020:王女の気まぐれ
診療所ではクレイが一人、小さな紙束を睨んで計算をしていた。どうやらニコルもすでに帰宅したらしい。
「ラディスは!」
肩で息をしながら尋ねる。クレイは無表情のまま告げた。
「お察しの通りです」
案の定、リィンの帰宅を待たずにラディスは既に外出していた。しかしリィンは諦めない。
「僕、これから町へ行くよ」
「リィン、留守番をお願いしたいのですが。ラディス様に頼まれて、エンポリオさんの所へ薬品をとりに行かねばならないのです」
リィンは焦れながら早口で言い放つ。
「じゃあ、それ僕がやるから!」
クレイは少し困った顔をした。
「…デリザーム化硝酸とアグデントの粉末に、ジェンダーの肝の…」
「…分かった。留守番するよ」
「すみません。私が護衛を頼んでおきながら。ラディス様もそう簡単には認めてくれませんね」
ため息をつく二人。
「良いんだ。僕は絶対にラディスを護ると決めたから。諦めないよ」
「…たとえ、ラディス様を護る為とはいえ、相手を傷つける事になってもですか?」
「覚悟の上だ」
間髪を入れずにリィンは答えた。それもさんざん考えた事だ。
「頼もしいですね。ありがとうございます」
クレイは丁寧にお辞儀をし、眩しそうにリィンを見る。
「少し無謀でも、あなたのような人が、あの方には必要なのかもしれませんね」
そう言い置いてクレイは出ていった。リィンは顔を赤くして、赤くなっている自分に驚く。それから何故赤面しているのか分からなくて、首を傾げた。
クレイが外出してから数分とたたないうちに、玄関口が何やら騒がしくなった。馬車が診療所の前で止まり、人の話し声が聞こえる。すぐに玄関の呼び鈴が鳴り響いた。
「ラディス!いないの?」
リィンは少し気分が落ち込んだ。あの声は、ルキリアの皇族、国王の娘、エリナ王女の声だ。
しぶしぶ扉を開くと、エリナが両手を腰に当てて、顎を上向けた格好でリィンを睨みつけた。背はリィンよりも低い。今日は金色の髪に、紫色の宝石が嵌め込まれた髪留めをつけている。薄桃色のブラウスに上品な黒の膝丈スカート、黒のタイツに真っ赤な革靴。
「いるなら早く出なさい。ラディスは?」
「往診で外出中だよ。今家には僕しかいないけど」
「貴様、エリナ王女に何という口の聞き方をするのだ!」
背後にいる大男を見上げ、リィンの身体は凍りついた。ルキリア帝国軍の大佐、ウォルハンドである。
紺色の軍服ではなくブラウスに黒のズボンといった服装であるにも関わらず、異様な殺気は以前と変わらない。額にある傷痕が、恐ろしさを一層際立たせている。
「それに、近すぎる。下がれ蛮族め。イリアス族の分際で、何という許しがたい行為だ」
ウォルハンドは猛禽類のような鋭い目つきでリィンを見下ろし、腰に差した剣の柄に手を添えた。
「もう、ウォルは黙っていて!話が進まないじゃない」
エリナが振り返りウォルハンドを見上げる。彼は一瞬困ったような顔をして、それからエリナに頭を下げた。
「ひどいわ、ラディスったら!今日は私の買い物に付き合ってくれるって言っていたのに。約束を破られたのは何度目かしら、ねえナナン」
ウォルハンドの大柄な体躯の影に隠れてしまっていた女性の従者が、背延びをしてそれに答える。
「はい、えーと、十三度目になります」
「何だと!あの下賤め、生かしてはおけん」
生真面目な軍人は本気で怒っているようだ。
「良いのよウォル。ラディスは特別」
リィンは早く帰って欲しいと心の底から願いながら、そのやりとりを見守っていた。
「それに今はクレイもいなくて、お前しかいないのね」
お前呼ばわりされてむっとするが、無表情を装う。
十五のくせに、ませた女の子だな。あ、チェムカの弟と同い年じゃないか。
エリナがぐっとリィンに近づく。ウォルハンドが背後で警戒を強めた。エリナはリィンを品定めするかのように、視線を投げ、鼻から息を吐き出しながら言った。
「いいわ。お前、私についてきなさい」
「は?」
リィンは目を丸くする。言っている意味が分からない。ウォルハンドが固い表情のまま、エリナを諭すように語りかけた。
「いけません、エリナ王女。あなたのような高貴なお方が、イリアス族のような下等な人間を連れて歩くなんて」
「…どういう意味だ」
さすがにリィンも我慢の限界である。
エリナはウォルハンドもリィンも無視して、話を進める。
「もう私は決めたの!今日のお供はお前よ。感謝しなさい、お前のような者が、この私に選ばれたのだから」
リィンは不機嫌な声のまま答える。
「僕は行かない」
「…貴様。今すぐに死にたいらしいな」
「…僕みたいな下等な人間つれちゃいけないんだろ」
「エリナ王女の、いや、ルキリア皇族の命令は絶対だ」
呆れて声も出ない。どうやらこのウォルハンドという軍人は、ルキリア皇族の熱狂的な信奉者らしい。
「そうね、この診療所を空にしておくのもいけないわ。ウォル、あなたがここで留守番していなさい」
周囲にぎらぎらと獰猛な殺気を放っていたウォルハンドが、唖然とした表情を浮かべる。
「なりません。私はエリナ王女の護衛として来ているのですから」
「護衛ならこのイリアスがいるから良いわ。あなたを連れているとゆっくり買い物ができないの。さ、行くわよ」
金色の髪をなびかせてエリナが踵を返し歩き出す。ウォルハンドはそれを呆然と見つめ、リィンは仕方なくマントを手に、後に続いた。
「…エリナ王女を、命をかけてお護りしろ!」
なんで僕が。
そうしてエリナ、リィン、従者のナナンは馬車でベイルナグルの繁華街へと出掛けていった。
◇◇◆◆
ベイルナグルの中央広場から西南に伸びる通りには、豪華な洋品店や装飾品を売る店が軒を連ねている。
エリナは一軒ごとに馬車を店の前まで乗りつけ試着を繰り返し、たくさんの買い物をしてゆく。リィンは店内には入らずに、出入り口で待機しているだけだ。
先程から大きな声で店の主人とナナンが、いかにその服がエリナに似合っているかを褒め称えていた。リィンはちらりと窓から店内を見る。真っ白なドレス風のワンピースを身につけているエリナ。裾に小さな宝石がちりばめられており、それがきらきらと輝いている。確かに金色の艶やかな長い髪に、とても良く似合っていた。
リィンにはきっと、今までもこれからも、縁のないものだろう。女性である事を隠して生きていかなくてはならないリィンにとって、自分を着飾る事は多分この先もない。もしかしたら一生ないのかも知れない。しかしリィンだって、本当は興味がないわけではないのだ。繊細な細工を施した髪飾りや、肌ざわりの良いスカート。お洒落をする楽しさも知らず、自分の容姿に気を使う時間さえなく、十八年間を生きてきた。
窓ガラスに、暗い色のマントを纏い、目深にフードをかぶった自分が映る。
目線を先へ向けると、エリナが優雅に一回転してみせている。きらきらと光るワンピースが眩しくて、リィンは顔をそらした。俯くと、土埃で汚れた自分の靴先が見える。
この先、女性として生きていくという選択肢が、果たしてあるのだろうか。誰かを愛し、愛される日が来るのだろうか。
分からない。
どうして自分は、女として生まれてしまったのだろう。
いっそ男なら良かったのに。
「ねえ、お前。これどう思う?」
扉を開け、真っ白なワンピースを着たままのエリナが顔をのぞかせている。
「僕はお前じゃなくて、リィンだってば。…よく似合ってる。綺麗だよ」
エリナは満足げににんまりと笑い、また店の中へ消えた。こうしてみると、ルキリアの皇族とはいえ普通の十五の女の子である。こうやって実際に接してみるまで、その当たり前の事がリィンには分からなかった。ルキリア帝国の政府、ルキリア軍、そしてそれを統べる皇族によって迫害され続けていたイリアス族ならば、彼らを悪魔のように思うのは当然の事だ。現にその政策や、奴隷制を作った過去の行いは、血の通っていない卑劣で非道なものなのだから。
しかし、とリィンは思う。
僕が憎むべき相手は、この少女ではないのだ。きっと。
大きな荷物を抱えてナナンが出てくる。それを追い越すようにしてエリナがリィンの傍へやって来た。
ナナンが馬車に荷物を運びながら、エリナに声をかける。
「エリナ様、そろそろお戻りにならないと。ウォルハンド大佐が心配いたしますわ」
リィンは横にいるエリナを見た。
その瞬間、エリナがリィンの腕を掴み、馬車とは反対の方向へ全速力で走りだした。
「ついて来て」
「え、ちょっ…」
引きずられるようにして、転びそうになりながらリィンも走り出す。その足音を聞いて、ナナンが馬車から飛び降りた。
「エ、エリナ様!」
すぐ近くの曲がり角を折れ、エリナとリィンの姿は一瞬で消えてしまった。ナナンは顔を真っ青にして走り出す。
「エリナ様ぁー!」