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くじらが…目くじら立てた……ぷっくくっ

「では来週までに提出するように」


 千夜の居ない教室で千夜の居ない一日を何とか乗り切った俺は千夜の隣の家に帰ることができる。今日は部活が休みだ。顧問が帰宅途中顔に白く粘度の高い液体をぶちまけられて目が痛いらしい。


 噂じゃ地区大会で当たる学校に1人ものすごいのが入ったらしいが……

 俺もうかうかしてられない…千夜のやつは剣道部のマネージャーになったらしい。つまり、敵の応援だ……


 ……ふっ、仕方ないさ。俺は負け犬…千夜と一緒に居ることも出来なかった負け犬。


 帰って自主練だ。今はそれしかない。打ち込むんだ。

 この単調で味気ない毎日を素振りで振り払う。煩悩を捨て、俺は俺の戦いに専念する。

 そう、俺には剣道がある--


「佐伯クン…佐伯クン?佐伯達也クン!」


 この声は--

 俺を呼び止める下手くそな日本語に俺は反射的に体が硬直した。何故だろう…ただ声をかけられただけなのに心臓が急に鼓動を早めていく。血流がより勢いを増して熱を帯びていく。


 この声が--あの日からずっも俺を惑わせ続けるんだ。


「……」

「アッ!ナンデ無視スルノ!?」


 そそくさと帰ろうとする俺の襟首を捕まえてズルズルと引っ張る。この女の名はノア・アヴリーヌ。フランスからの留学生だ。


 向日葵のような髪色に深い青の瞳。幼さの残る愛らしい顔立ちはどうしてか俺の心を掴んで離さないのだ。

 華奢な体で俺を無理矢理引っ張ってくるノアともう1人、クラスの女子が合流する。


「佐伯クン、課題ノグループ、私達ト一緒ダカラ…ネ、松田サン」

「……ん」


 ノアと、一緒に居る陰気な女子松田さんが小さく頷く。

 ボサボサの黒髪は顔にかかり、海藻を頭から被ったような髪型だ。海の悪霊を思わせる、それが松田さん。


 なんてこった。どうやらさっきの課題よグループが俺と彼女ら2人らしい。

 ノアと一緒か……どうしよう。こんなことなら予習をしっかりしておけばよかった。やっぱり難しい問題をサクッと解いてカッコイイとこ見せ--


 --違うだろ佐伯達也っ!!俺には千夜が居るだろうっ!?


「ドウシヨウカ?来週マデダケド早クヤッチャッタホウガイイヨネ?佐伯クンハ?」


 確かに彼女は可愛いし、優しい。この前傷心の俺をその優さで包み込んでくれた。あの優しさ、そして膝枕…

 しかしやっぱり俺には千夜が--


「モウッ!聞イテル?」


 ドンッと小さな体をぶつけてきながら俺の腕を掴んで引っ張る。その時密着した肘と彼女の胸が--


 ああああああああざといっ!!

 これだ!これが俺を惑わせる!!

 あの日から彼女は俺がほっとけないらしくよく構ってくれるんだが…とにかく無自覚なのかボディタッチやら上目遣いやら……

 ただでさえ見た目がいいのに男的にたまらんアピールが多いのだ。


 これがフランス人……

 彼女は悪魔だ…俺を純愛という信仰の道から引きずり落とそうとする、小悪魔……


「ヤッパリ聞イテナイ」

「いや……別に……」

「ナンカズット上ノ空ダヨ?ホントニ平気?」

「ああっ…心配しないでくれ。で、なんだっけ?」

「……今日今から課題やろうって…アヴリーヌさんが言ってるよ。私はどっちでもいいけど、鯨を見に行きたい」


 松田さんが要件を伝えてくれた。松田さんは鯨を見に行きたいそうだ。

 今からか……俺も自主練がある。地区大会へ向けての仕上がりは万全だ。不安はないが…あるとすれば相手だ… 全中の猛者らしい。奴の入った高校では剣道部が全員そいつにのされたとか……

 やっぱり不安だ。自主練を--


 しかし……ノアと放課後まで一緒だったら…もう、あれだ……


 そうだ、小悪魔に騙されるな。俺には千夜が居る。今ここには居ないが、居る。何度でも言う。千夜が居る。

 千夜のだったら小便でも飲める。それくらい愛している幼馴染が……

 だから決してそれ以外の女になびくことなど--


「モシ良カッタラ私ノ家デ今カラヤラナイ?」

「行きます」


 *******************


「エヘへ…友達ヲ呼ブノハ初メテダカラ、緊張スルナ」


 俺の隣で…美少女が笑っている。可愛い。そして、その美少女の家に今から俺は行く…

 すまない千夜…しかし、課題を終わらせなければならないんだ…許してくれ。


「……鯨、見たい……」


 どうしよう…いい雰囲気になったら…いや、ただの勉強会じゃないか。やましいことなんて何も無いぞ千夜。信じてくれ!


「……ホエールが…吠えーる…ふふっ」


 でも万が一もあるし…彼女なんか俺に気があるような素振りだし…だって普通男を家に簡単にあげないだろう?


「……ノア…さんは一人暮らしなのか?」

「ウン。コッチデハマンション借リテルノ」


 そっかぁぁぁ……一人暮らしかぁ……


「……慣れない国で1人だと何かと大変だな。もし……良かったら……俺に出来ることなら、手伝うよ」

「アリガトウ」


 ありがとうだって!!やばいな。イけるんじゃないか?なぁ……


「ホエールの…ホイール……ふふっ」


 なぁ!!


「--ノア・アヴリーヌ!!」「こらぁっ!!」


 なーんて浮かれながら歩いている俺に水を差すのは道を塞ぐように立ち塞がる4人の男子生徒。

 着崩した制服に派手な頭。敵意しか感じない強い口調と目つきの不良達が俺達の進路を阻んだ。


 ……なんだコイツら?今ノアを呼んだのか?


「……ア」

「知り合いなのか?」

「知リ合イト言ウカ…ナンカ目ヲ付ケラレチャッテ……」


 なんだと…?こんな可憐で小さな女の子を!?ふざけたヤツらだ!!


「てめぇ!!今日こそは白黒つけてやろうじゃねぇか!!」「覚悟しろよ!!」

「イヤ……私ハ--」


 脅しかけるように大声を張り上げながら近づいてくる不良達とノアの前に俺が立つ。

 背中に熱い視線を感じる。今の俺、カッコイイ--

 一応言っておくが女の子を守るのは男として当然のことで、決して下心はない。


「彼女に用があるなら俺を通せ」

「あぁ?」「なんだてめーは」「おめーなんぞに用はねぇんだよ。どけ!」


 ……しょうのない奴らだ。


「……ふん、痛い目に遭いたいか?」

「あぁっ!?」「舐めとんのか!!こらぁっ!!」

「シロナガスクジラが…城、流す…くくっ」


 凄んで見せる不良達を前に恐怖はない。剣の道に生きる俺にとってこんな奴らチ○カス以下だ。

 大人しくしていればいいものを--


「佐伯クン」

「ん?」


 その時、殺気立つ不良達と俺の間に割り込んだのはノアだった。


「危ないから下がっ--」

「大丈夫…佐伯クンニ迷惑カケラレナイカラ……」

「しかし--」

「1分デ片付ケルネ」


 え?

 可愛い笑顔とはあまりにもミスマッチな宣言と共に、不良達が襲いかかった!


「上等だよこらぁぁぁぁ--」


 素人丸出しの大振り、俺は咄嗟に彼女を庇おうと踏み出しそうとした。

 しかし、そんな俺を止めたのは力強く地面を踏みつけたノアの踏み込みだった。


 --ダンッ!!とすごい音がしたのと同時にノアの体が拳を振りかぶった男の間合いにスっと入る。

 ほぼ体が密着した至近距離で、無防備に体を晒した不良に向かってコンパクトな一突きがノアから放たれた。

 速く、正確で、それでいて強い--ノアの放ったその一撃の威力は食らって吹っ飛ぶ不良を見れば十分に伝わった。


「ぎゃああああああああああっ!!」

「…………っ」「……こ、こいつ…」「これが八極拳か…っ!」


 ………………………………


 1人吹っ飛び一気に勢いを止めた不良達を前に、フゥーーッと深く息を吐き次の構えを取るノア。小柄な体から放たれた絶技と洗練された構えはまさに中国の武人を思わせる。


 --趣味ハ八極拳デス……


 ………………あ。

 そういえば…言ってた……ような……


「……ザトウクジラが…座礁……くくくっ!」


 1人やられただけでまだ不良達の数的優位は揺るがない。しかし一撃の下粉砕され動けない1人に皆が踏み出すことが出来ずにいた。


「……私ハコノ学校ノ強サ番付ニ興味ハナイデス」


 しかし、均衡を崩すのはノアの一言……


「皆サンダケデヤッテクダサイ」


 その一言は、どういう経緯かは知らないが彼女の強さを知ってこうして挑んできた不良達の神経を逆撫でした。


「舐めんじゃねーぞっ!!」「それだけの力があって…興味ねーだと!?」「この学校で最強が誰か!はっきりさせてやるよ!!」


 ノアの言葉はかえって奴らをヒートアップさせ、それぞれが一斉に襲いかかる。

 しかし3対1の状況にも動じることなくノアは落ち着いて呼吸を整えながら拳を握り--


「死ねこらぁ--っ!?うっ!」


 ノアの踏み込みが最初の1人に迫ろうとしたその時、その男が後ろから髪の毛をひっ掴まれ急に止まる。それに残りの2人も固まり……


 直後、戦慄した。


「……この学校で最強が誰か…?」

「ひっ!?」「う、宇佐川…いや!宇佐川さん!!」「まさか…こいつが…っ!ここらのチーム8つ1人で潰したっていう…『北桜路の宇佐川』っ!?」


 ……こいつは、先輩との顔合わせの時俺を吹っ飛ばした……アフガン帰り!?


 その女--宇佐川先輩は片手で不良を掴みあげながら、彼らと対峙するノアの方をじろりと見た。

 その殺気、存在感、圧は八極拳の達人であるノアですら一瞬怖気させたのが分かる。

 この女の放つただならぬ気配は別格だ……


「すみませんっ!すみませんっ!!宇佐川さんっ!!」

「…………お前らさぁ--」


 次の瞬間、不良が消えた。

 ブンッと、風を切る音がしたと共に宇佐川先輩が手にしていた不良が消えた。

 その彼がどこへ消えたのかはすぐに分かった。

 頭上から悲鳴とともに落ちてくる不良。地面に対して垂直に頭から叩きつけられる不良がその場に突き刺さる。


 …………っ!!

 人ひとりを片手で天高く放り投げた…っ!これは……まさか……風の噂で耳にした人間で水切りする怪物っていうのは…まさか…っ!


「寄って集って女の子いじめて、恥ずかしくないの?」

「ひっ!?」「助けてっ!助け--ひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」




 --この結果は分かっていた、瞬殺だった。

 倒してきた男は数しれず…きっとこの女の強さは死屍累々の上に成り立っているのだ……今のように…


 コキコキと首を鳴らす強者感しか漂わない宇佐川先輩がノアの方をじろりと見る。そのアフガン帰りの瞳が今度は彼女をターゲットに定めたのか!!


「……っ、待ってくれ先輩!!」


 ビクリと強ばるノアの前に俺は躍り出た。

 出て何ができる?俺は一度この女に負けている…しかもこいつの強さはもう見れば分かる。

 俺では勝てない…

 俺なんて…井の中の蛙だ。ノアにすら勝てるか怪しい…とんだピエロ野郎だ。


「彼女はただ絡まれただけなんだっ!」

「……佐伯クン」

「……うん知ってる」

「あんたと争う気はないっ!!」

「知ってる。助けてあげたんだけど…」

「見逃してくれ!!」

「ありがとうは?」


 そうだ--何が女の子のお家で勉強だっ!何が女の子を守るのは男として当然のことだっ!

 こんな俺が…今だって震えている俺が守れるのか?こんな強さで?

 後ろに居るのが千夜でも俺は情けなく震えたままやられるのか?


「助けてあげただけだって…なんか言うことあるでしょ?」


 俺は……俺はっ!!


「--強くなりてぇっ!!」

「いや!!ありがとうはっ!?」


 ……はっ、みっともないな。

 気づいたら土下座していた。まるで鷹の目のミホークに教えを乞うロロノア・ゾロだ。

 後ろのノアも幻滅してるさ……

 でも俺は……強くなりてぇ。


 次の大会、負ける訳にはいかない。千夜の前でかっこ悪いとこは見せられない。

 勝ちたい--勝って…あいつにカッコイイとこ見せたいっ!

 力が欲しい……確実に勝てる強さがっ!


「いやいやいや…土下座する程感謝しなくていいから…そこまでじゃないし。麦わらの一味入りする時のサンジかよ」

「俺を強くしてくださいっ!!」

「いやお礼はっ!?私ずっと待ってんだけど!?」

「俺に……剣を教えてくれっ!!!!」

「教えられないから!!こいつなんなの?頼む相手違うしこんなとこで土下座とか有り得--」

「あんたのその…っ!ゴリラより強靭で、ゴリラのようにしなやかで、ゴリラのように強くて、ゴリラのような闘志にっ!」

「…………」

「……佐伯クン…ソレハ……」

「俺は……っ!俺は……っ!!」


 すまない千夜。お前以外にこの言葉をかけるとは……でも、全てはお前の為!!


「惚れたんだっ!!!!」


 周りの生徒の視線が集まる。

 額を地面に擦り付けたまま、腹の底からの本音をぶちまけた。本気だからこそ、真摯に、嘘偽りなく本音を吐いた。

 この人の強さがあれば……俺はっ!!


「……あんた、入学したての頃私がぶん殴った人だよね?」

「……っ、俺の事覚え--」


 --パコォォォォォォォォォォンッ!!


 気持ちいい音と共に俺の頭が跳ね上がった。視界に青空が映るのを見て、あぁ、首はまだ繋がっていると安堵した。

 安堵と同時に頭がふわふわしてきた…気持ちよくなるくらいの蹴りだった……


 重くなる瞼--遠のく視界の中で俺は聞いた。


「……佐伯クン、褒メテナイヨ…ソレ、タダノゴリラダヨ」

「……スナメリが…座れり……くくくくっぷっ!」

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