今日は帰りたくないの…
「父さんは認めない」「あなた…」
「お前に結婚なんてまだ早い。愛梨」
リビングに居並んだ私の家族。そしてその家族の中にただ1人混ざる青年……
剣呑な雰囲気漂うリビングは今、父さんと姉さんとの間で一触即発の雰囲気。
日比谷家の家族会議は今、修羅場の気配……
「……なんで父さんが私の人生決めるの?」
「お前まだ23だぞ…そんなこと考える歳じゃない」
歳の割に若く見える父さんが普段は温厚なその表情を厳しく引き締めていた。こんなに怒っている父さんは初めて見たかもしれない。こうして構えていると一家の大黒柱感が出る。
ここまでずっと話は平行線。姉さんの隣に座った青年がテーブルに手をついて頭を下げた。
「お父さん!!」
「黙れ!お前にお父さんなどと言われる筋合いはない!!」
「愛梨さんは必ず幸せにします…だから……っ!!」
「お前に娘などやらん!!いきなり来て娘と住まわせてくれ…挙句結婚させてくれだと!?ふざけるな!!」
「ねぇ父さん!!結婚はまだ先の話なの…」
「黙れ!!婚前の娘が男と同棲など--」「あなた、少し落ち着いてください」
「絶対に認めん!!」
--事の発端は姉さんが彼氏と同棲すると言い出したクリスマスの夜……
将来的には結婚も考えている男性が居ると……
私も母さんも、姉さんの選んだ人とならと納得したんだけど……
予定では4月には同棲が始まるはずだったんだけど……今はその4月。
そして今もこの話し合いが長引いているあたり、状況は芳しくない。
自分の家に帰っていく姉さんの背中は焦燥と悲しみに沈んでいるように見えた。
姉さんと彼氏が帰ったあと、父さんはリビングで不機嫌そうにお酒を飲んでた。父さんもこの話がいつまでも決着しないことに苛立ちを隠せてない。このところ毎日姉さんと彼氏が懇願に来ているから……
母さん相手にずっと愚痴愚痴言ってる。
「俺は認めんからな……あんな若造と……大体愛梨も愛梨だ。俺の言うことなんて聞きやしない……」
父さん……普段はあんな感じじゃないのにな……見ているとなんだか悲しくなってくるな。
「……父さん、もういいんじゃない?」
「真紀奈…」
お酒をちびちび舐めながら母さんに愚痴る父さんに私は語りかけた。
「姉さん本気なんだよ。姉さんがあんなにずっとお願いするってことはあの人もいい人なんだよ…姉さんが適当な気持ちで人と付き合うような子じゃないって、分かってるでしょ?」
「真紀奈は黙ってなさい」
「不動産屋の息子さんでしょ?将来も安心--」
「所詮息子だろ?今はただの学生だ。今から同棲など……大体俺の知らん間に彼氏なんて……」
「……恋愛は本人の自由だから」
「真紀奈、お前はまだ子供なんだ。お前は姉さんが心配じゃないのか?」
「姉さんなら大丈夫だよ」
「真紀奈…お前はまさか彼氏なんて作ってないだろうな?父さんは許さないぞ?」
「……っ」
「お前らは俺の決めた相手と結婚すればいいんだから…浮ついた恋愛ごっこなんてしなくていい」「あなた……」
多分父さん酔ってる。それにイライラしてる。
それが分かったうえで、適当に流せばいいのに、どうしてかな?
「……どうして私達の相手を父さんが決めるの?」
「お前らの親だからだ」
「私が誰を好きになるかは、私の自由じゃない!!」「真紀奈、もうやめなさい?」
「……なに?」
「姉さんも私も、ちゃんと本気で人を好きになるの。浮ついた恋愛ごっこじゃないよ」
「真紀奈…お前まさか男がいるんじゃないだろうな?」
「だったら何?」
噛み付く私に父さんは勢いよく立ち上がった。姉さんのこともある上に私のこの発言は父さんの神経を相当刺激したんだと思う。
でも、それは私も同じだった……
「真紀奈……お前達は人より可愛い」
「そんなこと分かってる」
「だからお前らに寄ってくるのは邪な男ってばっかりなんだ。お前らに相応しい相手は俺が見極める」
「それくらい、自分で見極められる!!私達の人生父さんのものじゃないんだよ!!」
「真紀奈っ!!」
父さんの怒号が私の体をビクッと震わせる。突然の大声と剣幕に全身の筋肉が強ばる。
直後、軽い衝撃と共に私の頬が弾けた。隣で母さんが美しい顔を驚きに歪ませてる。
…………私、叩かれた?
「お前らは俺の娘だろ!!」
父さんの張り手とその一言……私の体の中心がすっと冷えていく。その温度が徐々に沸騰して--
「……このっ」
「っ!?」
「この日比谷真紀奈の頬をぶつなんて!!サイテーっ!!!!!!」
--ボゴォッ!!
「うごぅっ!?」「あなたぁ!?」
*******************
--感情のままに家を飛び出してた。あの家にあのまま居たら息ができなくなりそうだったから……
電車に乗ったのは覚えてるけど、どれくらい移動したのか分かんない。
見覚えのあるようなないような風景の中を彷徨ってたら頭の上から雫が落ちてきた。
「……雨」
暗い空から降ってきた雨粒が黒いアスファルトをさらに黒く塗りつぶしていく。濡れていく地面に押される雨粒のスタンプは次第に数を増して、数秒後には土砂降りになった。
……サイアク。
さっきからポケットの中のスマホが何度も鳴ってるけど、無視。持ち物はスマホだけ……電子マネーで電車に乗ってきたから財布がないのに今気づいた。
「……うわサイアクだ……髪が濡れるし、雨でベタベタだし…コンビニ近くにあるかな?てか、ここどこだろ…?」
凪に電話しようかな……その前に傘が欲しい。
何してんだろ…私は。
忙しなくスマホを操作しようとしてた手を止めてぼんやり足下を見つめた。馬鹿みたいだ。元々姉さんの問題なのに……
私、父さん殴っちゃった……右ストレートで。
子供みたいなことで怒って、雨でずぶ濡れ。みっともない。こんな日比谷真紀奈は世界中の私のファンにはとても見せら--
「……風邪ひくよ?」
れない……?
突然頭にかかる雨の粒が遮られたのと同時に後ろから声をかけられた。上を見たら、ビニール傘が私と雨雲とを遮ってる。
ずぶ濡れでもそこはこの日比谷真紀奈…
どっかのナンパ野郎が声をかけてきたんだろうか?悪いんだけど、そんな気分じゃない。
しかし、そこは美の最高神。振り返って微笑むくらいの度量は--
「こんなところで何してんの?日比谷さん」
--っ!!!?!?????!?!!!!!?!?????!!!!!
ナンパ野郎じゃなかった!!
そこにはダボダボしわしわなTシャツでバチッとキメた“彼”が傘をこの、この!この日比谷真紀奈に差し出していたッ!!
「くくくくくくくっ、空閑君!?」
*******************
--なんでここに?なんて訊くのは野暮ってものでしょう。
「……ずぶ濡れじゃん。タオル貸そうか?家すぐ近--」「濡れたままじゃ帰れないなー!近くに知り合いの家ないかな!?」「………………」
もう食い気味に彼について行く!!
しかも!ひとつの傘を共有しながら!!
嗚呼……恵みの雨、ありがとう。まさかこんな機会に恵まれるなんて……私に最高の一時を提供してくれた上に、雨にしっとりと濡れる日比谷真紀奈という世界遺産級の調和を作り上げてくれるなんて……
流石はこの世界に愛された美の概念。もはや地球、宇宙、この世界の全てがこの日比谷真紀奈をより美しくする為に存在すると言っても過言じゃない。ありがとう世界。
水も滴るいい女?私のことですか?
「……日比谷さん」
「なに?あ、空閑君の方が濡れてるよ?もっとくっついた方がいいね!!うん!!」
「家ついたよ」
あれ?もう?もう少し相合傘したかったんですけど……
「ここが空閑君の………………」
土砂降りで視界の悪い中で、真っ暗な空の下空閑君の家は私達の前にぽつんと佇んでた。
築何年だろうっていう、傾いた木造アパート。二階建てで、あろうことか外の階段は腐って踏み板が何枚か抜けてる。
ちょっとした地震が来たら秒で倒壊しそうなボロアパート…土砂降りの夜に見たらホラー映画の一幕みたいだ。
「……ここ?」
「ここ」
……この日比谷真紀奈が足を踏み入れる場所としてこれ程相応しくない場所がありますか?否。ない。埃っぽそうだし、ネズミとかいそう……
「……来ないの?体冷えるぞ」
しかし、傾いたボロアパートでも、その階段に空閑君が足をかけて呼んでいたならそこがどこだろうと問題では無いのではないか!?
……日比谷真紀奈、好きな人のお家にご招待。
「……っ、行くぅっ!!」
--バキッ!!
「あっ!!!?」「ゆっくり歩いてな?階段腐ってるから」
--私の人生が始まった。
今までその美しさを世界中に振りまく使命に生きてきたこの日比谷真紀奈。しかし今日!私はこの世に生を受けて17年と何ヶ月か…ようやく私の人生を、私の為の物語を初めます!!
日比谷真紀奈の人生の始まるのはここ、ササクレ立った畳の薄汚い六畳一間のボロアパートです!!うわぁははっ!なんもねー。
床に敷かれっぱなしの布団!!ちっさいテレビ!折りたたみ式のちっちゃい机!そして私のケツを叩いてくれる男子!!
ここに住んでいいですか?ここがいいです。
「……おふくろ仕事行ったみたい。あ、服乾かすから脱ぎなよ」
……っ!?
も、もうですか…?いいの?色んな段階すっ飛ばして…いいんだね?ありがとう。いただきます。いや、いただいてください。
「風呂湧いてると思う…風呂場玄関横……おい」
「え?」
「早い。風呂場で脱げ」
……お風呂場せっま。
浴槽は1人入るのが限界…これじゃお風呂場ではプレイは無理ね。マットも置けない…
いや1人もきついよ?足伸ばせない。窮屈。
「でもここで空閑君は毎晩体を洗ってるんだね…はぁ……はぁ……あぁヤバい。興奮してきた」
待つのよ真紀奈。つまりこの浴槽には、長年の彼の体の垢やら、汗やら、そういうのが染み付いているのでは?
そしてこのお湯は…そんな浴槽に張られたお湯。空閑君のイロイロが染み出したお湯。つまりこれは彼の体液と言っても過言ではないのでは?
空閑君の体液に浸かる私……そしてこの後私の浸かったお湯に入る空閑君……
「はぁ…最高のオカズだ」
はっ!何を考えてるの日比谷真紀奈!!こんなところで下腹部を触ろうとするなんて!!
ダメ!!日比谷真紀奈は完全無欠の清楚系美少女じゃなきゃいけないの!!
いや……でも……
…………目の前に、今ここに、彼のカラダの一部と呼んでも差し支えのないものがあるのに……
ここで慰めないのは、むしろ無作法というものでは……?
「……くっ、ふぅ…うっ……はぁん!!」
「何してんの?ねぇ!何してんの!?日比谷さんよ!?」
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「はぁ……はぁ……大変いいお湯でございました」
「…………俺、この後入るんだけど…」
「ごゆっくり……はぁ……」
おかげで身も心もスッキリです。
そして!私が今着ているこれ!!ヨレヨレしわしわのシャツ!!もちろん空閑君の!!シャツ!!
空閑君の匂いがする……はぁ……はぁ……昂りが収まらんでござるよ。ひひっ…
「……日比谷さんの服、今ストーブで乾かしてるから。多分すぐ乾く。雨も収まってきたし……乾いたらそこまで送るよ」
………………
「ところで日比谷さんは、なんであんな所で傘もささずに……日比谷さん?」
……あーあ。空閑君、折角女の子と、それもこの日比谷真紀奈と2人っきりなのに、どうしてそんな水を差すような提案をするのかな…?
女の子が1人雨に濡れて彷徨ってる理由なんて、分かるでしょ?
私が表情を陰らせて俯いてたら空閑君が困った顔をする。
好きな人を困らせるなんていけない子ね真紀奈……
でもね、空閑君…あなたも男の子ならさ……
「……どうした?」
「ごめん……帰りたくないんだ」
ちゃんと察してあげなきゃダメだよ?




