閑話 知らずともいい話
ショコラとヌガーが去った後のパティスリーには、やはりと言われればビスキュイは機嫌を悪くすること請け合いとはいえ、ほとんど客がなかった。裏ギルドとして、依頼を受けにきたものはいたが、彼女はそれを客とは呼ばない。
一人、商人の小間使いがそそくさとやってくることこそあったが。「ご主人の娘さんが誕生日なんで」と言うだけ言って、応対したスフレが適当にお菓子を見繕ったのみ。
「まったく、いけすかないよ」
ビスキュイは、まるで何でもいいからとばかりに自分の菓子が売れていったのが、気に食わなかった。
彼女は既に閉めた店の中で、帳簿をつけている。夕焼けが窓から斜めに差し込み、普段はお客に使ってもらっているテーブルの上、彼女の手元にある帳面を橙色に切り分けていた。翌日の仕込みも既に終わって、奥の厨房で食器を洗うスフレの、穏やかな水音だけが支配する空間。
ビスキュイは鼻先にまでずり落ちてきた眼鏡をくいと戻し、肩を揉んだ。すっかりと錆びついてきた自分の身体に嫌気がさしつつも、ペンを動かす。紛うことなき赤字だ。
彼女は自慢のショーケースを見やる。お菓子は全てスフレが下げてしまい、うっすらと彼女の姿だけが映る。
お客が少ないのだから、あそこにいっぱいにお菓子を並べれば、それらが売れ残るのは自明だった。けれど、ビスキュイは並べてしまう。彼女は自分の産み出した菓子を、目をキラキラとさせて選んでもらえることにこそ、喜びを感じていたから。
そも、パティスリーの実態は貴族が運営する裏ギルドであるからして。利益を考えずとも、雑に与えられる予算がそれを賄ってくれる。
「まぁ、そうも言ってられないけどね」
ビスキュイはため息を溢し、ぱたんと帳簿を閉じた。帳簿を閉じた自分の手の、ハリを失って久しい肌を見れば、彼女はどうしても自分の死後を考えてしまう。
ビスキュイの死後とはつまり、スフレの将来に等しい。
ビスキュイはスフレにこの店を継がせるつもりはなかった。だから、この店の裏があることは隠さずとも、それが何かは伝えていない。元素魔法を使えないスフレに裏ギルドを束ねることはできないし、なにより、ビスキュイがそれを望まない。
とすればだ。ビスキュイはスフレを、立派なパティシエにしてやらねばいけなかった。
そうして、ビスキュイがスフレをどう育てていくかを考えるのは毎日のことで、今日も今日とて頬杖をつき、夕日を睨みつける。
赤字前提の経営方針を、スフレが正しいと信じ込んでしまっても困るけれど。自分の菓子には、それに相応しい値段でもって、多くの人の目に触れてほしい。
いやしかし、拾ったからにはスフレをちゃあんと育ててやらなきゃいけないし。
アタシもそろそろ、パティシエールとして経営を考えるべきなのか。
「……あの、お義母さん?」
そうして、責任感と主義の狭間で葛藤するビスキュイに声がかかった。
空っぽの店内を浸していた水音は既にない。彼女が振り返ると、そこにはエプロンで手を拭き拭きやってくるスフレがいる。
ビスキュイは、いつの間にか眉間に寄っていたシワを指先で揉み解しつつ。
「お前というのは……。アタシはお義母さんじゃないと、何度言わせるんだい」
「いいえ。お義母さんは、お義母さんですから」
「ったく、図太さだけは一人前だね」
スフレの微笑む顔は、世の婦女子のみならず、道行く荒くれ者すら目を奪われるだろう。忌々しげに吐き捨てるビスキュイも、その笑顔の純粋さ、心から彼女を慕う少年の心を、感じていないわけじゃない。
ただ、それを真正面から受け止めるには、長い年月をかけてひねてしまっただけだ。ビスキュイはそれを自覚しているだけに、なおこの養子が憎らしい。
生真面目にどの洗剤がなくなっただのの報告をするスフレを聞き流し、ビスキュイはため息混じりに言う。
「いつも言ってるけどね。別に終わったなら終わったで、報告しなくていいんだよ。お前は手を抜いて掃除をできるほど、器用な子じゃないだろう?」
「いえ、それはダメです」
「アタシがいいって言ってるんだ、ダメなわけないだろう」
流石に苛立ちが募って、彼女はスフレをじろりと睨みつける。
アタシの気遣いを無碍にするのかい。そんな視線に対して、彼は違いますよと首を振った。
「信頼は嬉しいのですけれど、それでも僕は見習いですから。報告はちゃんとさせていただきます」
「都合の良い時だけしかそう言わないだろう、お前は」
鼻で笑い飛ばしたビスキュイは、喉の調子を慣らすように一つ、咳払いをして。
「それにね、見習いは、師匠を『お義母さん』なんて呼ばないんだよ」
まだ声変わりをしていないスフレの、少年合唱団におけるソプラノじみた声を真似した揶揄だ。ビスキュイは、それ、どうするといった心地でスフレを見やるが。
「それは、それです」
手振りとともに、脇に置かれてしまった。神の寵愛を受けたに違いない笑顔は崩れない。
するとどうだろう。ビスキュイは、声の掠れた自分の声真似の方が、よっぽど恥ずかしくなってきたりする。
「ならまぁ、好きにするといいさ」
結局ビスキュイは、今日もスフレを打ち崩せなかったのだ。
彼女はかけていたメガネを外し、帳簿の上において、文字通りに重く感じるようになってしまった腰を上げる。よっこいせと声が出た。
そうしてスフレの前にビスキュイが立つと、頭ひとつ分では足りない身長差。
まぁ、そろそろ成長期だし、すぐに抜かされちまうんだろうね。
ビスキュイは少年の頭を抑えつけるように、乱暴に撫でた。流れるようなその銀髪が、彼女の掌をくすぐり返す。
「さ、明日も早いんだ。さっさと二階に上がったらどうだい。たしか、店で使った牛乳が余っていたから、今日はシチューを作ってやるよ」
「ほんとですかっ!」
スフレはその言葉を聞くなり、顔を輝かせた。こういう時ばかりは彼も、美しいのではなく愛らしい。
ビスキュイの手からはするっと逃れて、厨房へ小走りに消えていく。ガランという音を聞いて、あの子は牛乳の缶を上に運んでくれようとしているのだと、ビスキュイは苦笑いした。
「お義母さんと呼ぶのなら、少しは甘えたらいいのにねぇ」
そして、厨房の方へ声をかけつつ、自分も手伝おうとそちらへ向かう。十二歳のスフレと同じくらいの背丈がある牛乳缶は、いくら事象魔法があるとはいえ、体格的に難しい部分があるのだ。
まさか、口を下に傾けるわけにもいかないので、上をビスキュイが、下をスフレが支え、えっちらおっちらと階段を登る。
「えっと、お義母さん?」
「なんだい?」
容積から見ればもうだいぶ中身の少ない牛乳缶に反響した、どこか間抜けな声に、ビスキュイは答える。なにか、絞り出したような声だった。
「その、生地もまだろくに焼けない僕がお願いするのもどうかと思うんですけれど……」
「煮え切らないね。いつもみたいにすぱっと言ってみたらいいだろう」
彼女は苛立った口調を見せつつも、好奇心たっぷりに急かした。スフレがこんなにももじもじとしているのは、ビスキュイにとって真新しい。
「チョコレートの作り方、教えてくれませんか……?」
「チョコレート? ありゃあ、まだバンホーテン卿の作った元素魔法式の焙煎圧搾機が欠かせないから、お前には無理だね」
「その、じゃあ、チョコレート菓子とか……」
すげなくビスキュイが切って捨てたものの、スフレはいまだに食い下がる。
ビスキュイははて、と首を捻った。スフレはそんなにもチョコレートが好きだったろうか。彼女の店に、件の焙煎圧搾機は存在するが、あまり使ってはいない。菓子の類は全てビスキュイから与えられているスフレは、必然的にチョコレートを食べる機会は少ないのだ。
それこそ、昔ショコラにねだられて、彼女自身も最新の菓子を開拓したいと張り切っていた頃くらいしか……
「ははぁ、そういうことかい」
「……」
ビスキュイがニヤリと笑う。牛乳缶が邪魔をして、スフレの顔を伺うことはできないが、きっとリンゴか何かのように赤くなっているのだろうと、彼女は想像する。
「ショコラにあげたいんだね」
「…………はい」
長い沈黙を空けて、スフレは返事をした。たった一つの階を上るだけの階段がそう続くわけもなく。牛乳缶が下されてしまったことで、やはり真っ赤な顔を見られてしまったから渋々と、そういった感じだ。
スフレは俯き加減に続ける。
「その、僕はいつもお義母さんのをお出しするだけですから。その、お、お友達になるのなら、僕のお菓子も食べてもらいたいなぁ……と」
「くっくっ。まるで乙女じゃないか」
「はい……」
「はい? はいってお前」
こんな時まで真面目腐って返事をする少年に、ビスキュイは今度こそおかしくてたまらない。目に涙を滲ませて笑いを噛み殺す。
ひたすら居心地悪そうにするスフレに口先で謝るも、しばらく笑いの波は引かず。二階の手前にある、厨房と比べれば手狭な調理場に牛乳缶を運び終えてようやく、ビスキュイは呼吸を整えた。
「いやぁ、いいんじゃないかい? チョコレートなら、ショコラも喜ぶだろうよ。なんせ、あの子の大好きな父親と同じ名前の、あの子の大好きな甘いお菓子なんだから」
「えぇ、そう思って」
「なんていうか、そう、いじましいね。面白そうだから教えてやろうじゃないか。アタシも手伝ってやる」
すっかり固まってしまったスフレを、ビスキュイは小突きながら言う。えへへとはにかむ少年を、それこそビスキュイは息子のように思った。
彼女は頭の中でカカオ豆の仕入れや、焙煎圧搾機の整備など、準備してやることを考えつつ、はたと気づいた。
そういえば最近、ショコラにチョコレートをねだられることがない。
以前、ビスキュイはショコラに、元素魔法の相談をされたことがある。お父さんのようにうまく魔法を使えないのだと。
その時ビスキュイはこう教えたのだ。名前に魔法をつけたらいい。お前の好きなものの名前を。魔法名っていうのは、発動イメージの言語化だから、好きなものの名前をつけるほど、発動が容易になるはずさ。
すると彼女は悩む間も無く答えたのだ。
じゃあ、チョコレートの名前をつけてみるわ。
だのに、そのチョコレートを作ってくれと彼女に頼られないのは、幼い頃からショコラを知るビスキュイには悲しかった。
もし万が一にも、彼女がチョコレートを嫌いになっていなければいいと思う。
「ま、チョコレィトの方は、嫌いになっているかもしれないね」
「お義母さん、何か言いました?」
「いやね。お前は知らずともいい話さ」