妹がメンヘラです
--その日は雨だった。
冬の寒さと、訪れる春の陽気の気配入り交じるこの頃……それでもまだ冬の冷たさが強く色濃く空気を乾燥させていた。
雨が降ると時間が遅くなったように感じる。雨の湿気を吸った空気が重たくなったような、ゆったりとした午後の時間が俺の身を包んでた……
修学旅行も終わり、思い出とワニの噛み跡をしっかり刻み込んで帰国した俺達を待つのは後は春休みくらいのもの……そうすればすぐ高校最後の1年間が始まる。
三学期なんてあっという間だ。
生徒会も解散し、行事も終わり、退屈で緩やかな時間がこの俺、広瀬虎太郎を出迎える。
これでいい……本来学校生活とはこれくらい穏やかなものであるべきだ。
そうだ、そうそうトラブルやらなんやらやって来られても--
「……あなたが、広瀬先輩……?」
しかし、曇天から降り注ぐ雨はいつだって俺に無情のトラブルを持ってやって来る。雨の日は、ろくな事がない。昔から……
俺を後ろから呼ぶ声にはそんな色が濃く浮き上がっていたから……
「はい--」
咄嗟に身構えながら、あらゆる事態に対処可能なように振り返る。声の主は女性。
考えうるあらゆる可能性を考慮し、適切な距離とクールな頭で……
って、ただ声をかけられただけで大袈裟--
否、やはり俺の日常は無情だった。
振り向いた瞬間顔面に消火器叩きつけられた。
弾け飛ぶ頭、上がる悲鳴、視界を横切る鼻血。
何事かと天井を仰ぎ見ながら後ろに倒れる俺を見下ろすように、1人の女生徒が立っていた。
真っ直ぐ伸びた黒髪に、大理石のような白い肌、妖艶でいてかつ薄暗い空の雲のようなどこか影のある瞳……
その姿にハッとした。その容姿--というか、雰囲気に覚えがあったから……俺の記憶からその姿が鮮明に蘇る。と言っても、その時の記憶は後ろ姿しか捉えていないが……
「……浅野さん?」
俺は確信を持って彼女に問いかけるようにその名を呼んだ。
「……はい。あ、近寄らないでもらっていいですか?」
「…………」
え?なんで殴られた?
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放課後、学校を後にする生徒達の群れが正門までの道に色とりどりの傘の花を咲かせてる。
それを見下ろす俺と、紬さん…そして問題の女。
場所は元生徒会室……
「……ここ、覚えてる。1回しか来たことないけど……」
懐かしそうに、しかし初めて来たかのように興味深そうに室内を見回す。が、もうここには当時の物はほとんど残っていない。代わりに使わなくなったテーブルやらホワイトボードやらが詰め込まれ、辛うじて3人が座るスペースを確保できる程度だ。
いや、そんなことはどうでもいい……
「浅野さん……話があるって?」
目の前の俺らを意識の外に置いた浅野に声をかけたのは紬さん。浅野は思い出したようにこちらを向いた。
「……はい。えっと、潮田会長……」
「元ね」
「……はい、すみません」
「なんであなたが謝るの?」
「……それも含めて、お話があって2人を呼びました。他の人はその……なんか…まともに会話出来るあれじゃなかった…」
「待ってくれ」
紬さんと浅野に割り込む俺、その鼻の頭にはみっともない絆創膏が貼られている。
「なんで俺殴られたの?」
「………………この学校、頭おかしい人が多すぎて……」
え?なに?変質者にでも見えたのか俺が?いきなり殴りかかってきたお前の方が頭おかしい。
「……先輩達にたどり着くまで凄く大変だったんです……弁当に変な虫乗せられたりオカマに絡まれたり空気入れへそに突き刺されたりカレーパンの早食い対決に参加させられたり…………」
涙なくして語れない、というか聞きたくない浅野の心の悲鳴。耐え続けた涙が思わずこぼれている。
久しぶりに来た学校は地獄だったようだ……
「トラウマになっちゃった……ここの人達なんか変」
「……虎太郎」「いや、変人枠はどっちかと言うと紬さん」
警戒が行き過ぎて俺を殴ったと……しかし下手したら死んでた。
まぁそれはいいや。
まだ引っかかってることが浅野に対してあったが、まずは浅野の要件を聞くことにしよう。
「それで?話って?」
紬さんが促し、浅野は要件を語る。俯き自分のつま先を見つめたまま…
「……私が生徒会を解散させたって聞きました」
……“聞きました”?
「さっきのごめんなさいはその事?私達は生徒の一意見を聞き入れて全生徒の総意の元決断したんだから…謝ることは--」
「紬さん、話を聞こう」
「……?虎太郎?」
「浅野さん、君が生徒総会の日に俺に渡した動画のデータ…あれは君が作ったんだろ?」
俺の問いかけに浅野はハッとしたように顔を上げてまたすぐに俯いた。
そして言った。
「……まずは、そのデータを見せてもらえませんか?」
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ノートパソコンの画面にあの日の動画が再生され、浅野は感情を押し殺した顔で画面に見入っていた。その横顔から滲む微かな心の機微は推し量れないが、困惑している様子ではない。
「……この動画に映ってるのは、君じゃないんだろ?」
確信を突く俺の質問に浅野は唾を呑みながら頷いた。
「……はい」
「え?どういうこと?」
「紬さん…よく見なよ。この動画に映ってる人、映ってる顎には口元のほくろがあるじゃないか…でも、浅野さんにはない」
「……ほぅ」
「それに…動画の中の声や、俺らが会った浅野さんの声は、今ここにいる浅野さんより低い」
「……そう、かな?」
内側で引っかかってた違和感を並べていく。俺の言葉を聞く浅野の顔色を見て、勘違いではなかったと確信する。
「俺らが家で会ったあの浅野さんも…この動画と同じ人だ」
「???…でも、同じ顔してる……」
「兄妹?」
俺達の視線が浅野に向かう。
その視線に応じるように浅野は小さく息を吐いて真っ直ぐ俺達を見つめた。張り詰めた、しかしどこか楽になったような重みの視線だ。
「……この動画を撮ってるのは、私の双子の妹の美夜です」
「ふ…双子の妹?え?」
混乱するおバカ元会長を馬鹿にできない。混乱してるのは俺もだ。
その事実--目の前の浅野と俺らが会った浅野が別人という事実と、その妹が生徒会に対して行った事が重ならない。なぜそんなことを?っていう疑問符が頭を埋めつくしていた。
埋めつくしながら…確信を得ないまま、俺はひとつの仮説を立てていた。
「……この動画で言っている、中学時代生徒会長になっていじめられたってのは…君か君の妹のどちらかなのかい?」
「?う?え?」
紬さんは置いておこう。
つまり浅野の妹がこんなことをしたのは動画の通りの事情で…彼女は生徒会という組織に対して嫌悪感を持っており、その原因はやはり動画の通り。
ただそれを他人の話として語ったということではないか?
しかし姉の通う高校に姉に成りすまし潜入してまで生徒会を解体させたということは恐らく中学時代の当事者は…
「…この動画で美夜が言っているのは、私です」
やはりな。
「……つまり、君の妹さんは君に中学時代と同じ目に遭って欲しくないから、わざわざ手の込んだことをしてこの学校の生徒会を解体させた」
「……だと、思います」
「君がずっと登校してこなかったのも、その妹さんのせい?」
浅野は肯定の頷きをひとつ返してから無表情を務めた歪んだ表情を俺達に向けながら 衝撃的なことを口にする。
「私は妹からずっと軟禁されてました」
「え?う?」「……っ」
それもこれも全て、過去の生徒会での出来事に起因しているとしたら、彼女の妹は相当……アレだ。
途端にこの前会話をした彼女が得体の知れない存在のように思えてくる。
嫌な汗を垂らしながら浅野の言葉を待つ俺に浅野は擁護から入り、全てを話し出した。
「……あの子は私の為にあの子なりに考えて行動したんです…悪いのは弱い私です……だから、あの子の事を悪く思わないであげてください……」
--浅野の話は中学時代にまで遡るが、要約すると以下の通りになる。
当時浅野は妹と同じ中学に進学した。幼い頃から仲が良く、いつも一緒に居た評判の姉妹だったという。
事件が起きたのは浅野が中学の生徒会長に就任した翌年……
当時3年生だった浅野会長は生徒達の学校生活が少しでも良いものになるようにと様々な改革を進めたんだとか。
そこには純粋に生徒の意見が正しく反映される学校を作るという意思があったが、それより大きかったのはやはり周りの…なにより妹の期待を背負って生徒会長に就任したことによる責任感。
とにかく生徒会長として目に見える形で何かを成したかったのだと言う。
ただ彼女本人が言うには、それは聞こえのいい自己解釈で、本心としてはみんなに認められたいという認証欲求があったのだという。
ひとつ間違いがあったのだとすれば、それは生徒会長と言えど一生徒には変わりない…そこを履き違えたことだろう。
動画にあった浅野が作った新ルールというのは食堂の利用に関してのものだった。
その中学は部活動が盛んで、特にサッカー部と吹奏楽部は昼休みにも練習が組み込まれる程だったという。
そこで浅野は『昼練習がある部活生に優先して食堂を利用させる』というルールを作った。
昼食を早く済ませ練習に打ち込んでもらえればという気持ちだったようだ。
具体的には食堂に部活生専用の席を用意するというものだ。食堂の半分近い席が部活生専用となり、大勢の生徒で握わう食堂で部活生が席が空くのを待つ時間を無くすという名目のもの。
教師陣の賛成もあり可決された新ルールは即日実施されることになったのだが…
学校のルール等というものは守られないのが常であり、まして普段の学校生活に直接組み込まれるものなら尚更。部活生専用の席に無所属の生徒達が座り込むという事態が多発した。
そこでサッカー部とその生徒達とで諍いが発生してしまった。
それだけならルールを破った側が悪いで済む話なのだが、問題なのはそのサッカー部と揉めた生徒の中に、恋人同士の2人がいた事。
サッカー部の彼氏と帰宅部の彼女……仲間の手前お互い退けず問題が解決した後も2人の不仲は尾を引いてしまうことになる。
恋盛りの学生にとっての彼氏彼女の問題とは、当人達だけの問題ではなくなる。互いの友人達も2人をそれぞれ擁護しあい両者の対立は学年の大勢の派閥を巻き込むまでに肥大化した。
それだけならまだ生徒間の問題。どちらにも属してなかった浅野姉妹にも直接は無関係。
しかし、ある日サッカー部の彼氏の友人が彼女側の友人の女子に手を挙げ大怪我を負わせる事件が起きた。
流石に学校側も介入し問題は両者の親や警察まで出てくるほど大きくなる。当然手を出した方が悪いのでその生徒は転校せざるを得なくなった。
行き過ぎた対立で起きた事件に両陣営共に大人しくはなったが、溜まった不満のその矛先は全ての元凶とされた生徒会長に向かうことになる。
つまり浅野だ。
憂さ晴らしのような浅野への攻撃はすぐに始まり、浅野は学校に行くことすら出来なくなった。
それに対して浅野の妹は怒りの矛先をいじめの原因となったカップルに向けたようだ。
何をしたのかは浅野は知らないらしい。が、浅野の妹はそれにより停学処分となり、次第に学校へ通わなくなったんだとか。
引きこもりの姉と妹……先に立ち直ったのは浅野だったが、浅野が復学してからも妹は学校に行こうとせず、結局卒業まで家から出ることはなかったんだと言う。
かつては何をするにも一緒だった姉妹はここで道を違えることとなる。
妹は進学もせず、進路も未定のまま。次第に親も愛想を尽かし妹にとっては姉だけが味方となったんだろう。
その姉が高校への進学を決めた時、彼女がどんな気持ちだったのかは分からない。
ただ、同じように学校という環境に傷つけられながら、妹の手を引くことなく1人外に出ていった姉の背中に、妹はショックを受けたのではないだろうか、と浅野は言う。
浅野はその後この学校に入学し、生徒会役員になった。その時は普通に登校してきていた。
が、浅野は自室から出てこなくなった妹にいつも学校での出来事を語って聞かせていたのだという。それは妹に少しでも早く立ち直って欲しい、学校は怖いところではないと伝えたかったんだろう。
そこで浅野は自分が生徒会役員になった事を話した。
その時の妹の気持ちは…何故また生徒会という、かつて自分達を苦しめた場所に身を置くのかという疑問、そして、そのせいで自分まで学生生活を絶たれたのにという裏切りに対する怒りにも似た気持ち--だったんだろうと浅野は言った。
その日妹は自らの手首を切った。
幸い大事には至らなかったが、入院先の病室で見舞いに行った浅野への一言は、その後浅野をずっと縛り付けることになる。
--学校に行かないで。じゃないと、また切る。
……以上が浅野姉妹の身に起きた事件。
話を聞き終えた俺と紬さんの感想としては…
「妹さん怖…」
「違うんです…全部私が思い上がって、勝手に塞ぎ込んだのが悪いんです」
「いや、怖い」
この妹にしてこの姉だ。ぶっ叩かれた鼻先の痛みが染みる。
「そういう訳で、生徒会が無くなったのは私のせいなんです…私達姉妹の問題に巻き込んでしまって……本当にごめんなさい……」
俯いた浅野の声が震えだしてしまった。泣き出しそうな浅野を見て俺らもこれ以上責められなくなってきた。
「……浅野さ--」
何か言葉をかけようと口を開いたその時隣の紬さんが勢いよく立ち上がった。
「浅野さん」
「……は、はい」
何を言われるのかという不安とどんな仕打ちも受け入れるという揺れた瞳。浅野の瞳に映る紬さんが言った。
「妹さんに会わせて」
*******************
「絶対やめた方がいいって」
「なんで?ちゃんと話さなきゃ」
「いやロクなことにならないって!」
やっぱり雨の日はロクなことない。
紬さんを止めることが出来ずに俺らは怪物の棲む魔窟へ……
すっかり顔なじみになったお母さんも浅野が友人を連れてきたことにひどく驚いていた。
妹の美夜は2階の自室に居るとのことで、俺達は階段を上がる。何故か忍び足になる俺の足運びが気後れした内心を物語る。帰りたい。
だって消火器で顔殴ってくるお姉ちゃんの妹だぞ?
「……浅野さんが学校に来だしたのは生徒会が無くなったから?」
美夜の自室前で唐突に紬さんが尋ねた。浅野ははいと頷く。
その声が聞こえたんだろう。
「……姉さん?」
扉の向こうからくぐもった低い声が投げかけられてきた。その声は今まで浅野だと思っていた声だ。
「うん、ただいま」
「学校どうだった?いじめられてない?平気?」
「……平気だよ」
姉を気遣うような妹の声。その言葉のかけ方に俺の中での妹への印象が覆る。
それは浅野の考察した妹が今回の騒動を起こした動機--それとの乖離。
浅野はなぜ自分が生徒会にまた入ったのかという怒りの感情から今回の事件を起こした…そう思っていたようだが、姉にかけられる純粋に姉の身を案じる声とその考えが重ならない。
妹は姉がまた嫌な思いをするのではという考えから暴走したのでは…?
「……そこに居るの誰?」
そんな妹への恐怖が一瞬揺らいだ次の瞬間、飛んできた低いドスの効いた声にああ、やっぱり来るんじゃなかったって確信。
浅野が返す前に紬さんが1歩前に出て扉に向かって声をかけた。
「お久しぶりです、この前お会いした生徒会の潮田です」
馬鹿丁寧な自己紹介に数瞬の沈黙が重くのしかかる。浅野妹の内心を雄弁に物語る沈黙だ。
「……は?」
「元生徒会の潮田--」
「いや、聞こえてるから、何度も言わなくていいから。は?姉さん、まだこいつらと付き合いあるの?」
飛んできた刺々しい声に浅野は萎縮してしまっている。そんな浅野を横目に見て紬さんはすかさず返した。
「浅野さんは私のわがままを聞いてくれただけです。今日はあなたにお話があります」
「は?」
「浅野さんから全部聞きました」
「は?」
「あなたのお姉さんを想う気持ちは分かりますし、あなた達に起きたことは不幸でした。でも、それでお姉さんを縛り付けて立ち直ったお姉さんを拘束するのは、違うと思う」
「は?」
「生徒会は、学校はあなたが思い込んでいるような所ではありません」
「は?」
「あなたにも、ちゃんと立ち直って前を向いてほしくて、今日はお話に来ました」
「……は?」
一方的に話しかける紬さんと、は?しか返さない浅野妹。紬さんの言葉にぽかんとする浅野と、帰りたい俺。
4人の心情が交差する。その中で最も熱い2人の想いが加速していく。
「学校に行きませんか?お姉さんの為にも……お姉さんはあなたを苦しめたくて、毎日の学校生活をあなたに語って聞かせていた訳じゃないんですよ?」
「……」「潮田先輩……」
「お姉さんを安心させてあげてください。お姉さんを解放してあげてください。あなた自身、もう楽になってください」
「…………」
「あなたが塞ぎ込んでいたらお姉さんも楽しい学校生活が送れません。そしたら私も悲しいので……」
紬さん……
黙って紬さんの声を聞いていた浅野妹が扉の向こうでドスドスと苛立ちを表すように床を踏み鳴らす。扉の前で止まった足音。しかし、木製の扉が開かれることは無かった。
「……これが姉さんの答え?」
「……美夜」
「私があんたの為にどれだけのことをしてあげたと--」
「美夜さん、あなたの気持ちは尊いけど、あなたのしたことはただの八つ当たり--」
「あんたとは話してない」
険悪な空気になってきた。帰りたい。
「美夜、私はもう大丈夫だし、私は美夜にそんなことして欲しいなんて思ってないんだよ」
「余計なお世話だったって?」
「違っ…そうじゃなくて…っ!」
もういい…
浅野妹は低い声でそう呟いた。確かに聞こえた。酷く怒気のこもった声だ。
「分かったよ……あんたにもう私は要らないんだね」
「美夜……」
うわぁぁ雲行きが怪しい!だから言わんこっちゃない!
浅野妹は扉の向こうの浅野に--俺らに向かって酷く冷たい感情を殺した無機質な声で言い放った。
「……許さないんだから」




