空閑睦月という男②
先輩の持ってきたコッペパンはカピカピパサパサだった。それはもう、食べるのが辛いくらいにパサパサだった。
当時まだ名前も知らないこの面のいい先輩が突然いじめっ子を顔面たこ焼きにして引きずって現れた時には俺も親父もドン引きした。
……が、面倒なことにこの先輩、いじめっ子達がいつもプリントに紛れ込ませて持ってきていた自分らの宿題や脅迫紛いの手紙を親父の前で広げてみせる。
仕事はなくても親の矜恃だけは一人前の親父は憤怒。感情のまま家を飛び出してしまった。ママチャリに跨り鉞を担いで行く親父の姿に一抹の不安を感じつつ俺はとりあえず……
……この人いつまで居るつもりだ?
先輩に帰ってもらうことにした。
「君は敵が多いねぇ。春巻き君」
「はぁ……あの、どうしてここに?」
彼女がシメたのかは知らないけれど今にもくたばりそうな俺のクラスメイト達をケツに敷いた先輩はパサパサのコッペパンを頬張る。しかしあちらにはジャム&マーガリンが入っていた。しかし生地そのもののパサパサ具合はこぼれ落ちるパン屑を見れば明らか。
「学校でね、君の事件について色々訊かれたんだよ」
「……先輩が?」
「簀巻きにされてた君を保健室に連れて行ったからね。その上君はなんにも喋らないらしいじゃないか?」
「……ご迷惑お掛けしました」
「君、いじめられてたんだね」
……え?もしかしてマジで1人で簀巻きしてたと思ってたんですか?
「そんなある日、たまたま1年の教室を通りかかった私は聞いてしまったのだよ……この、太田君と田原咲君の会話を……」
「平田と長崎です……」
「どうやら君をいじめているのはこの子達みたいだね?」
……この子達というか、クラス全員……
「それでこんなことを……?」
正直俺は、こんなことを勝手にされて憤っていた。後々の面倒と苛烈さを増すだろういじめを想像して吐き気すらしてきた……
そんな気持ちは露知らずこのぶっ飛んだ先輩は俺に「だからシメた」と無邪気に笑いかけてきた。
「……先輩強いんですね」
「私のカレシだがね?」
…………あ、カレシ、居るんだ……
「カレシさんにも面倒かけました」
「……」
丁寧に頭を下げる俺に先輩はキョトンとした顔をした。口にマーガリンが付いていた。
「……で?この子達どうする?」
「どうすると訊かれても……連れてきたの先輩ですよね?」
「え?私にどうにかしろと?」
……
「…………薪にでもするか」
ボソッと真顔で呟く先輩の横顔。なぜだかこの人は本気でやる気がした。不思議だがそんなオーラがあったんだ。
ので、その日はとりあえず先輩共々解散してもらうことにした。
逃げるように帰っていくクラスメイトの平田と長崎。遅れてアパートの階段を降りていく先輩は不意に振り返った。
「私、松葉。松葉千鶴」
「……空閑睦月です」
「……春巻き君。またなにかあったらお姉さんに相談においで。なに、これも何かの縁さ」
名前を聞いておきながら春巻き君のままである。
そして整った面で「ふっ」と口から吐息を零しながらカッコつける先輩が微笑んだ。
--踏み抜いた階段の踏み板に挟まった松葉先輩の足は30分くらい抜けなかった。
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--いじめ事件というのは保護者と学校側だけではなかなか解決しないものだ。
結局、空閑睦月君いじめられっ子事件は具体的に解決しないまま俺は夏休み直前に登校するようになった。
ただ、この時クラスの力関係は少し変わっていた。
具体的に言うと、最下層が変わっていた。
みんなのサンドバッグこと空閑君が居なくなっていた事で、そのひとつ上のランクの生徒達がみんなのサンドバッグになっていた。
つまり、入学当初俺とつるんでいたタツ君と山田ちゃんだ。
俺はいじめられっ子として話題になってしまったせいで、流石に登校再開早々にターゲットにされることは無かった。
代わりに掃除当番や日直、パシリ、カツアゲやその他暴力はこの2人に集中していた。
--そんな中迎えた夏休み直前。
俺は1人下校しようとした時に山田ちゃんに呼び止められた。
会話をするのはいつぶりだろう……
相変わらずメガネな山田ちゃんはかつて俺の陰口を流布して回っていたことなどなかったことかのように俺に話しかけてくる。
「空閑、俺さ夏休みからうさぎの飼育当番なんだよね」
山田ちゃんは飼育委員だった。校内で飼育されている生き物の世話は飼育委員なる委員会で回されている。
「お前俺の代わりに出てくれね?」
「……」
「俺さ、夏休み塾とかあるんだって……やってくれるよな?」
嘘である。
山田ちゃんは塾通いなどしてない。本当の理由は飼育委員の中にいじめっ子のリーダー格が居るからだろう。
いじめられっ子に格下げさせられた山田ちゃん、夏休みくらいは平穏に過ごしたいということか……
「……いいよ」
--この時の快諾の理由は恐らく俺の中に染み付いたいじめられっ子精神と、いじめられっ子の辛さが分かってしまうからだろう…
ただ、いじめっ子のリーダーと夏休みも顔を合わせるという事実は、しばらく続いた平穏が壊れるような予感がして凄く気が重くなった。
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「……おや?少年」
--が、その予感は杞憂に終わる。
夏休み最初の当番日、俺が登校するとそこには鶏を目の前にして唐揚げ弁当を頬張るあの先輩の姿があったのだ。
かつ、他に居るはずの委員の姿は皆無……
「君、飼育委員じゃないよね?はっ!さては……ダメだぞ?ここの唐揚げは私のだ」
「その鳥小屋の中身は唐揚げではありません…え?まさか先輩……」
「言うんじゃねぇぞ?」
もし事実ならこの人とんでもない畜生……
「なーんだ。私以外誰か来るなら私もサボれば良かったね」
「……他の人はサボりですか?」
「ぶっちゃけ1人来れば充分だからね。私は唐揚げ作りに来ただけだけど……ところで、イリオモテヤマネコ食べる?」
唐揚げ弁当の空をうさぎに無理矢理食わせようとする小動物虐待野郎を見守りながら俺は頼まれた仕事をこなしていく。
「糞の掃除とーー、餌と水の補充とーー、ブラッシングとーー、あとインフルエンザの予防接種ね?」
「はい……え?」
ちなみに先輩は俺が来た途端やる気を無くした様子であれこれと指示だけ出してから「オカヤドカリと喧嘩してくる」と言い残して飼育小屋から去っていってしまった。
……そして先輩は1人で充分と言ったが鶏、うさぎ、土佐闘犬、アフリカニシキヘビ、サラマンダースフィンクスとたくさんの生き物のいる飼育委員の仕事は1人ではてんてこ舞いである。
そして日が暮れる頃に大方終わった時--
「……くっ、ドジ踏んじまったぜ」
「あ、おかえりなさい」
何故かボロボロの松葉先輩が帰ってきた。どうやらオカヤドカリにボコボコにされたらしい。衝撃の弱さである。
「……お、全部やってくれたの?なんだよ〜私だって手伝ったのに」
「……はぁ」
嘘である。本当は少し前に学校に戻ってきていたが外から仕事が終わるタイミングを見計らっていたのを俺は知っている。
「サラマンダースフィンクス、そろそろコーラ出る時期じゃね?」
「……?」
「まぁおつかれさん。あ、コーラ飲む?」
メロウコーラではなかったが、先輩がコーラを奢ってくれた。俺達は日が沈みはじめる空を眺めながら飼育小屋前の芝生に寝転がってコーラに舌鼓を打った。
流石に疲れていたのでコーラの炭酸が染みる。
「ねぇ、君飼育委員じゃないでしょ?なんで来たの?その答えをまだ私は貰っていなかった……返事を聞くまで私……帰らないよ」
まるで煮え切らない関係に終止符を打とうとするヒロインである。なぜか頭の上にジョロウグモがいるがもう気にしないことにした。
「唐揚げ作りに来た訳じゃないんだろう?」
「……クラスメイトに頼まれて…」
「……ふぅん」
俺の返答に目を細めた松葉先輩はコーラを一気に飲み干した。
「ゲップ」
ゲップもした。
そして仰向けに寝転んだまま俺の方を見ずに空を眺め「今日は1人であんがとねー」と羽毛より軽い感謝の言葉を告げる。
「……いえ」
「来週もよろしく」
「あ、はい……」
「てかもうずっとよろしく♪」
「はい」
「あ、そうだ。私忙しいから夏休みの宿題終わってねー。代わりにお願いしていい?」
「あ、はい」
「てか帰りの電車賃貸して?」
「いくらですか?」
突然松葉先輩の豪速球が炸裂。手にした空き缶を地平線の彼方に吹き飛ばしていた。
そのままの勢いで仰向けになっている俺の上に覆いかぶさってきた。
頭の上のジョロウグモが俺のデコに落ちる……
先輩の目は感情の読み取れない形に細まって俺を見つめていた。
俺は自分より細い先輩の行動に恐怖を感じていた。
「……君は優しいね、睦月君」
「ありがとうございます……」
「君は頼まれたらなんでもするの?」
「……えっと」
「じゃあ死んでって頼んだら死ぬのかな?」
突拍子もない先輩の質問……俺は真剣に思考を巡らせてしまっていた。
飯田君から…早乙女さんから…麻生君から…小林君から…えみりちゃんから……
クラスメイトのいじめっ子達から『死ね』と命令されたら俺はどうするんだろうか?
いつもみたいに能面のような顔で「はい」と言うのだろうか?
その時先輩の冷たい声が落ちてくる。
「君は優しい人なんだねぇ」
「…………」
「君みたいな人生を送るなら、いっそ死んだ方がいいのかもしれないね」
「…………」
「君、飼育委員の仕事押し付けられた時、何も感じなかったでしょ?」
「………………」
「思考を放棄した人間は感情も放棄する。考えれば自分の置かれてる現状に対して感情が湧いてくるから…君はいじめられっ子だからどの道「NO」とは言えない……かと言って言いなりになってる現状を直視すれば辛い気持ちになる。だから考えるのをやめた」
「……………………」
「君は死んだんだよ。こら、目を逸らないで私を見なよ。君に1人仕事を押し付けた私を……」
この人は突然どうしたと言うんだろうか…
「……すみません、降りてください」
「こっちを見ろ」
上から降ってくる声に視線を戻したその時、目の前に銀の切っ先が迫っていた。
それは俺の目の前で止まり、脅かすように鋭い光を放っている。
先輩が俺にカッターを向けていた。
「……先輩?」
「殺していい?何も考えずに何も感じないような人は死んでるのと一緒だから」
「いや……」
「お願いしていい?死んで?」
…………この人はなんなんだ。
ゆっくり切っ先が降りてくる。それは顔面を這うように、鋭い感覚を肌に与えながら首筋へ……
「私さぁ……君みたいなナヨナヨした人、見てるとイラつくんだ」
頸動脈?首に浮かび上がる起伏に冷たくて薄い感触がゆっくりと……
--この人イカれてる。
全く色のない沈んだ瞳で俺を見下ろす先輩がゆっくり刃の背を親指の腹で押し込んで…
「……っ!!」
首から温かい温度が噴き出し流れた時、俺の中で何かが弾けていた。
このイカれた狂人の狂気に当てられるように俺の中で爆発した感情がそのまま流れに乗って体に伝達する。
反射的に、思考を飛び越えて飛び出していた俺の脚が先輩の腹に突き刺さって、次の瞬間にはメジャーリーガーが打ち返したボールみたいに先輩が軽く吹っ飛ばされていった。
「……あ」
「ぎゃあああああああああっ!!」
クルクル回転しながら芝生を飛び越えてアスファルトに叩きつけられた松葉先輩は「むらはむっ!!」というよく分からない悲鳴を上げてピクリとも動かない……
……動かない。
「……し、死んだ?」
恐る恐る近寄る……
仰向けにぶっ倒れて白目を剥く先輩は本当にピクリとも動かなかった。
後頭部打った?
……ヤバいぞこれ。どうしよう……
正当防衛?
……まぁ、俺、殺されかけたし…
そもそもなんで殺されかけたの?
…………
「……まぁ…いいか」
「よくねーーっ!!」
俺の呟きに飛び起きた先輩が「あははっ!!よくねーよ!!ぶっ飛んでんなっ!?」と笑う。ぶっ飛んだ言動の後物理的にぶっ飛んだ人が俺の事をぶっ飛んでると言う。
そりゃあんたさ--
なんて、気安ーいセリフがするりと喉から飛び出しかけた。
「あはははははっ!!おはよう!!睦月!!」




