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また奴や!

「あれからどうやねん、タロヒコは」


 楠畑香菜や。バイトの休憩時間、美玲にその後の経過を訊いてみた。


 狂気のストーカー、タロヒコ。

 営業スマイルをなんか別のもんと勘違いして美玲に付きまとっとった若い男性客。

 睦月を彼氏役にして追い払う作戦やったんやけどその翌日になんか睦月にストーカーされたとか半狂乱になったタロヒコが美玲に助けを求めてきて早数日……


 その後について尋ねたら美玲の顔には以前のノーテンキな明るさが返ってきとった。


「あれから全く姿も見ないよ」

「店にも来とらんしな…」

「噂じゃ精神病院に叩き込まれたって…なんかずっと奴が来るってうわ言言ってるらしい」


 タロヒコ曰く「美玲のストーカーにストーカーされた」らしいんやが……あいつなにしたんやろか。怖。

 あれから学校にも来とらんし……


「ほんとにありがとう!空閑君にもお礼言っといて」

「あー、会えたら伝えとくわ」

「…香菜ってさ、ほんとに空閑君の連絡先とか家とか知らないの?」

「知るわけないやん」

「いいのそれで?」


 いいのってなん?

 そういえば美玲からあいつのこと彼氏っちゅういじり、聞かんくなったな……鬱陶しかったけん、いいんやけど……


「別に興味もない」

「ふーん…そ、空閑君、香菜のこと面白い人って言ってたよ?」


 面白い?他人事みたいによー言うわ。ウチを道化にしたんはアイツやろ?ウチはまだ諦めてへんで?


 1人勝手にイライラし始めるウチをじーっと見つめて、美玲の口元がクスリと笑みの形に小さく変わった気がした。


「本当は好きなんでしょ?」

「それ以上言うたらおどれの家の便所の紙全部抜き取るで?」

「なにその地味な嫌がらせ……まぁいいや。あんまりツンケンしてたら私が貰っちゃうぞ?」


 なんかムッカつくウインクかまして美玲が仕事に戻っていく。上機嫌にケツ振りながら。


 ……あいつは何を勘違いしとるんや?

 なんや?助けられたから妙な感情湧いたんか?ストーカーをストーカーして、女の子に糞漏らさせる男やぞ?何がいいんや?おどれも糞漏らさせられるぞ?


 ……それにあいつは日比谷が狙っとるはずや。残念やけど、美玲じゃ日比谷には太刀打ち出来んやろなぁ……


 ……どーでもいいけど。


 *******************


 バイトが終わって家に帰り、夕飯の支度や。日がすっかり短くなって冬を感じる。寒。

 人も虫も動物もなんもかんも動きが鈍る厳しい冬の到来や。西日本いうても埼玉とそんな変わらん。


 さて、女子力高い系女子楠畑香菜は自炊もこなす。香菜は料理を覚えた。

 みんな恋愛大好きで顔にメイク塗りたくったり短いスカート履いたりしとるけどこーいうのが女子力やで?男は家に遊びに来た時にさっとお通しが出てくる女にグッとくるんや。


 野菜を炒めて味噌汁作ってご飯をジャーからよそいで……ご機嫌な夕食。


「はぁーしんど。なんか今日は疲れたわ……生徒総会でみんなザワザワしとったけどなんかあったんやろか?寝とって分からんかったわ……てか終業式にまた生徒総会ってどないなっとんねん」


 --カサッ


「体育館寒いんよなー。勘弁して……ん?」


 壁の上の方、ウチの視界の端っこで何かが動いた……気がした。

 疑惑の箇所に目をこらすけど、なんも見えへん。気のせいや。ホコリか汚れが動いたように見えたんやろ……


 言い聞かせるように意識からそれを外して箸を取る。12月やで12月。ないな--


 --カササッ


「……」


 ……ウチクラスになるともう気配で分かってしまう。しかし、あえて確認せずに視線を晩御飯にだけ向ける。


 --カサササッ


 ……これは、無視できんなぁ。

 こちらに存在感を主張する壁を這う音。メシの匂いにノコノコ釣られてやってきた奴をこのままシカトすることは出来へん。


 ウチの視線が音の方へ走る!

 レーダーと化したウチの目を欺くことは誰にも出来へん。鋭い視線の向かう先に、ウチの予想通りの光景が一瞬、確かに映った。


 ベタついた光沢を放つ楕円の体……そこから伸びる3対の脚。体と同じくらいの長さの触覚がピコピコ動いとった。

 そんな見た目でウチの動体視力を躱すレベルの身のこなし……


「……奴や」


 これはもう、否定できへん事実……この食卓に、招かれざる客が侵入したようや。またかいな。


 大きなため息でスイッチを切り替える。楽しい夕食の時間は終わったんや。まだ始まってもおらんけど……


 一瞬で視界から消えた奴を追い冷蔵庫ら辺の壁を凝視する。奴は今、確かに冷蔵庫と壁の隙間に消えた。


「まさかこのクソ寒いのに出てきおるとはな……よっぽどウチと決着をつけたいみたいやな……ええやろ」


 飯が冷める前にカタをつける。

 一流ゴキブリスレイヤーの腕が鳴るわ……


 *******************


 今回の状況を整理しよか。


 まず舞台はダイニングキッチン……そしてテーブルの上でまだ湯気を立たせる野菜炒め。

 そして奴……


 この状況、ウチがまずとった行動はキッチンの引き出しからラップを取り出すこと。

 奴の潜む隙間から目を離さず無駄のないアクションで晩飯を保護する。

 これでひとまず奴が飯にたかることはない……


 が、しかし!

 これで楽観するのは早いで……


 飯時に現れるという奴の戦略……それの意味する最大のところは殺虫スプレーを封じるという点にある。

 食卓に飯の乗っかったキッチンで殺虫スプレーを吹くのはいかにラップで保護されとるいうてもはばかられる。

 そもそもウチは殺虫スプレー嫌いや。床がベタベタする。


 叩いて潰すか…外に逃がすか……


 あらゆる可能性を考慮し、ウチは今回捕まえて逃がす方を選択する。

 奴との苦戦は必至……しかしこれから飯食おうって時に潰れたゴキブリなんぞ見たないし……できることなら綺麗な形のまま退場願う。


「となると手袋やな……素手は有り得へん。しかし、ゴム手袋は洗面所……」


 ダイニングキッチンとは扉一枚隔てた向こう側……手袋の装着には一旦この場を離れなあかんというデメリットが生じる。


 それは得策やない……奴からほんの少しでも目を離したらしまいや。どこに奴が潜んどるとも知れん食卓で飯は食われへん。

 奴に隠れる隙を与える訳にはいかんのや……


 テッシュ……いやあかんな。薄いし激しく逃げ回る奴をテッシュで包むんのは不可能やろう……

 となると……タッパー?


 タッパー被せて捕まえるか?手で捕らえるより直接奴に触れない、手より大きいので捕らえやすいというメリットはある。

 デメリットはそのタッパーはもう使われへんということや。


 いや、冷めた野菜炒めを食うことに比べれば100円くらい安い犠牲やろ。すまんなタッパー。


 冷蔵庫の隙間から目を逸らさずにそーっとキッチンの戸棚を開く。慣れ親しんだ我が家の食器棚。目視せんでもどこに何があるかは大体分かる。


 手に確かに伝わるプラスチックの感触をしっかり掴んでタッパーを引き出す。

 後は奴を隙間から追い出--


 --カササササッ


 ウチの一瞬の気の緩みを突いて奴が這い出てきた!!


 親指くらいの大きさの中々立派な個体。深い黒色の体が光沢を放つ、ザ・ゴキブリって見た目のやつ。


 クロゴキブリやな…なるほどこの時期に活発に動き回るんは寒さに強いクロゴキブリくらいや。北海道にも居るくらいやしな……

 北海道にはゴキブリ居らへん思っとるやろ?居るんやで?


 奴はウチの視界に堂々登場したかと思ったら、そのまま猛スピードで壁を走り出した!


 速い--が、この間出たチャバネ程やないな。

 あいつのスピードに比べたら欠伸が出るわ。ただ用心せなあかんのはこいつは飛ぶっちゅうこと。


 奴の進行方向に先回りして壁にタッパーをひっつける。奴がタッパーの中に飛び込んできたらタッパーを倒すだけで捕獲完了や!


 しかし、流石に奴はそんなに甘くない。


 タッパーの目前で奴はツルリと壁から転げ落ち、床に落下。

 足が滑ったか?しかしその不幸が奴を救った?いや--

 着地に失敗した奴は天井に腹を向けてじたばた。起き上がるのに約1秒。

 刹那の時間やけど、ゴキブリを前にしたウチにその1秒は永遠に感じる程充分すぎる間や!


 素早くしゃがむと同時に床にタッパーを叩きつける。寸分違わず奴を捕らえた透明な牢獄は奴を完全に外界から隔離した。


「……遅いで、マンション言うサバンナでは一瞬の隙が命取りなんや……」


 勝った--

 後は奴がタッパーの内壁をよじ登ろうとしたタイミングでひっくり返して蓋をするだけ。ここでミスるウチやない。


 惨めったらしくタッパーの中でガサガサ慌てふためく奴を前に勝利の愉悦に浸る。この部屋に入って生きて帰った奴は居らへんのや。殺さへんけど……


「オラオラ、出れるもんなら出てみや?どーした?ん?情けないのぉ。どないしてやろうか?排水溝にでも捨てたろかこいつ。全部ウチの晩餐を邪魔したおどれが--」


 --カサッ


 殺気!!


 慌ててタッパーから飛び退く。背中を嫌な汗と怖気が伝う。

 今の音……タッパーの中から?いや違う。今の気配はウチの背後から……


「……なっ」


 その光景に絶句せざるを得なかった。

 ウチはたった今まで勝利を確信しとった。事実ウチは勝った。目の前のこいつには……


 そこにはもう1匹居った。


 全く同じくらいのサイズのクロゴキブリがタッパーの中でもがく奴を、捕らえられた仲間を助けようとするかの如くタッパーの外壁にカサカサ体を擦り付けて見つめとった。


「なん……やて……」


 ウチは勘違いしとった。

 敵は1匹だけやと……根拠もない確信に身を委ね伏兵の可能性を考慮せんかった。


 タッパーという武器を使い果たしたウチの目の前でのうのうと外に放たれるゴキブリ……

 この屈辱感……このゴキブリスレイヤーたるウチの家にまさか2匹も……


 あかん、どないしょ。ホンマに……


 もう一個タッパーを取るには前の棚まで行かなあかんのやけど、その前に居るのがこのゴキブリや。

 こいつ跨いだら絶対逃げるよな……


 タッパーの傍に居るけんサッとタッパー持ち上げてあいつも入れよか?

 いや、内壁にへばりついた中のゴキブリがそのチャンスを見逃すはずがない……

 それに捕らえたところでタッパー内に居る2匹のゴキブリを逃がさないように蓋をするのは不可能……


 ど……どないしたらいいんや……どないしたら……っ!


 ……しゃーないの。


 ウチは床のスリッパをおもむろに手に取った。

 背に腹はかえられん……こいつには往生してもらおう。しゃーない。同じタイミングで出てきた自分の愚かさを呪うんやな……


 殺意と覚悟を握りしめ、ジリジリとタッパーに近寄る。ウチが寄っていっても外のゴキブリは気づく様子もなくタッパーにへばりついとるまま……


 動くなよ……


 慎重に狙いを定める。スリッパがタッパーに当たってズレたら折角捕まえた一匹も逃がしてまう。慎重に……


「……?」


 ここでウチの手を止めたのは、長年のゴキブリスレイヤーとしての勘。

 勘は違和感になり、やがて疑念を呼ぶ。ウチはスリッパを振りかぶった姿勢のまま固まった。


 こんだけ近寄っても逃げへんのはなんでや?


 手を伸ばせば届く距離まで寄っていっても、ゴキブリはタッパーの--捕まった中のゴキブリから離れようとせん。

 ゴキブリがこんな1箇所に留まるなんて……


 タッパーの壁を隔てた両者は体を起こして必至にタッパーに脚をぶつけとる。その姿はまるで障害に隔てられた恋人--


 はっ!?


 こいつら……オスとメス!?つがい!?


 あかんゴキブリのオスとメスの見分け方とか知らん。知らんけどそう思ったらもうそうにしか見えへんくなってきた!


 タッパー越しにお互いの存在を確かめ合うような両者の姿、その必死さ……


 例えるならベルリンの壁に隔てられた恋人…

 無実の罪で収監され引き離されながらも鉄格子越しに愛を確かめ合う恋人…

 別れのその時まで互いを惜しみ、電車の扉が閉まるその瞬間まで愛を囁き合う恋人…


 ……………………


 必死や。

 このゴキブリ……捕まった相方から離れへん……ずっっっとカサカサ、タッパーにへばりついとる。

 中のゴキブリも離れへん。ずっっっと引っ付いとる。


 ……あかん。どないしょ。


 叩き潰すんか?恋人の目の前で?鬼やん。いくらウチとてそないな真似は…

 ……じゃあこいつら野放しにするんか?いや、有り得へん。寝とる時口に入ってきたらどないするねん。


 いや、でも……こんな……愛し合う2人を目の前で……そないなことしたらホンマに人やなくなってまう。そりゃ悪魔の所業……

 いや深く考えんな。所詮ゴキブリ……


 いや……でも……いや……


 ………………………………



『もしもし?香菜ぁ?珍しーじゃん、香菜ってうちの番号知ってたんだぁ。あげぽよ〜』

「悪いなこんな時間に……」

『なになにどしたー?現文の課題ならやってないよ〜?』

「ちゃうねん…あんな?お前生き物好きよな?色々飼っとって詳しい聞いたねんけど…」

『ゲテモノ系ばっかだけどねー?なに?それがどったの?』

「うん…ウチも飼おう思て…飼い方教えて欲しいんやけど」

『え?まじ?テンション爆上げー!やっばー香菜が?え?まじうける。いーじゃん飼おー!なに飼うの?』

「……ゴキブリ」

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