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紅い月 青の太陽  作者: 茂治
第三章
31/101

030:夜の住人−歌姫−

ベイルナグルの広場から北に位置する通りは夜にこそピークを迎える。怪しい色を輝かせ夜明けの鳥が鳴くまで、そこを訪れる人々を夢へと誘う。

まだ宵の口の時間ではあるが、既に酔客がうろつく通りをラディスは大股で横切ってゆく。その後ろをリィンはフードを一層目深にかぶってついてゆく。

半地下になっている一軒の店。

入り口には筋肉隆々の大男が裸の上半身に太い鎖を巻きつけて周囲を威圧していた。ラディスはその店へ続く階段を淡々と降りてゆく。リィンは一瞬躊躇した後、慌ててその後へ続いた。入り口の大男がラディスに僅かばかりに会釈し、リィンに向かって鋭い眼光を向けた。


「俺の連れだ」


ラディスがそう告げると大男は無言で重厚な扉を押し開いた。


一瞬視界が闇に閉ざされ、前後左右の感覚が鈍る。

耳にさざめきが聞こえ、そこがホールだと気づいた。


その空間を貫く、透き通った声。


真っ暗な視界の先に薄黄色に輝く舞台が浮かぶ。

リィンは棒立ちになってそれを見つめた。

真っ白の長い髪に、褐色の肌をした女性がたった一人、その舞台の中央に立つ。

銀色の布を幾重にも重ねたようなドレスが天女の羽衣のように、彼女の動きに合わせ柔らかく弛む。きらきらと照明を反射して暗い客席に光を届ける。

舞台の上に立つ彼女は、スローテンポのバラードを唄っていた。

何という魅惑的な声だろうか。柔らかく、妖艶でいて力強い。

そしてその存在をより神秘的にしているものがあった。

彼女は目隠しをしたまま唄っている。

薄青色の光沢のある布で目を覆い後頭部で結ばれたその布を、両肩から長い髪と一緒に垂らしていた。


「リィン」


はっとして目の前に焦点を合わせると、真黒のシルエットのラディスがリィンを振り返っていた。ホールの客席には降りずに従業員用の通路へ向かう。暗く絞られた灯が点々とその通路を照らし、そこだけが現実的に存在しているかのようだ。しばらく行くと行き止まりに扉があり、その前に女性が壁を背に佇んでいた。


「ラディス!久しぶりじゃない」


その女性の格好にリィンはまた棒立ちになった。

黒の艶やかな髪を高い位置で束ね、耳に大振りのピアスが光る。申し訳程度の布でその豊満な胸を隠し下は下着と見間違える程、丈の短い黒のズボン。どちらもその妖艶な身体のラインに、ぴったりと張り付くような作りになっていた。引き締まった右の太ももに黒の布を巻きつけ丈の長い編み上げ靴を履いている。腰には剣を差しており、良く見るとその身体は完璧に鍛え上げられていた。

彼女は妖しい表情を作り、真っ赤な紅を引いた口元をほころばせた。ラディスの首にその腕を絡ませる。


「相変わらず良い男」


「君のディーバの診察に来た。通してくれるかな」


ラディスはいつもの美しい微笑で彼女を見おろす。

彼女は必要以上にラディスに身体を寄り添わせ、ふふふと笑う。そのしなやかな肉体の美しさを彼女自身理解しているようだ。


「ネルティエはまだ舞台だよ。ねえラディス、それよりあたしと良い事しないかい」


リィンは目の前が真っ赤になるような感覚を覚えた。

胸が焼けるような、つまるような、とにかく息苦しい。

ラディスと女性が同時にリィンを振り返った。


「…あら」


「グレイア、今夜は冗談が通じない奴を連れてるんだ。素直に通してくれ」


グレイアはラディスに絡みついたままため息をつく。


「何だってこんな所へ子供を連れてきたんだい」


「…子供じゃない」


フード越しにリィンはグレイアを睨みつける。

焼けるような感情。何故だろう、息がうまくできない。


「俺の護衛だよ。リィンだ」


グレイアは黒い瞳を丸くしてリィンを見つめ、それからにっこりと笑った。

赤い唇から覗く白い八重歯は尖っていた。まるで肉食獣だ。


「あらそう」


唐突にグレイアはラディスに口づけた。

熱烈な、キス。

遠く拍手と歓声が響く。

リィンはたまらず顔を背けた。

このまま二人を見つめていたら、『力』が暴走してしまいそうだ。


何故?


分からない。


苦しい。


…痛い。


…何故…?


「はあ…。良い男。このままあんたを食べちゃいたいわ」


恍惚の表情でラディスを見上げるグレイア。


「そりゃあ痛そうだ」


「ネルティエが戻ったわ。良いわよ、通行料ももらったしね」


何事もなかったかのように二人は笑顔を交わし、ラディスは扉を開いて奥へ進む。リィンもその後へ続こうとした所へグレイアが長い足で行く手を阻む。


「あんたはダメ」


リィンは力いっぱいグレイアを睨んだ。

その彼女からただならぬ気配が漂い、相当の使い手であると分かる。リィンは警戒を強めた。

グレイアは肉食獣のような目を細め、リィンを見つめて呟いた。


「あんたがリィンねえ。ミッドラウが気に入りそうな子」


「え?」


呆けたリィンの瞬間をついてグレイアは手を伸ばし、そのフードをとった。

リィンの白い肌と赤茶の瞳が露わになり、グレイアの動きが止まる。


「…そう。イリアス族ね」


リィンはむすっとしたまま彼女を見据える。何が何だか分からない。何故ミッドラウの名がここで出てくるのか。それより理由もなく、彼女に腹を立てている自分がいる。

そんなリィンをそっちのけでグレイアは満足げに笑った。八重歯が怪しく光り、迫力のある美貌とその肉体を惜しげもなくひけらかす。


「あたしは世界一のディーバ、ネルティエの護衛を務めるグレイアよ。ラディスは定期的にネルティエの目の具合を見てくれているの」


グレイアは背の低いリィンを見下ろし、細い指でリィンの顎をなでる。リィンは身体を硬直させ緊張を高めた。

彼女から放たれる殺気は相変わらずで、隙がない。しかしここで『力』を使うのはまずい。ラディスは診療中だし、何よりこの場所には逃げ道がない。


「ふふ…。そう固くならないの。ミッドラウから聞いてるわ。面白い子がラディスの所に来たってね」


ミッドラウは運び屋だから、きっとこの地区にも出向いたのだろう。


でも今はそんな事どうでも良い。


リィンは見上げるようにグレイアを睨みつける。

グレイアは楽しそうに目を細め、驚く事を言った。


「ふふ。ラディスが好きなのね。可愛い子」


「なっ…!!僕は別にっ」


妖艶なグレイアの顔が、真っ赤な唇が迫る。


「…っう!?」


噛みつかれるように、キスされた。


柔らかい唇の感触。


「な、何をっっ」


グレイアに顔をがっちりとホールドされて動けない。リィンは顔を真っ赤にして彼女の怪しく輝く瞳を非難する。


「あんたもあたしの大好物よ、リィン。いらっしゃい、あたしの歌姫に会わせてあげる」


リィンはごしごしと腕で唇を拭った。袖口にグレイアの真っ赤な紅が残る。

初めての感触。柔らかくて生温かかった。


キスって、こんなもんなの…。


リィンのファーストキスは唐突に奪われてしまった。


◇◇◇◆


その光景は、まるで一服の絵画のようだった。


先程舞台に立っていた女性が、化粧台のスツールに座っていた。透き通るような白の髪は腰まであり、光を吸収しているかのように輝いている。それと対照的な褐色の肌に桃色の唇。目隠しをしていた布は取り払われ、つぶらな瞳が虚空を見つめている。それに対するように同じ作りの椅子に腰かけたラディスが、長い指で彼女の顎を支え、瞳を覗きこんでいた。薬瓶を傾け、その瞳に点眼し零れた液体を布で拭う。


「ありがとう、ラディス」


「具合は?」


「だいぶ良くなっているわ。最近痛みがないの」


「変えた薬が合っているようだな」


グレイアがリィンの耳元で囁く。


「綺麗な二人。このまま息の根を止めてやりたいわ」


物騒な事を言う。しかし、分からなくはない。


そう、お似合いだった。


またリィンの心がざわつく。動悸が早まってゆく。

綺麗な二人。大人の雰囲気。


僕は、その中には入れない。


だって、似合わないもの。


リィンはまた視線を外し俯いた。

目を閉じて気づかれないように深呼吸をする。

何故かは分からないが、自分が極度に動揺しているのが分かった。


落ち着け。

コントロールしろ、自分を。


僕には関係ない。

僕には必要ない。


そうだ、そんな感情、必要ない。いらないんだ。

邪魔なだけだ。


僕は、男だ。


もう随分昔に、誓った事だ。


再び瞼を開く。その瞳にはつい先程までにはなかった澄んだ光が宿っていた。


ネルティエがグレイアとリィンの方へ顔を向けた。黒い瞳は二人を通り越した先を見つめる。リィンはそこでようやく理解した。


盲目の歌姫、ネルティエ。


「グレイア。その方は?」


「ラディスの護衛だよ」


「…リィンと申します」


ネルティエが柔らかな笑顔を作った。何とも愛らしい笑顔。


「まあ!じゃあ、ミッドラウが言っていた子ね。ここへおいで。私に顔を見せてちょうだい」


リィンはおずおずと歌姫の前へ歩を進め、彼女は両手を伸ばしてリィンを迎えた。リィンの細い両肩に手を添え、それから首を伝って頬を包んだ。そのまま唇や鼻筋、目元にゆっくりと指先を這わせる。


「まあ、綺麗な子。お肌もつるつる」


ネルティエが楽しそうに笑った。リィンもつられて少し笑う。


「はじめまして、リィン。私は歌唄いのネルティエ。あなたの先生に診てもらってから、とっても調子がいいわ」


「とても美しい歌だった。僕、あんな綺麗な歌声を聴いたのは生まれて初めてだ」


「ありがとう、リィン」


リィンの額に唇を寄せるネルティエ。リィンはくすぐったい思いがした。


「すまんな、すぐ帰らないと」


ラディスは既に大きな鞄を肩に担いで席を立っていた。


「ええ、ラディス。気をつけてね」


そう言ってネルティエは片手をラディスへ向かって伸ばす。彼は優しい仕草でその腕をとり、手の甲に口づけをした。


「また来るよ」


薄暗い通路を引き返す。


「ラディス!」


扉が開かれたまま、そこにグレイアが仁王立ちしている。


「あんた、最近シーカーのところへ顔を出してないでしょう」


ラディスが僅かに天を仰いだ。


「…ああ。忘れてた」


グレイアはにやりと笑った。尖った八重歯が覗く。


「呆れた。この地区であいつを恐れないのはあんたくらいだわ。気をつけなさい、今夜は現れるでしょうね。おせっかいなミッドラウが、その可愛い護衛の事を言いふらしていたから」


「ご忠告、ありがとうよ」


リィンは緊張する。誰だ。敵か?

ラディスを傷つけようとする奴だろうか。


そんな事、させるもんか。


そうだ、その事だけに集中しろ。


リィンの集中力が徐々に高まってゆく。


◇◇◆◆


夜の帳が下りた通りを足早に歩く。この区画の本来の顔がもう覗き始めている。厄介な奴らに絡まれる前に、この場所を抜けなければ。


「僕、グレイアにキスされた」


その告白にラディスはリィンを見下ろした。

彼からはリィンの表情は見えない。フードをかぶった小さい頭が俯いており、少なからずショックを受けているようだ。どうやら初めての経験だったらしい。


「そうか。残念だったな」


「何が」


怒ったような顔でラディスを見上げてくる。


「あんな野獣に襲われちゃひとたまりもない。事故だと思え」


リィンはきょとんとして、それから少しだけ笑った。


「…野獣は失礼だろ。なんか、思ってたのと違った」


素直な感想である。ラディスはぷっと吹き出した。


「まあ良いさ。そのうちに、それがどれだけ素晴らしいものか分かるようになる」


彼からはリィンの表情は見えない。

リィンは誰にも聞こえないように呟いた。


そんなの、僕には必要ないんだ…。

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