009:ルキリア帝国軍
翌日は唯一の休診日だったが、リィンが起きた時には既に隣にラディスはいなかった。
階下へ降り、居室の扉を開けるとクレイが台所で茶の準備をして部屋を出てゆく所だった。ラディスは書斎に籠って仕事をしている為、それを持ってゆくのだとニコルが言う。そのニコルはテーブルに広げられた緑色のさやから豆を取り出している最中だった。リィンも椅子に座り、それを手伝う。
「もうそろそろ、また通いでここに来るようにするからね。あたしが留守の間は頼んだよ」
「うん。わかった」
その時、玄関の呼び鈴が鳴り響いた。
「あら。誰かしらね。リィンはここにいなさいな」
ニコルが前掛けで両手を拭いながら出てゆく。
リィンはそっと耳を澄ませた。ニコルが扉の外の人物と何やら会話を交わし、施錠を開いたようだ。くぐもった声が聞こえる。
「お休みのところ失礼する。我々はルキリア帝国軍の幹部である。この家の主、ラディス殿にお会いしたい」
リィンは思わず席を立った。
帝国軍。シルヴィと暮らしていたイリアス族の町を襲った奴らだ。
音を立てぬように静かに扉を開く。帝国軍と名乗った人物は合計で三人いた。武装はしていないが、その姿ですぐに分かる。ベージュのマントの下、紺色で統一された軍服は、ルキリア族の青い瞳の色からとられている。階段をクレイが降りてくるのが見えた。
「何事でございましょう。ラディス様は今お取り込み中です」
「つべこべ言わず君の主を今すぐ呼んできたまえ」
そう言って一歩前に出てきた男。背は三人の中で一番低いが、態度は一番大きく、中年で鼻の下に髭をたくわえている。かなり太っていて、到底剣を振るうようには見えない。
「私はルキリア帝国軍のペイン副司令であるぞ。この私を待たせるな」
大仰に身体を反らせ、ぼってりとした人差し指をクレイの胸元に突き付けた。クレイは丁重に頭を下げる。
「は。申し訳ございません。ペイン副司令殿。しかしこの度はどのような御用件で…」
「通報があったのだ。どうやらここにあの危険極まりない、イリアス族の子供がいるらしいな」
部屋中に聞こえるような、わざとらしい大声。クレイとニコルがゆっくりと顔を見合わせる。
「隠そうとしても無駄だぞ。そのような事をすれば反逆罪でお前等を捕える事も出来るのだ」
リィンは音を立てずに扉から身体を離す。そして踵を返そうとした時、背後の気配に気がついた。
「動くな」
低い声が響く。リィンの全身に緊張が走った。
「ゆっくりと振り返りこちらを向け。『力』を発動させた場合は即刻処刑する」
リィンは言われたとおりに身体を反転させる。台所にある裏口は、普段からあまり施錠していない。きっとそこから入ってきたのだ。
すぐ目の前にあの紺色の軍服が見える。剣をリィンに突きつけている人物はラディスよりも少し背が高く、屈強な体躯で全身から殺気を放っていた。
「この帝都に入り込んで来るとは、自らの身の程を知らんらしいな。何と愚かな」
リィンは目の前の軍人を睨みつけた。顔は四角く角ばっており、固そうな黒髪は短く刈りあげられている。額からこめかみにかけて、刀傷のような古い傷痕が見え、その両眼は鋭く、猛禽類を連想させる。
「いまいましいイリアス族め。この帝都を脅かすことは許さんぞ」
「ウォルハンド!いたか!」
玄関先から先程の男が声を上げた。
「はい、ここに」
ウォルハンドと呼ばれた大柄な体躯の軍人は、返事をし剣でリィンに歩くよう指示を出す。だがリィンは彼を睨みつけたまま動こうとしない。
「お前ごときに拒否権はない。ここの住人がどうなっても良いのか」
扉を開け、廊下へ出ると皆が注目し、しんと静まり返った。ニコルが心配そうな表情で、前掛けを両手で握り締めているのが見える。リィンは顔の片側だけでニコルに微笑んだ。背の低い太った男の前へ立たされる。ウォルハンドは男に一礼し一歩後ろへ引いた。玄関のすぐ脇にいる二人の軍人はまだ若く、緊張で顔を赤くしている。
男は嫌らしい笑いを顔一面に張り付かせ、生臭い息を吐き出した。
「ほう。何と気持ちの悪い容姿だ。小僧、ここで何をしている」
クレイがリィンをかばうように横に並んだ。
「これはリィンと言います。ここで正式に契約を交わし正当に雇っている使用人でございます」
「お前は黙っていろ!」
男はクレイを一喝し、脂で光っている顔をリィンに近づける。
「小僧、もう一度聞くぞ。ここで何をしている」
リィンはまっすぐにその男を睨みつけ、一言も言葉を発しない。歯を思い切り噛み締めているせいで、こめかみにうっすらと血管が浮き出している。返答次第でリィンは捕まってしまう。のみならず、ニコルやクレイまでどうなってしまうか分からない。そして、この嫌らしい男ははじめからリィンを捕まえるつもりでここへ来ているのだ。だからこそリィンは何も言わず抵抗していた。
気持ちが悪いのはお前の方だ。その汚い顔を僕に近づけるな。ルキリアの犬め。
リィンの怒りはぐらぐらと煮えたぎる。
「これはこれは、ペイン副司令殿。わざわざこんな町はずれにまでお越しいただくとは」
張りつめた場の空気など介していないような能天気な声がして、皆がそちらへ顔を向けた。ウォルハンドだけはちらりと目をやり、すぐにリィンに視線を戻した。ラディスが階段を降りてくる。ペイン副司令はリィンから身体を離し、ラディスに向き直った。
「これは一体どういう事か、ラディス君。このように危険なイリアス族を雇うなんて、近隣の住人から苦情が出ているのだぞ」
ラディスは自然な動作でリィンを後ろへ押しやり、ペイン副司令の前に立ち両手を顔の横に上げる。ニコルがすぐにリィンの傍へ行き、その細い肩を抱いた。
「こいつは俺の護衛として雇っているだけですよ。イリアス族によくある職業でしょう。御覧の通り、この診療所の裏手に広がる森にはイグルがわんさかいますからね。ここへ来る患者さんの身の安全の為にも、そうしているのです」
「勝手な事ばかりされては困るな。そいつの素性も調べねばならん」
ペイン副司令は鼻白み、長身のラディスを憎々しげに見上げている。
「そうでしたら許可証を取っていただかない事にはね。この事はアルスレイン元帥殿はご存じかな」
その言葉を耳にして、ペイン副司令は急にそわそわとし出した。隣に控えていたウォルハンドがラディスを睨みつけて言い放つ。
「貴様、口を慎め!」
ラディスは視線を彼に向け、眉をあげて呟いた。
「ああ。元気か、ウォルハンド大佐。木偶のお守も大変そうだな」
ウォルハンドは眉間に皺を寄せる。それを聞き咎めたペイン副司令が声を荒げた。
「何だと!今何と言った!」
「それより、ペイン副司令殿。最近体調がすぐれないのではありませんか?特に朝方目覚めるのが辛く、食事をとると胸が悪くなるような」
ラディスは目を閉じたまますらすらと言った。ペイン副司令は言葉を失い、驚いたまま呟く。
「何故分かる。そうなのだ…医者にもかかっておるのだが一向に良くならん」
「それは内臓や肝臓が弱っている為になるのですよ。それにお酒が相当お好きのようだ」
「そうだそうだ。私は何はなくとも酒だけは欠かせん。お前は見ただけでそんな事も分かるのか」
「多少出来る医者なら当然の事です。少しお酒も控えられた方がよろしいでしょう」
ペイン副司令は腕組みをし、うなった。
「それは今かかっている医者にも言われたがな、酒だけはやめられん」
ラディスは口角を持ち上げて笑顔を作った。見とれてしまう程の美しい笑顔。
「私が調合した薬を出しましょう。数十日、少しだけお酒の量を減らしていただくだけで、必ず良くなりますよ。どうです?」
「本当か!」
すかさずラディスはクレイに薬を取りにいかせ、その間に薬の成分や飲み方などを事細かに説明した。ペイン副司令は当初の目的を忘れ、熱心に耳を傾けている。玄関口に立つ二人の若い軍人は、困惑の表情でお互いの顔を見合せる。たまりかねて、ウォルハンドが話に割って入った。
「ペイン副司令殿。これはこいつのやり口です。乗せられてはなりません」
「別に乗せらてはおらんわ。お前は下がっていろ!」
ラディスはクレイから小包を受け取り、差し出しながら言った。
「さあ、これを。ペイン副司令殿には町の治安を守っていただき感謝していますので。無料で結構ですよ」
「うむ」
ペイン副司令はその包みを懐へ収め、咳ばらいをして続ける。
「今日のところはこれで失礼する。そのイリアス族については保留にしアルスレイン元帥に指示を仰ぐ事にしよう。まあ私の見た限り、少年であるし特に問題はないと思われるがな。行くぞ」
そう言い置いて、でっぷりと太った身体を揺らし、先に立って出ていく。慌ててその後に若い軍人がついていった。最後に残ったウォルハンドはラディスを見据えて言い捨てる。
「下賤め。恥を知れ」
ラディスは美しい笑顔を崩さない。
「そんなにこの目が羨ましいかウォルハンド。取り出せるもんなら、こんなものお前にくれてやるのにな」
途端に周囲の空気が変わる程の殺気を出し、ウォルハンドは一歩、ラディスに近付いた。その場にいた皆が、その殺気で身体が硬直してしまって動けない。ラディスにぎりぎりまで近寄り、ウォルハンドは憎しみの表情を隠しもせず、口の端から絞り出すように言った。
「今ここで、その両目を抉り出してやろうか」
ふん、と鼻で笑い、臆する事なくラディスは答える。
「アルスレインへの土産にでもするつもりか?」
「貴様!」
「ウォルハンド、何をしている!」
石畳の上で立ち止まっているペイン副司令が大声で彼を呼びつけた。ウォルハンドはラディスを睨みつけたまま、マントを翻し踵を返した。
「あのオヤジは長生きできんだろうな」
盛大なため息をつき、ラディスが呟く。
「全体的にむくんでいるのは、肝臓の機能が低下している事によるものでしょうか」
クレイが真面目な表情でラディスに問いかけた。
「そうだ。それに胃と腸もあまりうまくないな。臭いがきつかった」
そう言いながらラディスは俯き加減のリィンの頭に手を置いた。リィンの顔は真っ青のままだ。
「心配するな。あいつらはお前じゃなく俺を嫌っているのさ」
リィンの隣でその細い肩を抱いているニコルが続ける。
「そうそう、この先生がいけないんだよ。憎まれ口ばっかりたたくからねえ」
「ふん。美しすぎる俺に皆嫉妬してるんだろう」
「…そう思っているのは当人だけかも知れませんね」
珍しくクレイが軽口を言って、二人は書斎へと階段を上がっていった。ニコルは笑って、そういうのが憎まれ口って言うのよねえ、呟く。
「さあさ、さっきの続きでもしようかね、リィン」
リィンは青い顔のままだったが、ニコルに笑顔を見せ頷いた。