お、お父さん……?
「……お前は」
「あんたは……」
私達の視線は自然と絡み合う。
こんな人の通らない通路での邂逅--そこに現れた男にはかつての私の面影があった。
……いや。
地獄の底で焼かれる鬼のようなやせ細り影のある風貌。病的ともとれる一見弱々しい面影に差す獣のような眼光--
この男こそ、抹殺対象『彼岸三途』だった。
この国のエージェント……00ナンバーを打ち破った脅威。
こんな場所にこのタイミングで現れたのはやはり偶然ではないのか。
私達は一言も交わすことなく、自然に、引き寄せられるように互いに歩を進める。
そして当たり前のことかのように握り拳を固めていた。
ふたつの影が重なり、私のサングラスからほんの一瞬強い日差しが遮断された。
交差した黒い影--
全く同時に繰り出されたふたつの拳は互いの肉を激しく打っていた。
*******************
--日本から旅立ち、強者を求めて海の向こうへ……
そう思い立った俺が訪れた空港で、複数の人が倒れている光景と出くわした……
その中でただ1人、その場に立つ赤いサングラスの男。
俺はこの時、自分の心臓が強く高鳴るのを確かに感じていた。
この男だと思ったんだ……
俺がずっと探していたのは……
目の前の非現実的な事態に俺の足は自然とその男に吸い寄せられるように前に出てた。男もまた俺の方へ寄ってきた。
磁石が吸い寄せられるように……靴底で踏んずけたガムが引っ付くように……
いや、長年探し求めた運命の相手と相対した時のようにか--
とにかく俺達は、どちらからでもなく歩みを進めていたんだ。
そして死んでいく2人の距離。
次の瞬間にはもう、お互いを求めるように拳が交差していた。
互いの存在を確かめるかのように……
--拳に伝わる硬い手応え。
--頬を走る衝撃。
俺は確信した。
この男こそ、海の向こうに俺が求めた男……
俺が、彼岸三途がもっともっと強くなる為に超えていかねばならない男……
傍から見たら、出会ったばかりの2人が突然近寄って互いを強く殴りつけるという、非常識な光景だ。
しかし俺達はお互い知っている。
これはなるべくしてなったことだと……俺達は求め合っていたと。
この男がどうして俺を求めるのかは分からないけど、男の拳から伝わる想いの重さに俺は疑問を持つことはなかった。
お互いの鉄拳に踏ん張り、俺達の視線が交差した。
あとはもうなるべくして、だ。
俺達は再び1歩を踏みしめて、刹那本気の一打を相手に向かって放っていた。
放り出した拳に伝わる感触と手応え。
鈍い音と共に弾ける俺達の顔面。交差する拳、行き交う蹴り……
地面に血飛沫を飛ばしながら打たれる俺は思い出す。
あの日の--佐伯達也との戦いを……
……攻防一体の見事な闘法。この男の格闘術は本物だっ!!命が刈り取られる……っ!
俺の一打を防ぎつつ、三打、四打をねじ込んでくる。恐ろしいスピードと流麗な切れ目のない攻め。
こんなに殴られたことはないってくらい顔が、体が何度も弾けた。
……つ、強い。
踏ん張る地面が割れて、猛打の振動が空港を揺らす。ガタガタと周りの建物が激しく縦揺れする。
そんな中で俺達は1歩も退かず互いの命に食らいついていた--
*******************
私は家族を愛していた--
あの日、定食屋に怪しげなサングラスの客が来て、私達の店にゴキブリを放って行ったんだ…
個人経営の飲食店、大して稼ぎもなかったさ。
そこに来てそんな嫌がらせを受けて、私達の店は瞬く間に信用を失った。
日々苦しくなる生活…借金まみれで首も回らなくなった頃、私は復讐を決意した。
あのふざけた客を探し出す為に私は世界中を渡り歩いた。なにせたった1回来ただけの客だ。奴を探し出すのは砂漠からコッペパンの欠片を見つけ出すような途方もない戦いだった。
奴の正体を掴む為家を飛び出し、国を飛び出し--
情報を求めて3年…気づいたらなんか諜報機関のエージェントになっていた私はようやくその男を見つけ出したのだ。
あの時の事はよく覚えている…
ふざけたグラサンは自分のしでかしたことを覚えてすらいなかった。
私はそんな男の気道に容赦なくパサパサのコッペパンを詰め込んだのだ--
コッペパン責めにしたふざけたグラサンからグラサンを奪い取り私が復讐を終えた頃、もう何もかもが手遅れだった…
家族を放ったらかしにグラサンを追いかける男を誰が家族と認めようか……
--私は全てを捨てた。いや、失ったのだ……
*******************
遠い過去の記憶が一打一打ぶつかるごとに蘇る。私の愚かさを、不出来な父親を責めるように息子の拳は固くぶつかってきた。
一打貰う事に意識が吹き飛ぶような衝撃。切れる意識の合間合間に輝いていたあの頃がフラッシュバックする。
三途……こんなに強い男になったのか……
お前はこんなに強くなるくらい、死線を潜ったのか……
失った過去の中で家族の幸せを願わなかった日はない。
だからこそこの一発は響く。
最愛の我が子がこんな世界で生きてきた。その現実が何よりも重く私を打ちのめす。
炸裂する本気の一打が交差した時、空間が歪み、火花が激しく散り、炸裂する。
私達は爆風の中で互いに吹っ飛びながらお互いをしっかり見据えていた。
「……ごふっ。つ、強いな……三途」
「……え?なぜ、俺の名前を……?」
「……三途、今まで、辛かったろう」
「……?」
分かっている……
私に父親の資格はない。あの日の復讐が、費やした年月が家族の為だったのかも今ではあやふやだ。
そう……私はエージェント0011。そして我が息子はこの国最強のエージェント……
もうあの頃には戻れないのだ。
ならばせめて……
「せめて、務めを果たそう」
私の本気の圧に三途も今までにないくらい強く足を踏ん張った。
男は拳で…などとはあえて言うまい。私は懐から伝家の宝刀を抜き放つ。
「……え?コッペパン?」
「ただのコッペパンではない。水分が飛んでカッチカチのパッサパサのコッペパンだ。頭が割れるぞ?」
コッペパンを警棒のように構えて改めて我が子と向かい合う……
終わらせよう……この悲しくも愛おしい親子の時を……
固く握った15年乾燥させたコッペパンが握力でポロポロとカスをこぼす。そのパンくずにすら意識を向ける三途には微塵の隙もない。
これ程研ぎ澄まされた闘気に自ら打ち込むのは自殺行為--
しかし私は行く。
むせかえるような熱気を孕む空気を裂いて、私が大きく前に出た。私が踏み出すか否かでもう動き始めていた三途が超前傾姿勢で突っ込む。
ライオン……いや、トリケラトプスと相対しているようなプレッシャーだ。
私は懐に踏み込むと同時にコッペパンを振り上げた。低い姿勢を保つ彼の頭頂部はしっかり私の視界のど真ん中にロックオンされている。
このまま振り下ろせば、この乾燥したコッペパンは三途の頭を打ち砕くだろう……
--おとうさん。
--あなた…
エージェント0011。
世界最高のエージェント。その任務に失敗は無い。それは自負であり、真実であり、私の全てなのだ。
そう、今の私にとってはそれだけが全て--
--全てを失った私を引っ張ったのは、遠くへ手放した過去だった。
「……っ!」
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
フラッシュバックした輝く笑顔に緩んだ打ち下ろしに被せるように三途の鉄拳が上へ加速した。
その猛打は容赦なく--容赦などあるはずもなく、私の顔面を砕いていた。
コッペパンとサングラス……
私の愚かさの象徴と共に--
*******************
宙を舞って地面に落ちた時俺を待っていたのは清々しいくらいの青空だった……
地を背に天を仰ぐなど敗者の行い…我が子に叩き伏せられた私は無様を晒して寝転がることしかできない。
結局越えられなかったと言うわけだ。『家族』というものを--
「……俺の勝ちです」
「そのようだな」
もはや嫌味にすら聞こえるそんな見たまんまの結果を口にする三途に私も肯定しか返せない。
敗者を見下ろす彼が膝を折り曲げて視線を低く、私を見つめてこんなことを尋ねた。
「あなた…どうして俺の名前を?」
やはりそうか…この子は私の事など、忘れてしまったんだな。
この質問にどう返したらいいか、正直迷った。
私に父親を名乗る資格などないし、彼にももう彼の生活があるだろう…
今更全てを失った男が戻ってきたとしても誰も喜ばない。
それでも舌を正直に踊らせたのは、私の弱さなのだろう……
「……実の息子の名前を忘れる父親なんていないさ」
「…………は?」
「まぁ、無理もない。あの頃お前はまだ--」
「えっと……?は?」
おいおい。いくらなんでもそんな反応は傷つくぞ?
雰囲気とか流れとかで大体察して「まさか……」ってなってもいいじゃないか。
雰囲気ぶち壊しだが、私は名乗る。このままだと私が変な奴みたいじゃないか。
「……私はお前の父親だよ。三途…ずっと昔に家を飛び出したバカ親父さ。お前は覚えてないかもしれないが--」
「……は?」
「……いや、だから……」
「は?」
泣いていいですか?
こんなに悲しくて寂しいのは会社が倒産した時とグラサンを情婦の前で外した時「意外とつぶらな瞳なのね」って言われた時以来だぞ。
「だから、私はお前の--」
「いや、親父居るんで。ちゃんと……」
………………
なるほど、これはこれで悲しい現実だ。
惚れた女がまだ心のどこかで私を待っている…なんて都合のいい展開はあるはずもないか。
そうだな……とっくに他の男と……
「いや、それはお母さんの再婚相手だろう?私がお前の本当の--」
「いや、ちゃんと俺の親父ですよ?」
……………………………………
「……君には真実を話してないだけかもしれんな。しかし--」
「いやしかしもへったくれもなくて、赤ちゃん時から一緒ですって。写真もあるし……」
…………………………………………
「……すまない、君のお母さんは定食屋をやって--」
「いや専業主婦です」
…………………………………………
「…………君のお母さんの名前は?」
「ミチルです。」
その時私に走った稲妻のような衝撃は言葉では表せないだろう。
こんなことってありますか?
私の今までの全てが……この激しい戦いの全ての価値が一瞬にして無に帰したぞ?
なんだと?
どういうことだ?
「……君、名前は?」
「彼岸三途」
「だ、だよな?私の息子も同じ名前なんだ……え?」
「……え?」
「え?」
「……あなた、自分の息子と殴りあってたつもりなんですか?どういう家庭環境ですか?殺す気でしたよね?」
「いやいやいや、男同士だからね?拳で語り合う必要もあるんじゃないだろうか?ところで息子じゃないなら、君……なんで私に襲いかかってきたんだい?」
「え?強そうだったから……」
……………………………………
「……君は……この国のエージェントなんだろう?」
「エ、エージェント?」
…………………………もういいや。全てがどうでもいい。
真実になんてなんの価値もない。この青空を見ろ。どこまでも広がっているじゃないか。
この青空の下で我々の関係性に一体どれだけの意味がある?なぁ?
親子?家族?なんだそれは?
この大空の下生まれた者はみな兄弟ではないか?
そうだろう?
「なぁ…そうだろう?なぁ!?」
「…………えぇ、こわ。なに?」
「そうだと言えよっ!!兄弟!!」
「……なんか、ごめんなさい……」
--私はその足で帰国した。
もう任務とかどーでも良くなった。
もうエージェントなんてやめよう。
こんな思いするのも全部仕事のせいだ。
そうだ……引退したらコッペパンの会社を創ろう。コッペパンを乾燥させる会社だ……
そしたらきっと……きっと…………
「うっ……ううっ、なんだったんだ……ううううっ……ううっ」
「ねぇ何あの人?なんで泣いてるの?」「それよりどうして割れたグラサンかけてんだろ?」




