029:食えぬ男
「フェーマス様、ラディス先生をお連れ致しました」
声をかけられた通りから角を曲がってすぐの邸宅。
玄関を素通りし庭に通された。
隅々まで手入れの行き届いた庭には真っ白で花弁の大きな花が咲き誇っており、小さな噴水が清らかな水を湛えている。天使の彫像がその脇に鎮座し、庭の中央に配置されたテーブルには高価な茶器が並んでいた。
「御苦労、フォダルト。初めてお目にかかる。私はフェーマス・モルスディック。十二代続くルキリア貴族だ」
そう言いながら椅子から立ち上がった壮年は数歩前に出て、右手を差し出した。額が広く、背は低い。中肉中背の体躯。見るからに上等な上下揃いの礼服。角度まで整えられているかのような髭をたくわえ、黒に近い青の瞳がぎょろりとラディスを見つめる。口元は笑っているが、その瞳は油断ならない。ラディスが大股で彼の前へ行き握手を交わす。
「ラディス・ハイゼルだ。どうやらあなたは俺をご存知のようだが」
「はは。この町で君を知らない者はいない。さあこちらへ」
テーブルにつくよう勧められる。そのテーブルの上にも花瓶が置かれ真っ白の大きな花が生けられていた。フォダルトがラディスの鞣革の大きな鞄をもらい受け、その重みに少しよろける。脇には女性の従者が物音ひとつ立てずに控えていた。フェーマスがリィンに視線を投げ声をかける。
「君も来たまえ」
リィンはその場に立ち止まったまま逡巡する。
「君の事も知っている。彼の護衛で、イリアス族の生き残りなのだろう」
「リィン、来なさい」
仕方なくリィンはフードをとってフェーマスにぺこりとお辞儀をした。
「リィンと申します」
「さあ二人とも席についてくれたまえ。君達の貴重な時間を無為に奪いたくはない」
「ならば単刀直入にお聞きしたい。わざわざ招いた理由は何だ?それにここへは最近やって来られたようだが…」
「私はザイナスで事業を興しそれに従事していた。それが順調に軌道に乗った為、後を会社の者に任せ、古くからのこのモルスディックの土地につい最近帰ってきた所なのだ」
ラディスは長い足を組んで椅子に腰かけ、上手に口角を持ち上げ笑顔を作った。
「なるほど。そこで耳にした噂の当人を見てみたいと、従順な老執事を何日間も通りに立たせていたわけか」
フェーマスは鷹揚に笑った。
「手厳しいな。どうやら君に小細工は通用しないようだ」
リィンはこの慣れない雰囲気に飲まれそうになっていた。白い花から甘ったるい香りが止めどなく流れてくる。女性の従者が音もなく近づいて来て手前のカップに飴色の茶を注いでいった。
「率直に言おう、ラディス君。君は信用に足る人物なのか」
ラディスは美しい笑顔を崩さずに無言のまま。その目は感情を映さず、彼が診療の時にしているように相手の全てを鋭く観察する。
「私はロンバートとは旧知の間柄だ。久々に帝都に帰ってみたら、ラディスという若い医師がその業界で革命を起こしていると聞く。その一端をあのロンバートも担っているというではないか。その上彼が、私にこう言うのだ」
そこまで言って優雅にカップを持ち上げる。ゆっくりと茶で喉を潤してから続けた。
「彼こそが、停滞しているルキリアの医学界を牽引してゆく人物であると」
フェーマスはじっとラディスを見据える。
「ロンバートは人が良すぎるのだ。昔からすぐに騙される。今でも懲りずに人を信じて、困った奴だ」
ラディスは短く息を吐き、瞳を伏せた。
「…そのようだ」
「革命と言えば聞こえが良いが、それは戦争に近い。そしてそこで英雄と呼ばれる者は、得てして善と悪の両方の顔を持つ事になる。見る者の立ち位置によって、君は悪魔になり得る」
リィンはぎゅっと胸のつまる思いがした。この人は何を言っているのだろう。ラディスが悪魔のわけがないじゃないか。緊張のあまりに喉が乾いて張り付く。
「その通りだ」
悪魔と言われた彼は微笑をたたえ、恐ろしいくらいに冷静な瞳でフェーマスと向き合っている。
「だからこそ、私は君を実際に見ておきたかった。色々と調べさせてももらった。その≪黄金の青い目≫は伊達ではないな」
「もうあなたは全て知ったも同然だ。俺から何かを話す必要もない」
フェーマスはじっとラディスを数秒見つめ、そして首を振った。
「…そうか。時間をとらせて申し訳なかった。ザイナスから取り寄せた貴重な葉で淹れたお茶だ。飲んでいってくれ」
それを聞いてリィンがカップを手に取った時だった。
「リィン、よせ」
「え?」
ラディスがフェーマスを見据えたまま、ゆっくりとカップを持つ。それを真横に掲げ、そのままカップを傾けた。飴色の液体が勢いよく庭の地面に染み込んでゆく。
「ちょっ…!何してんだよ!」
びっくりしてリィンが声をあげた。彼のその行為を見てフェーマスやフォダルト、従者が凍りついたように固まってしまった。張りつめた緊張が辺りを包み込む。
「どうやらザイナスでは、猛毒を数滴たらして飲むお茶が流行っているようだ」
そう言ってラディスが席を立った。その場にいた彼以外の誰もが、静止絵のごとく硬直する。
長身の医師は愕然とするフォダルトの手から鞄を取り、何事もなかったかのように歩き出す。フェーマスも老執事も、ラディスの行為に対して怒りもしなければ笑い飛ばしたりもしない。誰も一言も声を発さずに顔をひきつらせている。その表情こそがラディスの言った事が真実であると、何よりも雄弁に物語っていた。リィンも呪縛から解かれ飛び退くようにして席を立つ。
「ラディス君」
背後からフェーマスの声が追いかけてきた。リィンは恐怖のあまり振り返れない。
「あなたは頭の良い人だ。どうするかは自分の意思で判断したら良い。俺は俺のやりたいようにやる」
ラディスはそれだけ告げ、モルスディック邸を後にした。
◇◇◇◆
「何であのお茶が猛毒入りって分かったんだ!」
そういえば、クレイが以前言っていた。人並み外れたラディスの嗅覚。
「あのフェーマスという野郎、なかなか食えんな。徹底的に俺を調べたようだ」
「匂いで分かったの?」
「いいや。全く分からなかった。あのテーブルに生けてあった白い花の匂いのせいでな」
確かにあの花の匂いは強烈だった。リィンは身震いをした。フェーマスはラディスの嗅覚が人のそれよりも鋭いという事まで、調べ上げていたのだ。
夕闇の迫る石畳を足早に歩く。今日はまだ往診が残っているのだ。
「じゃあ何で分かったんだよ」
「あいつの瞳孔の動きを見て分かった」
「は?」
「人は上手に嘘をつくが、瞳孔までは操れない」
あんぐりと口を開ける。
「じゃあ最初からあの貴族は、ラディスを殺そうとしてたって事?」
「…いや。あのザイナスの茶のくだりまでフェーマスは真実を語っていた。ロンバートと友人である事も間違いないだろう。ただあいつに声をかけたのは、ロンバートだけではない。おそらくはルーベンか、トワも接触してきただろう。
モルスディックはルキリア貴族の中では珍しく、商才に富んだ人物が出る家柄だ。邸宅は豪華ではないが、その資産は無視できない。そして当主もまた、自分の利するものが何かを見極めようとしている。どちらに転んでも、彼は不利にならないんだろうよ。だから俺を試したんだ」
リィンは呆然とラディスを見つめる。
「呆けている暇はないぞ。夜が深まる前に往診を終わらせないと面倒だ。これから行く所は治安の悪い危険地帯だ。気を抜くな」
今いた所だって十分危険地帯だったじゃないか!
リィンは心の中で叫びながら、ラディスの後をついていく。
革命は戦争で、見ようによったらラディスが悪魔。
ひどく難解な事を、あのルキリアの貴族は言った。でもそれがとても重要な事だとリィンには思える。だからゆっくりとそれについて考えたかったし、どういう事なのかをラディスに聞きたかった。しかしその時にそんな暇はなく、リィンの頭の中はどうやってラディスの護衛をこなすかで一杯だった為に、この事は記憶の隅に追いやられてしまった。




