、今にも雨が降りそうな気配。空気が湿っている。
「ジェイクはお前の父親、ティルガの無二の親友だった」
「父様を知ってるの!?」
「ああ。生前のティルガの事を良く知っている。色々と聞くと良い」
リィンの胸は期待と不安で一杯になった。
父の事を知る人物に出会える喜びと、ユマという女性の存在。
リィンは考えのまとまらない頭を振って一生懸命に歩を進めた。心の奥がざわざわとしていたが、それはきっとまだ体調が万全ではないからだ、と自分に言い聞かせながら。