028:始動
運び屋ミッドラウがベイルナグルの町を去った後、彼とクレイ達に押し切られるようにして、リィンはラディスの護衛として本格的に動き始めた。
ラディスはしぶしぶ了承をし、往診には必ずリィンを連れて歩くようにした。
そうしてリィンはラディスと行動を共にする事で、彼がどのような毎日を送っているのかが分かるようになった。そしてあらためてラディスの持久力に驚く。
基本的に往診へは徒歩で行くのだが、その移動距離は半端ではない。ベイルナグルの町を出ることはしょっちゅうだし、危険な森の奥へ行くことだってある。その先で待っているのは年老いて自力で病院に通えない老人や出産間近の妊婦、貧困ゆえに病院にかかれない山村等の人々だった。彼らこそ、本当に切実に医療を欲している。
しかしラディスがその人々に出来得る事は限られているようだ。器具も薬品も十分に揃っていない出張診療の為、重症患者や処置の出来ない患者は帝国軍の医療部隊に連絡をとる。ラディスの往診では大半が患者の話を聞く事で終わる。相手の話をじっくりと聴き、その間にラディスは患者を≪診る≫。それは五感全てで相手の機微を感じ取ろうとしているような、全神経を集中させて行う真剣な作業であった。
だからこそ彼は過たず患者の状態を判断し、的確な処置を行えるのであろう。
その他に家庭で役立つような処置を教え、衛生指導もする。これが一番重要なのだとラディスは言う。
かと思えば帝都で政府の要職を務める大金持ちの診療もしたりする。この場合はその要人が町はずれにあるラディスの診療所まで、わざわざ足を運ばずに診てもらうのが目的で、倍の診察料を払ってラディスに往診を頼んでいる事が多い。
以前にニコルが言っていたようにラディスにとってはどの人々も患者である事には変わりはない、という事なのだろう。悪く言えば節操なしだ。
今日は診療を昼過ぎに終えてベイルナグル一の大病院で国に指定されている、ロンバート医師の処へ手伝いに行くという。
ニコルやチェムカ、クレイに見送られて二人は診療所を後にした。
「そろそろ音を上げる頃だと思ったがな」
先を歩くラディスが独り言のように呟く。
「僕を甘く見るな」
早歩きをしてラディスの横に並ぶ。
しかし本当は、全身筋肉痛で足を運ぶのもやっとだった。
これではもし何かがあった時に護衛としてきちんと仕事を果たせるのか心許ない。でも意地でも弱音は吐かない。やっとここまで漕ぎつけたのだから。
「おお、来たか。ラディス、回診を頼む」
ロンバート医師は診察室の仕切りから人の良さそうな顔をひょっこりと覗かせて、挨拶もそこそこにすぐにひっこんでしまった。ラディスはずかずかと部屋を横切り鞣革の大きな鞄から心音機を取り出して、それを首にかけた。腕まくりをし、消毒をかける。ふと思い出したように部屋の入り口に立っているリィンを振り返った。
「大人しく待ってろよ」
「…分かってるよ。子供扱いするなってば」
長身の彼は大股で歩き、あっという間に廊下を曲がって消えしまった。
リィンはマントのフードを目深にかぶったまま病院の外へと続く廊下を歩き出す。こういった場所では、やはり自分はいやでも目立ってしまう。それにイリアス族だと分かっただけで患者が動揺してしまう。その為いつも診療の時になると、ラディスから距離を置くようにしている。
歩きながらちらりと横へ視線を投げると同じような作りの部屋の内部が見て取れた。ベッドは向かい合って四つ。起きて本を読んでいる人や、談笑をする人。寝たままで腕に管を付けている人もいる。リィンには縁遠い世界であるような、しかし明日にでも自分がそこにいるかも知れないような不思議な感覚に捉われる。
この大きな病院の前は敷地はさほど広くはないが、短い芝の生えた広場になっている。その芝の上に腰を降ろし、ぼんやりと空を眺めた。今日は曇り空で、どんよりと薄暗い雲が一面を覆い隠していた。連日の歩き通しで全身が悲鳴を上げている。
ラディスの身体は何で出来ているのかと不思議に思う。
このベイルナグルに住む人々は恵まれている。
これ程医療の発達した町が他にあっただろうか。レーヌには行った事がないので分からないが、帝都以外はどこも似たり寄ったりだ。聖職者が医師を兼業し診療よりも祈祷の時間の方が長い。
彼らが信じる神は、リリーネ・シルラという伝説の女神である。これはレーヌ国が発祥の宗教で、今では全世界に広がり多くの信者を有する。女帝が統治するレーヌらしい、美しい女神。
その昔、この女神が大地に降り立ち聖なる光が全ての万民、生きる者達に降り注いだという。するといかなる病もたちどころに消失し、貧困や戦争等も≪完治≫し、地上の人々は平和と友愛の精神で心豊かに生きたという伝説が残されている。
「リィン、行くぞ」
振り返るとラディスが鞄を肩に担いで広場を横切って来るのが見えた。
慌てて立ち上がり後を追いかける。
「ロンバート先生の病院は大きいから、他にも医者がいるんでしょう」
ラディスがわざわざ診る必要があるんだろうか。
「ああ。だが、俺が送った患者もいるからな」
「ふうん」
こういう事がミッドラウの言っていたラディスの律儀な所なのだろう。
町の繁華街を通り南東へと歩を進める。
ラディスが町をゆくと自然と人々が声をかけてくる。時には家へと引きずられ、無料で診療をする事もある。その為に時間がいくらあっても足りないように思えた。後ろを歩くリィンを訝しげに睨む人も多く、その都度ラディスは最近護衛をつけたんだと説明をして回った。するとほとんどの人が納得顔をしてすぐに警戒心をとく。それ程に庶民の人々は医師である彼を信頼しているようだった。≪黄金の青い目≫を持つ彼であるが誰もが気さくに声をかけるし、その瞳を気にする者もいない。女性には小さな子供から年寄りまで絶大な人気がある。リィンはラディスに対した女性が顔を赤らめるのを、一日のうちに何度も見る事になった。
しかしそれだけではない視線がある事も、同時に知る事になった。凄まじい嫉妬や殺気、憎悪の塊が時折ラディスに容赦なくぶつけられるのを感じる。そのたびにリィンは身を固くし周囲を警戒するのだが、その視線の持ち主を特定するのは至難の業だった。人通りの多い町並みは、様々な年齢の様々な種族が行き来をしているからだ。
この中にラディスを殺したい程憎んでいる者がいる。
そう思っただけでリィンは緊張せざるを得ない。
当の本人はその気配に気づいているはずだが、いつもと何ら変わりなく飄々としているのだ。
きっとラディスの心臓には、ふさふさの毛が生えているに違いない。
「ラディス先生、ラディス・ハイゼル先生」
政府要人の診療を終えて石畳を歩いている時、背後から呼び止められた。
年老いた男性がこちらに向けて恭しく一礼する。
見事な白髪に深く刻まれた皺。黒のベストにプレスのきいた黒のズボン。その振る舞いからして貴族の執事といったところか。
ラディスは黙ってその老人を見つめる。長身の為少し見下ろすような格好になり、相手はラディスを見上げて口上を述べた。
「突然に失礼を致します。私はモルスディック家に仕える執事、フォダルトと申す者でございます。わが当主フェーマス様の命により、失礼ながらあなた様の事を、ここでお待ち申しておりました」
「何か御用かな」
「不躾なお願いだと重々承知致しておりますが、僅かばかりのお時間をいただきたい所存でございまして…」
「分かった、行こう」
フォダルトと名乗る執事の言葉を途中で遮り、主の元へ案内するよう促す。執事は一瞬目を大きくして、礼を言いながら腰を折り、前に立って歩き出した。
「おい、良いのか」
リィンはラディスを見上げ小声で話しかける。
どこの誰だか分からない、何だかっていう貴族の誘いをあっさりと受けるなんて。悪い奴だったらどうするんだ。
「気づかなかったか。あの執事、最近ここで良く見かけていたんだ。いつ声をかけてくるかと思っていたが」
「え…」
気づかなかった…。
ラディスは横目でリィンを見下ろし、わざとらしく眉をあげた。
「随分と頼もしいボディガードだ」
何の反論もできず、リィンは憮然と老執事の背を睨みつけて歩いた。