莉子先生の恋
『5!4!3!2!1!ゼロッ!!』
--ゴーンッ、ゴーンッ、ゴーンッ
『ハッピーッニューイヤーッ!!』
…テレビの向こうの賑やかな声と、家の外から響いてくる荘厳な除夜の鐘の音色とがひとりきりの自室で混ざり合う。
こたつで丸まりながらカップうどんを啜る私はまた年越しそばが間に合わなかったことに対して敗北感を覚えながら、家の中で手軽に味わえる年越しの臨場感を満喫してた。
……まぁ、三十路近い独身女なんてこんなものさ。
葛城莉子。年齢、国家機密。カップうどんに生卵を落とすのがマイブーム。高校の養護教諭をしてる。
今年の頭に両親に金を無心したら勘当された、年末年始帰省の予定なしの暇人。それが私だ。
本来なら年越しの瞬間に1杯やりたいところだったけど、ビールかうどんの2択を迫られたなら、大晦日ならうどんを買う。ビールとうどんをふたつ買う甲斐性のない女さ。
決して高給取りとは言えないが、なぜ私はこんなに金がないんだろう…
そんなことを考える、六畳一間生活。
年明けそばを啜りながら、初詣の参拝客で賑わう神社のテレビ中継をぼんやりと眺めていた。
老若男女様々な人が居たが、やはり深夜ということもあり若者の比率が多い。
夜の帳の降りた街が騒がしいのも、そんな若者が家の外ではしゃいでるからだろう…
『あけましておめでとうございます。今年の抱負などお伺いしてもよろしいですか?』
『千夜と結婚する』
『達也!!まだ早いからっ!!』
…カップルだろうか。見覚えのある若者達がテレビ中継の向こう側で乳くりあっている。
「…若いって素晴らしいな」
麺を啜りきったうどんの汁に米をぶっこみながら新年の雰囲気に呑まれてく…
……懐かしい。
私にもあんな青春があった。
そう、あれも年末の思い出…今では遠い昔、夢の中の出来事のような……
私はそっと目を閉じて、こんな日くらい彼の事を思い出そうと過去に想いを馳せてみた……
『今年も愛してる…千夜ーーーーっ!!』
『達也!!もうやめてっ!!』
*******************
「--精が出るな、葛城」
年末の美術室…
とっくに冬休みに入って人のいない学校でキャンバスに向かって筆を走らせる私に声をかけたのは、耳障りのいい声音を吐き出すあの人だった。
「…部長。来てたんですか?」
「お前こそ…」
くしゃくしゃの髪の毛を無造作に伸ばした、文化人を思わせる神経質そうな男性…
私の、思い出せる限り初恋の人…
「ええ…年始のコンクールまで時間がありませんから」
「そうか…他の奴らはもう提出してるがな」
「中々納得いくものが描けません」
私の後ろに立って肩越しにキャンバスを覗き込む部長の視線と吐息にドキドキしながら、手元が狂わないように指に意識を集中。
「みんなお前くらい真面目だったらいいんだけどなぁ…」
ため息混じりに笑った部長の柔和な表情は今でも瞼の奥に張り付いてた。
「葛城もあんまり根を詰めすぎるなよ?折角のクリスマスだし…予定とかないのか?」
…予定。クリスマスの予定。
嫌なことを訊いてくる人だ…
そんなものあるわけが無い。部活と勉強ばかりのつまらない女の私に、構ってくれるのは部でもあなたくらい…
そう。クリスマスの日にあなたに会えた…それだけで私には充分…
「特にないです。ないのでここで絵を描いてます」
自嘲も込めて私が返すと彼はいつもの人懐っこい、けれど心の底は見せない笑顔を返した。
明るく人当たりのいい…けれどどこかミステリアスな彼に惹かれてた。
「そうか。だが折角の聖夜だぞ?そうだ、今から飯でも行くか?」
そんな彼からの誘いに胸が踊らない訳がなかった…
「…コンクールに出す絵が忙しいので」
「お前はほんとに真面目だなぁ」
あの時ほんの少しの勇気を振り絞ってたなら…あるいは私達の関係は違ったのかもしれない…
そんな今になって考えても手遅れな妄想は、今でも忘れる事ができない。
--高校2年、12月25日。
私と彼が最後に語らった日だった。
*******************
『葛城聞いた?部長亡くなったって…』
翌日、部活の同級生からの電話で私は彼の訃報を知った。言葉が出なかった。
家に持ち帰った部活の課題を前に私はただ耳元に流れてくるその声を聞くことしか出来なかった。
キャンバスの上に乗った真冬の空と男の子の後ろ姿は私の恋が終わったことを静かに告げていた…
--自分で言うのもなんだけど私は周りより大人びてたと思う。
同級生達が恋愛や遊びに夢中になってる中でもそれらの娯楽は私の中でそれほど大きなものではなかった。
人並みに恋もしたけど、それが悲恋に終わったからと言って目の前が真っ暗になる…なんてことはなかった。人生の中で恋愛が占める割合は私の場合それほど大きくないことを知っていたから。
だから翌々日に行われた葬儀で彼の遺影を前にしても胸中に去来したのは心に僅かな穴が空いた程度の喪失感。
私自身、この恋が実ることはないことを理解してたからこんなに冷めていたのかもしれないけれど…
葬儀の場ですすり泣きの声が聞こえてくる中で私はただぼんやりと彼の遺影を見つめてた。
……ただ。
最後になるくらいならあの時ご飯くらい一緒に食べてれば良かったなと思った。
彼の居なくなった美術室に熱意を無くして筆を折った。
それくらいには私も彼に恋してた……
*******************
高校1年、春。
「末木です。よろしく」
春から始まった新生活。私は友達に誘われるまま入部した美術部で彼と出会った。
私達より1学年上の彼は当時の私の目には随分大人に映った。神経質そうな容姿も、それでいて柔和な雰囲気も私には不思議な感じに見えた。
だからと言ってその瞬間恋に落ちるほど私も乙女でもなく、周りの同級生が「いいよねー」とか話してるのをただぼんやり聞いていた。
美術部に関心があったわけではないけれど、初めて取り組んだ課題を彼が褒めてくれた。
「君の絵はなんだか繊細でいいね」
今思えばなんて抽象的な褒め方だろう、なんて思うけど、並ぶ作品の中で彼はただ1つ、私の絵だけを褒めた。
お世辞ではないんだなって、何となく伝わった。
--高校1年、夏。
「お前って好きな人とか居る?」
「新入生入ってきてだいぶ経つけど、気になるやつとかいねーの?」
通りかかった男子トイレの前でそんな話し声を聞いた。青春してるなーなんて思いながらそのまま足を前に出した時--
「別に居ないけど…ただ、うん。葛城はいいなぁって…思う」
「いんじゃねーか」
「おうおう。末木にも春がようやく来たか」
思わず足を止めてた私がいた。
この時私は彼のことをなんとも思ってなかったけれど、全く恋愛に興味がないというほどつまらない高校生でもなかった。人並みに恋バナに聞き耳を立てる程度には関心があった。
ただ、それだけ。
だからと言って彼のことを意識することはなかった。
この瞬間は--
「告っちゃえよ」
同級生の男子と思われる声がそう茶化しているのを聞いた。それに答えた彼の言葉には少なからず衝撃を受けた。
「いや…俺は--」
身近に居る人のそんな衝撃的な一言に私は息が詰まった。自分のことでもないのに、怖くなった。
その時思った。
彼が他の人と比べてどこか浮いて見えるのは、違って見えるのはそんな事情があったからなのではないか…と。
--告白すると、私自身あの時彼に恋してたと今では結論付けられるけれど、その理由…つまり、どうして彼を好きになったのかとか彼とどうなりたかったのかとか、そんなものは分からない。
ただこの感情があの時の私には恋と呼べるものであるとははっきり言える。
でも…それもあの時はの話で、もしかしたらこれは恋ではなかったのかもしれないわけだ。
部室で彼の姿を目で追う。
話しかけられたら胸が踊る。
彼が居なくなった部室が冷たく感じる…
私の感じてたそれはあの時は恋だったけど、あの頃の自分の事もよく分かってない子供な私はそれを恋と勘違いして恋をしたと思ってただけなのかもしれない。
ただ、暗い影を差してた彼の背中が気になってただけなのかも…
好きという感情には色んな気持ちが混ざってるわけで、その一つひとつを紐解くのは難解すぎる。
--あの時、彼から告白されていたら、私はどうしたのだろう。
今になってもそのビジョンは見えてこない。
*******************
「…私が貰ってもいいんですか?」
「部活のみんなにと…あの子が最期に言っていましたから…」
葬儀の時、彼のお母さんから彼の遺品を受け取った。それは彼が使っていた筆だった。
「あの子は賑やかなのが好きでした。美術部のみんなと居れて楽しかったと…」
声を震わせてそう語るお母さんに私は筆を握りしめて応えることしか出来なかった。彼の遺品を通して、待ち受ける運命と闘いながら必死に生きた彼の姿が脳裏に浮かんだ。
この時、私は初めて彼の為に泣いた。
--大晦日に美術部のみんなと集まって彼の事を語らった。彼の体のことを知ってたのは仲の良い数人の友人だけだった。
肩を落としたみんなの姿を見てると彼がどれだけ慕われてたのかよく分かった。みんなの姿が、涙を滲ませるお母さんの顔が、彼が懸命に生きたことを物語ってた。
友人達だけで彼とのお別れをして、各々持ち寄った彼との思い出の品を神社の境内に埋めた。
毎年ここに集まろう、彼のことを忘れないように…
除夜の鐘が鳴り響く境内で私達は約束したのを覚えてる。
……結局、翌年にあの場所に集まった者が何人居たか…私を含め進路やらなんやらでなんだかんだと忘れていったんじゃないだろうか…
覚えていながらあの場に行くことのなかった私。どうしてと問われても、分からない。
私はあの場所に何を埋めただろうか…
彼との思い出は土に埋まったまま私の恋は終わった。
*******************
はたと思い出して棚やら引き出しやらをひっくり返してみたが、あの時貰った筆は出てこなかった。引越しの時に無くしたのかもしれないし、この家のどこかに埋まってるのかもしれないけど…
遠くの賑わいに耳を傾け、あの日々の事を思い返しても、あの時空いた心の穴は疼かない。
時間はゆっくりと私の喪失感を埋めて私を大人にしてくれた。
今では彼の顔も朧気にしか思い出せないけど、忘れる事ができたから私は前に進めたんだと思う。
…いや、どうかな。
過去の悲恋を昔話として捉えられる程度には大人になった私は私を自嘲して、こたつに潜る。
テレビの向こうで愛を叫んでたカップルも、今手を繋いで初詣に向かう若者達も、いつか各々の道を行くんだろうか?それともずっと同じ道を並んで歩くのだろうか?
どちらもいい。
みんなそれぞれの成り方で大人に成っていく…
大人になった私があの場所に二度と足を運ぶことのないように…




