便所紙と命
「ただいま帰りましたぁ」
「おかえり」
やぁ、俺だ。日焼けで肌がヒリヒリし始めている、俺だ。
天上天下唯我独尊、小比類巻睦月様だ。
そしてリビングのソファでムカデと戯れているこの女は脱糞女だ。
俺は今訳あってこの脱糞女、楠畑香菜の家に転がりこんでいる。理由は俺ん家が台風で吹き飛んだからだ。
なので新しい家が見つかるまでの仮住まいとしてアリエッティしてるわけだ。しかもマミーと一緒にな。
高校生のくせにこんなタワーマンションに住みながらセレブの真似事をしているとは…脱糞さんと結婚したら将来はヒモ確定である。
「お袋は?出かけた?」
「さっき仕事行ったで。飯は?あぁ食うて来たんか…」
今日は体育祭の打ち上げだった。
特に内容のない、肉もないつまらない打ち上げだったが、メタモンの存在を確認できたという点では収穫だろう。
「風呂できてる?」
「てめーで洗えや。今日はおどれの当番やろ?」
「お前の風呂場ってなんかホタテ居るからなんかやなんだよな…」
「あのホタテな…真珠作らんけ食ってもうた」
「……え?」
え?
あの…いつも入浴の時に足下にまとわりついてくる…カパカパうっせぇホタテ貝君が…?
「今日の弁当1個だけ天ぷら入っとったろ?あれ」
……て、天…ぷら?
あの、ベトナム帰りのお兄ちゃんが食ってたあれ…?
あれが…あの……ホタテ貝…………
「なぁ睦月。そういえば修学旅行の時露店で買った--えっ!?」
気づけば俺の瞳からは大きく透明な粒がこぼれ落ち頬を濡らしていた。
おかしいな…涙なんて……いつ以来だろう。
「え?えぇ!?どないしたん急に!!は?キモ……なん?焼肉行ってなんかされたん?」
「……なんで?」
「え?」
「なんで……ホタテ丸を……天ぷらに……?」
「ホ、ホタテ丸……?」
…居候が始まってから風呂掃除が憂鬱で仕方なかった。風呂桶の底に張り付いたあの二枚貝…
薄っぺらい貝を割ってしまわないように細心の注意を払ったっけ…なんか生臭かったけど……
洗剤をふりかけてしまわないように注意して……たまには貝殻を擦ってやったこともあった。
いつの間にか足下に居るのが当たり前で…なんか生臭かったけど……
薄ら開いた貝殻の隙間から生殖巣を覗くのが日課になっていた……
もう……家族だった。
「なんで……よりによって……」
「え?え?え?」
「天ぷらなんだよ……」
「いや……だって…いつまで経っても真珠作らんし…………」
「家族だった」
「いや家族やない」
「お前には俺とアイツの絆は分からない」
「……なんやアンタ、そんなに可愛がっとったんやったら言うてや…いっつも「風呂場に貝居るのキモイ」言うとったやんけ」
「そりゃキモイだろ。なんか生臭かったし」
「……せやけさっさと処分したんやけど」
「なんにだって愛着ってもんは湧くだろ!?お前には人の心がねーのかっ!!」
「……いや、そない怒られても……え?てか、生臭かった?あれ」
「ずっと生臭かったろ」
「……死んどったんかな?天ぷらにして良かったやろか…」
この女は悪魔の生まれ変わりか…自らの手で家族の命を奪ってあまつさえ天ぷらにするという暴挙に出ておきながら鮮度を気にするとは……
もう……おしまいだ俺達は。
「……?どこ行くん?」
「風呂場……アイツと、最後のお別れさせてくれ」
「もう居らんけどな?」
「ほっといてくれ」
「あ、風呂掃除しとってな?」
*******************
……限界だ。
あんな…血も涙もない女といつまでも一緒には居られない。あの女には出ていってもらって他の家を探して貰おう。週三で掃除に来てもらえばそれでいい。
……ホタテ丸。お前の生殖巣は赤かったな…お前、女の子だったのか……
脱衣場から覗く風呂場はあいつが居ないだけで寂しく見えた。体感として、気温が0.3度くらい下がってる気がする。
……この風呂場のタイルを踏んでいくと狭っ苦しいバスタブがあって……
…………どうでもいいけど銭湯とかの風呂場の床裸足で歩くの抵抗ある派?俺は平気派。
で、この中にいつもお前は--
「…………………………え?」
その時俺は我が目を疑った。
お高く止まりやがった、恋人と入ることを考慮していない狭すぎるバスタブの底に謎の異物が沈んでいる…
昨日から張ったままの残り湯の中でそれは輪郭も不安定に水面の揺れにかき乱されながら俺を出迎えていた。
謎の……長細い楕円形の謎の物体。
どこか懐かしさを感じさせるそれに俺はホタテ丸の面影を見る。
……手に取ってみよう。
冷めたお湯の中に手を突っ込んで拾い上げたら手の上にざらざらとした触感が。
……貝だった。
俺には分かる。手のひらに収まるくらいのサイズの貝殻だ。俺の手の上に乗せられたコイツはびっくりしているのか手の上でうねうねと顔を出てきた。
俺の頬を再び熱いラインがなぞっていく。
それは、亡きホタテ丸との再会のようだった。
「そうか……お前……」
恩返しに来たのか?
お前……ホタテ丸の生まれ変わり--
プスッ!
「……?」
その時だ。感涙を垂れ流す俺の手の平の上でなんかチ○コみたいの出した奴がなにか刺してきやがった。チ○コの下からエビの頭の上のツノみたいのが…
「痛え」
なんだコイツふざけやがって。食い殺すぞ?
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--アンボイナガイ。
イモガイ科の巻貝の1種。
たった十数センチの貝ではあるがコノヤロウ、エラブウミヘビやオニダルマオコゼ、ヒョウモンダコクラスのとんでもねぇ海の殺し屋らしい。
コイツの持つ神経毒、コノトキシンは…な、な、な、なんとインドコブラの37倍の強さらしい。
刺されてから20分程で目眩やら喉の痛みやら呼吸困難やらで間に合わないと数時間でぽっくり逝かせてくれるっていう殺し屋として最高の仕事をする職人である。
……そんなことを調べていたら20分経過。
「かはっ!ごっ……ぐはぁぁっ!!」
硬い床に盛大にスマホをぶち落とし愛機とのお別れ。同時に風呂場に膝を着く俺は今人生とお別れ直前。
イモガイにやられたっ!!
ヤバいヤバい寒気がするぞ……あと気分が悪いぞ?息ができないぞ?
「睦月ー、アンタいつまで風呂掃除かかっとんねん。もしかしてまだ怒っとん?」
「かひゅっ!…激おこだけど!?なんでこの家の風呂には訳の分からねぇ貝が湧くんだ!!」
--バタン。
「えー?ウチもはよ入りたいけはよしてや」
てめぇ!!脱衣場挟んだ隣で彼ピッピが死にかけてるのに呑気に便所に入ってる場合かっ!!
「おい脱糞さん……いや脱糞様」
「敬称直しても同じなんよ」
「頼むから救急車呼んで……?死んじゃう。あ、天に召されちゃう……ひん」
「何言うとんねん。ちょっと頭おかしいくらいで救急車呼べるか……あ。 」
「黙れ!かはっ!!俺の声を聞けっ!!」
「……アカン」
「そうだアカンぞっ!!このままでは--」
「トイレットペーパー無いわ」
はぁぁぁぁぁっ!?
てめぇはケツのミソ拭くのと俺の命とどっちが大事なんだよ!!
「なぁ睦月紙持って来てや」
「いいからっ!!そんなこといいから救急車を呼べっ!!死ぬぞ!?こっひー死ぬぞっ!?うっ!!」
「なんやねんさっきから、ふざけとらんで取ってきてや。ウチ、緊急事態やねん」
「こっちの方が緊急事態だわっ!!イモガイに刺されたんだよっ!!はぁ……はぁ……ああ、気が遠くなってきた…」
「イモガイ?アンタはキチガイ、ナイスガイ。ええからはよ紙もって来てって」
なに狩野英孝みたいなこと言ってんだ上手くねぇし面白くねぇよっ!!
「なぁ頼むよ…俺スマホ落としてぶっ壊したんだって…はぁ……はぁ……」
「いや、ウチだってスマホリビングやし。紙ないと出れへんやん」
「いやいやいいからっ!パンツにミソつけて取って来いってっ!!」
「なぁ?なんでそないな意地悪するん?紙もって来るだけやん。なんなん?住まわせてやっとる恩を忘れたん?」
「てめぇこそ何回も助けてやったよな!?盗撮魔とか修学旅行とかっ!!今度はお前が俺を助ける番だぞ!?脱糞女!!俺はお前を愛してる!だからケツを拭かずにスマホを持ってこいっ!」
「はいはいウチも愛しとるよ。せやけはよ!」
「こっちがはよ!!」
まずぅぅいっ!!叫びすぎて血圧が上昇してるぅ!!心做しか毒の回りが早くなっている気がするぞっ!!
ヤバい死ぬ……死んでしまう!!おい脱糞女!!これで死んだら呪うからなっ!!お前の枕お父さんの頭の臭いにしてやるっ!!
「おえぇぇぇぇっ!!」
「え?なんお前吐いとん?最悪やん。掃除しとけや?その前に紙」
「げろろ……はぁ……お前、この状況で普通じゃないと気づかないのか?イモガイだってばっ!!」
「イモガイってなんやねん」
こっちが聞きてぇよなんでマンションの浴槽にイモガイ生息してんだ!!
「なぁええ加減怒るで?紙もって来てって。追い出すぞ?」
あー……ダメだ声も意識も遠くなってきた。
浴室の天井におじいちゃんが浮かんでらァ……
中学の時優しくしてくれた大葉センパイ……元気かなぁ。死ぬ前に1度会いたかったよ……
あぁマミー……すまない俺はもうダメらしい。
「こらっ!!乾いてまうやろはよせんかいっ!!」
「だっ…脱糞女……はぁ……」
「今日はどうしても紙の日なんや!!ウォシュレットは使いたくないんやっ!!」
「……俺はお前に……殺されるけど……それでも俺は……」
「おいっ!!(怒)」
「お前の…………こと………………」
……あぁ、さよなら人生。
短かったけど……悪くなかった…………
……グッバイ。
--ガララッ!!
「--頭きたっ!!おいこらっ!!ウ○コタレ!!おどれが紙もって来んけウォシュレット使うハメに……え?」
……………………………………。
「え?は?あれ?え?……む…!?睦月ぃぃぃぃぃぃっ!?!?」




