002:イリアスの涙
ラディスによって部屋に運ばれたゼストは、苦しそうに喘いでいる。もう息をする体力すら奪われつつあるようだ。
ベッドに彼を横たえた後、ラディスは素早く身支度を整えながらゼストの状態を細かにチェックし、クレイに的確な指示を出してゆく。
リィンはゼストの土気色の顔を見て完全に混乱し、ベッドの脇にしがみつくようにして彼の名を叫び続けていた。
「ゼスト、しっかりしろ!ゼスト!」
すると、リィンの身体が徐々に青白く光り出した。
まるで内側から光を生成し発光しているようで、だんだんとその光も強さを増してゆく。
慌ただしく準備をしていたラディスとクレイは同時に動きを止め、目を見張った。
「ゼスト、死ぬな」
まだ光は強さを増してゆく。ラディスはリィンを見つめたままクレイに指示を出した。
「クレイ、こいつを部屋の外へ出すんだ。このままではまずい事になる」
「し、しかし」
クレイは躊躇する。数分前の出来事がよぎったからだ。また『力』を使われたらたまらない。
「大丈夫だ。この状態の時に『力』は出せない」
それを聞いた瞬間にクレイは動き、ベッドからリィンを引きはがした。軽々と抱え上げ部屋から立ち去る。
ラディスはそれを見届けてからため息をこぼし、呟いた。
「どうりで、イグル化が進んでいないわけだ…」
◇◇◇◆
リィンはクレイによって応接室に移動させられていた。
簡素だがよく磨かれているテーブルには一輪ざしの青い花が活けてある。少しだけ開かれた窓からは、昼下がりのうららかな陽光が差し込んでいた。
小鳥達が口々にさえずり、静かに時が流れてゆく。ここだけを切り取れば平和そのものだ。
その中にあってリィンは椅子に腰をかけるでもなく、その花をじっと見つめ微動だにしない。限界が近いほどに疲労が蓄積しているはずだが、押し寄せる不安と焦りに、神経が高ぶっている状態だった。
短髪で栗色の柔らかそうな髪は思わず触れたくなる程に艶やかで、透き通った白い肌は、まるで陶器のようだ。母親に似て美しい顔立ち。華奢な身体の線は今にも脆く崩れそうで、赤茶の瞳も悲哀の色を滲ませていた。
あの日から、ゼストはリィンにとって父であり母であり、兄弟であった。
リィンの生まれる前から、こまごまと身の回りの世話をしてくれていたライサは、あの日からだんだんと元気をなくし、病に伏してから旅立つまでにそう時間はかからなかった。すでに年老いていたライサには、精神的なショックと旅を続けながら暮らす生活には耐えられなかったのだろう。
取り残されたのは五歳の子供と二十歳そこそこの青年。
ゼストの苦労は筆舌につくせぬものであった。
リィンの母であるシルヴィの、その弟であるゼストは立派に姉の子を育てあげた。ただでさえ肌の色と目の色で差別され、困難も多い道のりであったにも関わらず、だ。
それを痛い程に感じ、感謝しているリィンにとって、やっとこれからゼストに恩返しできるというところだったのだ。
あの傷は相当深かった。わかっている。
だが、助かってほしい。
自分はまだ何も返せていないのだから。
どうか奇跡が起こってほしい。自分は他に、何も望まない。だから、どうか。
このままゼストと会えなくなってしまったら…。
目を固く閉じ握り拳をつくる。
「母様、どうかゼストを守って」
◇◇◆◆
ラディスは難しい表情のまま、ふっと息を吐き桶の水で両手を洗う。額にうっすらと汗をかいてはいるが、いつも通りの完璧な手際で処置を終えた。
ゼストの脇腹の傷口はきれいに消毒され縫合し、清潔で真新しい包帯に包まれている。今は眠っているようだ。
傍らでは明らかに疲労しているクレイが、ゆっくりとした動作で後片付けをする。その手を休め、静かに言った。
「…ラディス様、この方は」
ラディスは懐から小型の時計を取り出し、ゼストの脈拍を計る。淡々と状態を観察し、記録をとりながら答えた。
「ああ。俺が伝えてこよう。お前はもう良いから、また呼ぶまで少し休め」
クレイは僅かだが眉間にしわを寄せ、辛そうな表情を見せた。だがそれは一瞬の事で、すぐにいつもの無表情に戻りラディスに一礼をして退室した。
長身の医師は疲労など微塵も感じていないかのように、慣れた手つきで後片付けを済ませてゆく。
外は夕闇が包み始め、駆けてゆく子供たちの足音と歓声が遠ざかる。
「うう…。こ、ここは…」
見るとゼストが苦しさに顔を歪め、身体を起こそうとしていた。すぐにラディスが身体を支えてやる。
「そのまま寝ていろ。ここは診療所だ」
ゼストは声の聞こえる方へ必死に顔を向けるが、目の焦点は合っていない。どうやらもう目は見えていないようだ。
寝かせようとするラディスの腕を、病人とは思えぬ程の力で掴み、
「あ、あなたが、ラディス・ハイゼルか!」
と、掠れた声で叫ぶ。
「そうだ」
「わ、私はゼストと言う。イリアス族だ。北のローグスの地から…」
「分かっている。とにかく今は安静に…」
「どうか!どうか私の連れを、リィンを頼む!」
ゼストは激しく咳込み、うめき声をあげた。しかしそれでもしがみついた腕は離そうとしない。悲痛なまでの懇願。
「あの子はイリアスの中でも特別なんだ。もし悪い人間にでも見つかってしまったら、ひどい目に遭わされるだろう…。
もう、あなたにしか頼めないのだ。どうかあの子に、人として生きる道を…」
目の見えていないはずのゼストだが、その眼光からは揺るぎのない意思と、燃えるような生命の力が放たれている。まさに命を削りながらの言葉。
ラディスはゆっくりと彼を寝かせ、静かに語りかけた。
「…俺の事をどこで聞いたかは知らないが、あの子供は≪解放の女神≫の子だな。あなたは初めて会った俺をそこまで信頼するというのか?」
「あなたが…本当に、あのラディス・ハイゼルならば…。わ、わたしは全てをあなたに託す」
肩で息をしながらゼストが言葉を絞り出す。
辺りは夕闇から幼い夜の闇へと変わり、水を打ったような静寂が包んだ。ラディスは恐ろしいほど真剣な表情で答える。
「…俺は、何があろうとイリアスと共にある。その誓約の元に、あの子供を引き受けよう」
ゼストの瞳から、一筋の涙が伝う。
「…ありがとう」
そしてまた混沌の眠りについた。