第六話 一人の農夫
粗末な馬車は、石畳の僅かな継ぎ目にさえ、ぎぃとその身を軋ませる。
王都のぐるりを囲む城壁。その第九時針塔の前の大通りを、その馬車は行く。魔法研究都市であるここにおいて、物の出入りの『出』は少ないものだから、長閑な朝の空気。まばらに窓や戸を開き、動き始める街の様子を尻目に、手綱を握る農夫はあくびを噛み殺す。
そして、おもむろに背後に声を投げた。
「お客さんがたぁ。もうすぐ門ですから、通行証は身につけといてくださいよ」
「えぇ、もちろんよ!」
「あぁ、それはなによりで」
その、予想外に元気な返事に農夫は微笑ましく思った。
「ショコラ、急に大きな声を出すんじゃない。いつも自分はお子様じゃないというのはお前だろう? おしとやかにしてくれないか」
ヌガーは、不満げだった。
裏ギルド『パティスリー』で依頼を受けたショコラとヌガーは、ヌガーが情報を収集する一日を置いて、早速移動を開始した。
貴族の後ろ暗い部分をもみ消す裏の存在として、彼らはそう目立つわけにもいかないし、何より個人で馬車を借りるのはお金がかかる。だから彼らは、王都に作物を売りに来た農夫の、寂しくなった帰りの荷台に乗せてもらっていた。
その半分は空になった木箱に占拠されているし、ロープで固定されているとはいえ、石畳のそれらと相乗りするのは落ち着かなくもあったが。彼らももう慣れたものだ。
「もう歳だから朝は弱いんだ」だのなんだのと嘯いて、木箱にもたれて寝に入るヌガーは放っておいて、ショコラは脇に置いた雑嚢から布の包みを取り出し、開く。クロワッサンだ。
「うん、いい香り」
来る途中、朝市で買い付けたそれは丁寧に卵液が塗られており。朝日にてらてらと光沢を返す。触れただけでかさりと鳴るそれを口元に運び、その香ばしさを存分に吸い込むショコラだ。
彼女がかじりつくと、小気味良い音。対照的に柔らかな白パンの感触。
「ん〜♪」
ショコラが幸せそうにサクサクと食べ進めているうち、馬車は時針塔を越えて王都の外へと出ている。五つの元素魔球による結界は掌に収まるほどの通行証を持たぬ生物全てに等しく魔法を振りかからせるから。検問だとかそういうものは殆どなくて、門の脇に立つ衛兵はショコラの朝食を羨ましそうに見ていたくらいだ。
よく整備された王都近郊には、大したものはない。森林も、木が発する魔力によって魔獣が発生しやすいからと切り倒されてしまった。だだっ広い草原と、ならされた馬車道。
人の生活臭を感じない風を、ショコラは気持ちよさそうに受けるが、やはり退屈な風景であることに変わりはない。指に残ったクロワッサンのかすを、名残惜しそうにぺろりと舐める。
「ねぇ、えっと、おじさん」
ショコラが木箱の裏の御者台へ声を掛けた。すると、ややあって農夫が答える。
「ん? あぁ、私のことですか? なんでしょう、お嬢さん」
「おじさんの村ってどんなところなの?」
「私の村ですか? そんなもん、聞いても面白くないですけどねぇ」
農夫の声には疲れが滲んでいて、どこか僻んでいるようにもショコラには聞こえた。裏付けるように、言葉が続く。
「お嬢さんみたいな王都付きの冒険者の方には聞かせるのも恥ずかしい。そんなに小さいのに、立派なことです」
「わたし別に小さくないわよ……じゃなくて、わたしなんて、このヌガーに助けてもらっているだけよ」
反射的に出た言葉を取り下げて、ショコラは謙遜をする。
裏ギルドが貴族の後ろ暗い部分をもみ消す暗殺稼業なら、表ギルドは魔獣狩りで生計を立てる者たちだ。特に、王都付きの冒険者は貴族御用達の素材ハンターとしての側面が強く、懐も温かい。
ショコラの可憐なドレスを見て、表向きとして渡されている冒険者としての通行証を見ていれば、農夫の反応は当たり前と言える。
「わたし、西の方はあまり行ったことがないからよくわからなくて。不安なのよ」
「私の村の周りには、なぁんもないですよ。それこそ、魔獣だらけの白森くらい」
「忘れたの? わたし、そこに行くのよ」
「聞けば聞くほど信じられませんなぁ。それこそ、私の娘と同じくらいなのに」
ただ、農夫は僻みきってひねくれてしまうわけでもなかった。ショコラは農夫の口振りに、オタオタとしている時の父を思い出す。
思い出して、ちょっと不機嫌になった。
「大丈夫よ。わたしだってもう一人前なんだがっ――」
ちょうど、馬車の車輪が石を踏んだ。
がくんと揺れた拍子に舌を噛んだショコラは声にならない声を上げながら口を押さえ、足をバタバタさせる。
「もしかして、舌を噛みました? 大丈夫ですか?」
「らいじょぶよっ!」
笑い混じりに心配してくる農夫にショコラは吠えた。そして、きゅっと体を縮こまらせながら痛みに耐えるショコラだったが、そこであることに気づく。
「……ほんと、せいかくわるいわねっ」
「すまないショコラ。一人前にしては舌ったらずで、よく聞き取れない」
いつの間にか目を覚ましていたヌガーが、ニヤニヤと彼女の様子を眺めていた。
◇◆◇
五色の光を従えた王都も、もう山や森の向こうに消えてしまった。
彼らは途中、川辺で休憩を取りつつも、着実に目的地に近づいていた。まさか、空箱しか積んでいない馬車に襲い掛かる追い剥ぎがあるはずもなく。一晩の夜営――ヌガーの作った即席のシチューが、農夫には好評だったりした――を挟みつつ、目的の農村に近づいてきた。
「お天道様が登り切る頃には、着くんじゃないですかね」
鍋に残っていたシチューに朝食の黒パンを浸しながら、農夫は二人にそう告げていた。自分の村になんて何もないと言っていた彼だが、当然家に帰れるのは嬉しいのだ。その表情は朗らかだった。
しかし、今の彼の面持ちは異なる。
「頼みますからね? 私はほんと、一目散に逃げますから」
「お前さん、たしかにこんな空っぽな馬車より自分の命の方が大切だろう。だけども、お前さんが全力で走っちまったら、ここの足の短いお嬢さんがついていけないから、勘弁してくれ」
「シンプルに、逃げられるとむしろ守れないって言いなさいよ! なんで貴方、わたしをバカにしないと気が済まないのよ!」
地団太を踏むショコラに、「馬車、壊さないでくださいね」と言う声も元気がない。
彼らの馬車は今、白い木々の立ち並ぶ中を進んでいた。高く葉を広げる広葉樹林は日光を遮り、薄暗い。馬の蹄鉄のリズムだけが木霊する不気味な静けさ。
白森。
磨かれた骨のように不気味な白さ。建材としては貴族に人気の高いブーロゥだが、同時にそのうちに溜め込む魔力を魔獣も好む。
荷台から足を投げ出して寝転ぶヌガーが、ふと思い出したという調子で言う。
「噂には聞いていたが、あぁ、噂通りだな。魔獣に殺された人々の骨が並び立っているというのは、言い得て妙だろう」
「ちょっと! 怖いこと言わないで!」
「そうですよ……」
またの名を、遺骨立ち並ぶ墓所。
白森沿いのこの道は、彼らの道程の中でもっとも魔獣被害の多い場所だ。農夫が冗談を言う余裕もないのに無理はない。
もっとも、寒気がしたとばかりに腕をさするショコラの怖がり方は、友人と談笑する中で怪談を聞いた時のそれだったが。
「なぁに、お前さんが怖がることもない。俺たちが安い駄賃で乗り合わせているのは、こういう時のためだろう?」
「それでも、不安になっちまうのが弱っちい貧乏人なんですよ」
「あら、そんなに頼りないかしら」
「まぁ少なくとも、頼りがいはないだろうな」
「あのぅ、少しは静かにしてくれませんかね。気が気でなりませんよ」
魔獣が溢れないようにと、定期的に白森に入っていく冒険者たちは、一年でその一割が死んでしまう。
その話を聞いていた農夫は、だのに能天気な二人を見て、自分が選択を誤ったのではないかと思い始めていた。
ヌガーとしては、そう気を張り詰められていても自分が落ち着かないからと話をしていただけなのだが。風に葉の擦れる音にすら肩を震わせ始めた農夫に、流石に気の毒になった。ショコラもそれに倣う。
「それで、実際大丈夫なんだろう?」
ヌガーは声を低めて、隣のショコラに問いかけた。
「えぇ、もちろん。魔獣だってバカじゃないわ。元素魔法使いであるわたしのことを感じ取ってる。何度か見かけたけど、多分、道を外れなければ大丈夫よ」
ショコラは自信満々にそう語る。
魔獣というのは、魔力を糧とする分魔力に敏感な生き物だ。その魔力に対する嗅覚があるから、彼らは元素魔法を扱える人間かどうかを容易に見分けられると言われていた。
いかに獣といえど、狩るのならば楽な獲物を選びたいだろう。強い元素魔法使いはそのテリトリーを荒らさない限り、襲われることは少ないと考えられている。
そしてそれは、ショコラの経験則により証明されていた。
つまり、ショコラのいるこの馬車は、よほどのことがなければ襲われない。
二人の余裕は、そうしたものから来るのだが。
裏を返せばそれは、彼らの馬車以外は襲われうるということだ。
それはちょうど、木々の間に伸びる道が緩くカーブを描いた時。
「うわぁぁぁぁっ!」
悲鳴。
先の見えない、曲がりくねった道の先から届くその声に、農夫は反射的に手綱を引く。馬が嘶き、馬車はその場に停止した。
「どうしたの?!」
荷台にいるために前の見えていないショコラが飛び降りる。農夫に駆け寄っていく彼女の後を追って、よっこらせとヌガーが続く。
「ありゃあ、多分、村のもんの声です」
震える声で農夫は言う。あいつも、別の場所に作物を卸しに言っていたはずだと。
わぁわぁと騒ぐ声が聞こえた。きっとこの道の先で、護衛に雇われていた冒険者が戦闘を始めているのだろう。
「取り敢えず、止まったのは正解よ。心配でしょうけど、しばらく待ちましょう」
「はい……」
ショコラは簡潔に指示を出す。農夫は自分より年下の娘の言葉に、素直に従った。
「どうするショコラ。まさか農夫が道無き道を進んでいるわけがない。このまま行けば、俺たちも巻き込まれるかもしれない」
「そうね……」
遅れてやってきたヌガーの言葉に、ショコラは考えるまでもなく答える。
「他の冒険者の仕事に首を突っ込むのは、その、色々と面倒だわ。だから、魔獣たちの狩りを邪魔してこちらまで狙われないよう、ここに待機していたいけれど……」
そこまで述べて、彼女はチラリと農夫の様子を見た。ヌガーも、面倒くさそうに頷きを返す。
農夫は青い顔で、木々の奥に見えないものを見ようとしているようだ。きっとその先から聞こえた声は、彼の友人が何かの声だったのだろう。たとえ、向こうにも護衛が当然いるからと、気が気でないのは二人にも理解できた。
ここにまで届く、獣の咆哮。
「なぁ、お前さん」
ヌガーはため息とともに、御者台の農夫に歩み寄る。
「俺とショコラが受けた依頼は、あくまでお前さんの護衛だ。この馬車さえ守り抜けば、俺たちはあんたからお金をもらえる契約だ」
「え、あぁ……」
農夫は生返事を返す。周りくどい彼の言葉を、噛み砕けずにいた。
「だから俺たちは、別に助けに行こうなんてさらさら思っちゃいない。正義の英雄様を気取る年頃はとっくに終わったからだ」
淡々とヌガーが告げる言葉に、段々と農夫の表情が硬くなる。おそらく、断腸の決断をしようとしているのだと、ヌガーは察した。
察して、自分ではわかる程度に声のトーンを上げる。
「だがその上で、俺たちはこうも思う。お前さんのご機嫌を取っておかないと、もしかして報酬を貰うどころじゃないんじゃあないかと」
「えっと、つまり……?」
「――あぁ、もう! じれったい!」
しかし、あくまで自分でわかる程度。
いつもと変わらぬヌガーの調子に苛立ったショコラが、ヌガーを蹴飛ばした。よろめいていくヌガーに「ほんとダメね!」と吐き捨てつつ、ショコラは御者台の脇に立つ。
見上げるには首が痛かったのか、少し背伸びした。
「心配なんだったら、助けに行ってあげるわ。だから、あなたが決めなさい」
「……頼んで、いいんですか」
「別にいいのよ。もしかしたら、こっちにも来るかもしれないのだし」
ただし。ショコラが試すように覗き込む。
「あなたにも、来てもらうけれどね」
その言葉の、幼さとはかけ離れた迫力に、農夫はごくりと唾を飲む。迷うように彷徨った瞳が、行先を見て、そして定まった。
彼は真っ直ぐにショコラを見つめ返す。
「お願いします。私だって、馬を早く走らせるくらい、やって見せます」
「えぇ、えぇ! なら、すぐ行きましょ!」
無理に笑ってみせる農夫に、ショコラは大きく頷きを返した。やれやれと首を振るヌガーをそのまま荷台に押し込んで、ショコラも乗り込む。
森にピシャリと手綱の音が響き、馬車はままなく走り出す。
行手に天を焦がす火柱が上がったのは、その時だった。