018:孤高の強さ
その日の夜、普段よりは早い時間に寝室の扉が開いた。リィンは何となく寝たふりをして、ラディスの様子を窺う。
ガタン、と椅子を引く音。
どうやらまだ寝るつもりはないらしく椅子に腰をかけているようだ。それきり、何の音もしなくなった。リィンは彼が椅子に座ったまま寝てしまったのかと思い、のそりと起き上がる。
月明かりが青白く室内を照らし、薄く開けた窓からゆるやかな風が入る。椅子に座るラディスは、何をするでもなく窓の外をぼんやりと眺めていた。風が彼の薄茶色の髪を僅かに揺らす。長い足を組んで、その上に両手を組んで乗せている。
青い瞳は遠くを見ており、瞳の奥の黄金色が月光に照らされ輝く。
リィンは見惚れていた。
息を飲む程に幻想的な情景。
ラディスの整った容姿が際立ち、夢の中の人物であるかのような錯覚を抱く。現実離れしている。
しかしその表情は美しいあまりに線が細く、か弱く見える。普段の彼の、堂々としていて飄々とした雰囲気は欠片もなかった。繊細でどこか悲しげにも見える。少し不安になりそっと声をかけた。
「ラディス?」
「…起こしたか」
「ううん。まだ寝てなかった。どうしたの?」
「ちょっと煮詰まってな」
そう言いながら大きく伸びをする。
「もう寝たら?あんたちょっと働きすぎなんだよ」
「まあ、そうだな…」
しかしラディスはそこを動こうとはせず、窓の桟に肘をつき頬杖をついたまま、また遠い目をする。
「何だかとても疲れてるみたいだ。老けて見える」
リィンの憎まれ口にも彼は鼻で笑うだけで、いつものように言い返してはこない。大きなベッドの上で、両膝を抱えてラディスを見守る。
「…あんたは、人を恨んだりしないの?」
「そんな暇はない」
事もなげに言う。
やっぱり分からない。
嫌がらせをする人達や、ラディスに熾烈な運命を背負わせた元王妃。自分ならきっと恨む。復讐を考える。
だってラディスは何も悪い事をしていないのに。
「辛くなかったの?苦しくないの?どうしてそんなに強くいられるんだよ。何もしていないのに奴隷に落とされて、母親だって殺されたようなもんじゃないか。酷い奴らをそのままにして良いのかよ。…悔しくないのかよ!そんなの、僕は納得できない!」
リィンははっとして、口を噤んだ。憤りのままに言葉を吐き出してしまった。
「…ごめん」
「クレイに聞いたか」
ラディスは視線を窓の外からリィンに向けて、落ち着いた声で言った。
「辛いし苦しいに決まってる。俺は別に何も感じないわけじゃない」
青い瞳が真っ直ぐにリィンを射抜く。それだけで、リィンの鼓動は早くなってしまう。
「だが幸いにも俺はこうして生きている。周りの人達のお陰でな。そこに全ての意味がある。
…しかしなあ、このベイルナグルに診療所を置いたのは完全に当て付けだ」
薄く笑って視線をまた窓外に向け、低く呟いた。
「この国の腐った価値観などひっくり返してやる。この命はその為に使う」
種族や身分、地位で、人の価値は判断されるものではない。
彼自身が間違った価値観の最大の被害者だ。しかしその最下層から自分の努力と実力だけで、ここまで這い上がって来た。そして更に周囲の人々の考え方さえ根底から揺るがしている。彼の理念に賛同する人々に、次期国王アルスレイン。
彼にとってこの事こそが、復讐なのかも知れない。
リィンは少しだけラディスという人間の事が、分かったような気がした。
ラディスが盛大なため息をついて、がっくりとうなだれる。
「だめだ!考えが全くまとまらん。お前が変な事を聞くから、余計ややこしくなった」
「僕のせいかよ」
少し可笑しくて、リィンは笑った。
「リィン」
「何?」
「あの子守唄歌ってくれ」
「な、何で!嫌だよ」
ラディスが上目でぎろりと睨む。いくら凄まれても、嫌なものは嫌なのだ。人前で歌うなんて恥ずかしい。リィンはぷいとそっぽを向いた。するとラディスが呟く。
「…借金」
なんていう奴。
恨めしそうにラディスを睨むが、彼は顎をしゃくって促す。リィンは両膝を抱えたまま、ゆっくりと息を吸い込んで目を閉じる。
「かぜのこえをきいて
みちしるべはこころのなかに…」
月明かりに照らされた部屋に、囁くようなリィンの歌声がしみ込んでゆく。ラディスはまた頬杖をついて、窓の外を見つめる。
彼が幼い頃に聞いた、子守唄。
思い出の中にあるシルヴィの歌声が重なる。
優しくて美しい、そして力強い旋律。
思い返せばあの施設にいた時だけが、心の休まる時だったのかも知れない。
皮肉なものだ。
「…きみへのあいを
だいてしずかにめをとじよう」
薄く目を開けてラディスを見ると、彼は頬杖をついたまま眠っていた。
「なんだよ。人に歌わせておいて」
リィンはむっつりとしながら、シーツを掴んでラディスにそっと近づき、ふわりとそれをかける。自分はベッドに敷いてあるシーツを少し剥いで、それにくるまるようにして眠った。
◇◇◇◆
早朝、リィンは目覚めてすぐに勢い良く起き上がり、急いで身支度を整えて部屋を出た。診療が始まる前に、伝えたい事があった。
居室の扉を開けると、ニコルが台所で料理の仕込みをしているのが見えた。
「あら、随分早いのねえ。おはようリィン」
「おはよう」
ニコルに笑顔で答える。
テーブルを見ると、ラディスが片手にティーカップを持って立ったまま茶を啜っている。その脇には席について眠そうにしているクレイ。やはり不機嫌そうだ。
「なんだ、珍しい事をするなよ。雨が降るだろう」
ラディスの軽口にニコルが楽しそうに笑った。
リィンはテーブルを挟んだ向かい側に立ち、彼を見上げる。
「ラディス。僕をあんたの護衛にして欲しい」
「は?もうなってるだろう。契約書でも見たいのか?」
「それはそうだけど、そういう意味じゃなくって」
クレイが僅かに目を大きくしてリィンを見上げた。
リィンはどう言ったら伝わるのか分からず、とにかく言葉を続ける。
「だから、僕があんたを護る。ちゃんと護衛として僕を使って欲しいんだ。ラディスは僕が命をかけて護るよ。あんたが死ぬ時は、僕が死ぬ時だ」
部屋がしん、と静まり返った。
クレイは驚いたまま固まり、ニコルは両手を頬に当てて目を丸くしている。
ラディスは一瞬、虚をつかれた顔をして、あろうことか爆笑した。
リィンの顔がみるみる真っ赤に染まってゆく。
「な、何だよ!僕は真剣だぞ!」
ラディスは持っていたティーカップをテーブルに置いて、腹を抱えて笑っている。
「お、お前が…!何を言いだすかと思えばっ…」
「笑うなよ!」
「そうですよ、先生。リィンが可哀そうだわよ」
ニコルもリィンに加勢する。
ひとしきり笑い、息を整えてから真剣な表情を作り、ラディスはリィンに向き直った。
「断る」
途端にリィンの顔が青ざめる。
「何で!」
「今のお前ではかえって足手まといだ」
「僕が未熟だからか」
「まあ、そういう事だ。クレイ、行くぞ。…くく」
明らかに笑いを噛み殺しながら、ラディスは部屋を出てゆく。クレイはちらりとリィンに視線を向け、無言のままラディスの後に続いて退室した。
あとにはむっつりとしたリィンが残され、ニコルが心配そうに見つめる。
「僕は諦めないぞ」
リィンはぼそりと呟いて、それからニコルに笑顔を向けた。