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なんで玄関に包丁持ってきたんですか?

 本格的な梅雨入りを果たし、関東にもゆっくりとした足取りで雨雲がやって来た。連日、滝のように振り続ける雨は視界を切る線のように頭上から伸び、地面を打っている。湿ったアスファルトの匂いが鼻の奥に粘っこくこびりついた。


 そう、雨である。


 俺、広瀬虎太郎。雨の日にはろくなことが起こらない男…雨が降ったら変質者に刺される。そういう人生…


「危なぁぁいっ!!」


 やはり今日も講義の終わりの道中でトラックが突っ込んできた。紫信号がないので都会は危険がいっぱいである。



 さて、午前中の講義を終えていつもならそのまま帰路に着くのだけれど、最近の俺はある場所に通うようになっていた。

 あまりの豪雨に傘を粉砕され、道行く人が滝のような水の爆弾に打ち付けられ地面に伏すなか、びしょびしょになりながら俺は目的地のひさしの下までたどり着いた。


 そこは珍獣カフェ。


 俺が初めて知り合った同じ大学の生徒、実渕さんに連れてきてもらった店だ。世界中の珍獣と戯れながらお茶できるという衛生面が気になるカフェである。

 が、俺にはそれ以上に気になる事がある。


「うわぁ…びしょびしょ」

「っ!」


 俺がほっと一息ついていたらその横に飛び込んでくる声…

 それは小鳥の囀りのような可憐さと南アルプスの天然水のような透き通った清廉さを兼ね備えた声音。その声が鼓膜を震わせただけで俺は震えた。


「あれ?」

「…どうも」


 カフェ店員、日比谷さんに会釈を返すと彼女は信じられない美貌を柔らかく笑みの形に崩して会釈を返してくれた。

 飾りっ気のないシンプルな服装でもそれはモナリザを縁取る額縁のように彼女自身の着飾る必要のない美しさを際立たせる。そんな美の究極みたいな人が俺に微笑んだのだ。死んでもおかしくないだろう。


「こんにちわ。すっかり常連さん……あれ?」


 --日比谷愛梨の微笑に俺は彼岸を彷徨った。


 *******************


 --俺、広瀬虎太郎は動物が嫌いだ。

 いや、嫌いと言うほど尖ったものでもないか。ただ、苦手意識はあるかもしれない。

 無論全ての動物にではない。イエネコやそこらの犬にまで拒絶反応を示すほどのものでは無いし、動物というだけで距離を置くほどでもない。


 ただ、動物にいい思い出はない。


 昔雨の日に帰ってたら犬にケツを齧られた。

 ……くらいならまだ可愛い思い出。

 俺は高校時代、後輩の連れ込んだ危険生物に何度も殺されかけた。


 我が母校の元生徒会、田畑と長篠。

 生徒会メンバーとして苦楽を共にした後輩ではあるが、奴らは校内随一の危険人物でもあった。

 なぜなら、アイツらは無類の動物マニア……しかもよりによって危険生物が大好物だ。


 初めて生徒会に奴らがやって来た時はタランディスオオツヤクワガタに襲われた。頭と胸の間に指を挟まれて盛大に切った。

 その次はデスストーカーだ。あのサソリの毒で三途の川を渡りかけた。

 でもって極めつけはベンガルトラだ。アイツとのかけっこは命懸けだった。


 田畑長篠コンビとの日常はまさに命懸けだった。常に信管を抜いた手榴弾と隣り合わせのような危機感を抱いていた。俺の背中には今だにコモドオオトカゲに襲われた時の傷跡が生々しく残っている。

 そんな時あの2人は決まってこういうのだ。「まぁまぁ動物のやることですから」と…


 てなわけで俺は動物が苦手だ。

 というか、一般的でない生き物に対しては必要以上に警戒してしまう。


 なので例え柵に囲まれていても動物園なんて行かないし、修学旅行のワニの楽園なんて以ての外だ。幸いあの時の被害は小河原のメガネだけだったが……


 ……あの頃が懐かしい。

 常に俺の命を狙う猛獣達…都会の中にある学校のジャングル…

 もう二度と動物とは関わりたくないと何度も思った。犬とネコとハムスター以外とは接触しないと…


 そんな俺を変えてくれたのが、日比谷さんだったんだ……


 *******************


「あ、起きました?」


 くだらない走馬灯から生還し目を覚ました俺を出迎えてくれたのは俺を殺しかけたあの笑顔…

 真上から凶器とも呼べる美貌が俺を覗いている。跳ね起きた俺と彼女の顔がごっちんした。


「〜〜っ」

「あっ!?すすす、すみません!!大丈夫ですか!?」

「あはは…平気ですよ。広瀬さんは?急に倒れたからびっくりしたけど…その様子じゃ大丈夫そうですね」


 そうか…俺は店の前で倒れて……

 なんてみっともないところを見せてしまったんだ……

 羞恥心に押しつぶされそうになる中俺は自分の頭があった場所に彼女の膝があるのに気づいてさらに頭が熱くなった。

 端的に述べると、頭から煙が出たのだ。


「いや、やっぱり大丈夫じゃなさそうですね!?」

「いやいや!よくあることです!!」

「よくあるの!?煙出てるけど!?」

「よくありません?」

「ないね!?大丈夫!?目が開眼してるけど!?」


 日比谷さんが俺の身を案じてくれているなんて…この凄さ、この至福、例えるとすれば俺の目が開眼するくらいというところか。この例えならこれがどれほどの事か理解してもらえると思う。


「やっぱり少し休んだ方がいいと思いますけど…」

「いや…結構です……えっと、ところでここは?」

「お店の休憩室ですよ」


 そう言う日比谷さんはスローロリスがプラントされたエプロンをかけていた。仕事の邪魔をしてしまったんだな……


「もう大丈夫…迷惑かけてすみません」

「ほんとに大丈夫?なんか持病とか持ってるんですか?」

「いや…あまりの眩しさに心臓をやられただけですから……」

「?」

「目が潰れるかと思いました」


 あなたの美貌に。


「広瀬さん、いっつも目潰れてるみたいなものですけどね……」

「もう帰ります。店長によろしく--」

「待って」


 帰ろうと入口に向かう俺の服の裾がぎゅっと握られる。控えめなブレーキに俺の脚が止まると同時に落ち着きを取り戻し始めていた心臓が再び動きだす。

 振り返るとそこには心配そうな上目遣いで俺を見つめる日比谷さん……


 こ、これは……


「……やっぱり、心配だから……」

「……っ」


 困ったふうに微笑む日比谷さんの顔に俺は何かを予感する。勝手に浮かれて暴走する心臓がはち切れんばかりに--


「お家まで送りますよ」

「いや…そこまで……」

「大切な常連さんですから。いいじゃないですか。雨も酷いし」

「しかし……お仕事…」

「“彼”が今日お仕事休みで近くまで来てるから、“彼”の車で--」


 ……………………?

 …………?ん?

 ん?ん?ん?ん?


「………………カレー?」


 カレーとは複数種の香辛料を使用するインドの料理だ。ライスにパン、俺は納豆かけたりする…


「いや、彼」

「……カレ?」


 カレとはフランス語で正方形の意である。


「婚約者です。私、結婚するんです」

「……翻訳者?」


 翻訳者とは多言語をその国の言語に訳する人の事を指す。本や映像作品、会話の際の通訳など--


「いや、婚約者」

「…………こんにゃく者?」


 こんにゃく者とはこんにゃくを生業にする人の事を指す。一般的には食品加工された『蒟蒻』を指し、原料とされるサトイモ科のコンニャクは除外--


「もうすぐ入籍するんですよ。私」


 頭の中をぐるぐる回るふざけた思考が日比谷さんの笑顔の前に四散する。その一言は心臓に氷のナイフを突き立てたようにぐさりと突き刺さり、体を芯から凍らせていく--

 まるで熱が引いていくみたいだ。

 ずっと、ずっと火照っていた熱がさーっと冷めていく…熱が去った後に残されるのは、言いようのない虚無感……


 はは、何を勘違いしてたんだ?俺は……

 なにをそんなに傷つく、広瀬虎太郎。

 お前は日比谷さんとなんでもないじゃないか……


「……きゅー」


 --バタンッ!!


「うわぁ!?広瀬さんっ!?広瀬さーーんっ!!」


 *******************


 --ハンドルネーム『世界を憎むもの』


 今日、包丁買ってきました。今から駅に行ってみんなぶった切ろうと思います。


「……よし」


 あれから2日、ショックで発熱した。

 頭に貼った冷えピタは今だに体を蝕む熱を取り去ってはくれず、ガンガン痛む脳みそは煮込まれているかのようだ……


 そんな俺は今日もザァザァ降る雨で曇った窓ガラスを見つめて書き込みを終えた投稿をアップしパソコンの画面を見つめていた。


 いいんだ……

 俺は全てを失ったんだから……


 --ピンポーン


「……誰だこんな時に。今から通り魔に向かうって言うのにさ……」


 ブツブツ言いながら包丁片手に玄関に向かう。この際誰でもよかった。

 このマンションまで送ってくれた日比谷さんの婚約者の人の良さそうな笑顔を何度も頭に浮かばせながら、固く握りしめた包丁を意識して扉を--


「えっ!?虎太郎!?」

「………………え?」


 そこに立っていた見覚えのある顔に俺は思わず間抜けに口を開いていた。


 サラリと流れる黒髪のポニーテールに、若干キツさを感じさせる目付きを縁取る理知的なメガネ……

 あの頃は制服姿ばかり見ていたが、高校を卒業した彼女はそばかすを隠すメイクと可愛らしいコーディネートですっかり垢抜けして見えた。ちなみに提げたトートバッグからは似つかわしくないネギが伸びていた。


 --潮田紬。

 我らが元生徒会の生徒会長では無いか。


「つ、紬さん!?なんでここに!?」

「…………え。あ、えっと…小河原君から住所聞いて……その……暇だから来た」

「……ひ、暇?」

「……浪人生だからね」


 ……浪人生って暇なのか?


「なんか、熱出たって聞いたからさ…そこのスーパーで色々買ってきたんだけど……」


 ……え?なにこれ?

 なんなのこれ?神様?失恋した俺に天の恵か?しかし、なぜに紬さん……


「おっす〜♪広瀬君大丈夫か〜?」

「「え?」」


 事態の突然さに玄関先で呆気に取られている俺の視界にもう1人の来客が映った。

 紬さんとは対称的な茶髪を揺らした快活そうな女の子の声に2人揃って間抜けな声を上げる。


「なんか風邪引いたって聞いてさ〜、元気の出るものでも作って…………」


 呑気な子犬みたいに無邪気に笑う実渕さん。玄関先に立ち尽くす俺と紬さんを見てようやくその顔に緊張が走った。

 が、俺の緊張はその比ではない。

 俺の目の前で紬さんが人殺しそうな顔してたから……


 え?


「……え?広瀬君、どした?その包丁……」

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