第四十三話 無能
ショコラが時針塔の中へと走って行って、ジェラートには予想外なことが一つあった。クリオロたちが、彼女を追おうとしなかったことだ。彼らはショコラが塔の中へと入ったのを確認すると、すぐさま標的気をジェラートへと変えた。
「なんだ。もとからショコラちゃんだけは入れるつもりだったのなら、最初からそう言えってんですよ」
「……」
「今日は一段と無口なんですね。腹立たしい」
ジェラートの軽口を無視して布陣するクリオロは、いまだ気持ち悪いくらいにいて、そのうえでなお、地面から湧き上がってくる。石畳の隙間から土が逆流するようにしみだして、骨格を、臓物を、皮膚を形成する。それはまるで、亡者の蠢く地獄か、造物主が人をこねる箱庭か。どちらにせよ、気分のいい光景ではなかった。
ここからがクリオロの本領発揮と、そういうわけだろう。
ジェラートは掌に炎を灯してみる。彼女の魔力が生む純粋な炎が、ぼぼっと不安定に揺れた。ショコラへの最後の餞別に、少し張り切りすぎたかもしれなかった。この土人形どもを等しく溶融させる高熱を放つには、レオン・デ・フラーメを再び放つには、少し魔力を休める必要がある。
「ま、ちょうどいいでしょう」
ジェラートは思考を打ち切って仕込み剣を振った。
目の前には正気を疑うような、同じ顔をした軍勢。裸体をさらす個体は攻撃の一つも恐れずに組み付いてくるのだろうし、そればかり相手にしていれば、最初に布陣していた衛兵が隙間から槍をつきこんでくるだろう。それが絶え間なく、無限に続く。
別に、すべて斬り捨ててしまえばいいのだろう。
戦闘用に効率化を図られた仕込み剣は、わずかな風の魔力でも、ごう、と切れ味を主張する。
「あなたにも百や二百の恨みがありますから。同じだけ斬れば、少しは気も晴れるってもんですよ」
その時、街の外れで季節外れの花火が上がったのが目に映る。どうも、ジェラートは暴れまわるのを期待されているらしい。
◇◆◇
生きるために食べるべきであり、食べるために生きるべきではない。
そんな言葉を、ヌガーは聞いたことがあった。誰が言っていたのか、はたまた、作劇のセリフだったか、彼は判然と覚えていないが。ヌガー自身の言葉ではないことは確かだった。
絶対に言ってはならない。「泉よ。お前の水を飲まないぞ」とは。
なぜならヌガーは、こんな言葉を知っているからだ。
あの高名な英雄が、酔った勢いで「泉よ。お前の水をのまないぞ」と叫んだところ、その泉の水を飲めなくなって死んでしまったように。食べるために生きるのではないと言ってしまえば、ヌガーはすぐに生きることができなくなって死んでしまうのだろう。
ヌガーの口はもはや、自分が生きるために回るものでなく、死んだアイツと、その娘のために回っているのだから。
だが結局。その言葉すら、ヌガーの言葉ではないのだ。
ヌガーの操る言葉はヌガーだけの言葉でなく、その言葉は人を煙に巻くことをできても、例えば泥水で犬を作ったり、例えば火のないところに火事を起こしたり、例えば人を殺したりできるものではない。
それはそうだ。元素魔法というトンデモのはびこるこの世界で、それが自分の立ち位置であると。
「俺は、そう思っていたはずなんだがなぁ」
葉巻から口を放す。吸い慣れ過ぎて、味も忘れた煙を吐く。
時針塔前広場に面する、空き家の一つだ。一日に五回通過する元素魔球が通過する時針塔前広場は、一日に最低誤解の悪天候にさらされるから。景観のために作られた住居に住むものは少なく、浮浪者が住み着くか、空き家として放置されるかのどちらかだ、そのうちの一軒の二階にヌガーはいる。
開け放たれた窓からは時針塔が見えていて、この家を見つける少し前、ひときわ大きな閃光があった。ショコラはもう塔に入れたのだろうか。ヌガーには知るすべもないけれど。
「なぁ、どう思う? クリオロ。いや、トリニタリオ・クレーメとでも呼ぼうか」
「……なぜ、ここがわかった」
「つれないな。男は振られた女に執着するというが、お前さんは自分を捨てた家に執着しないらしい。そうきっぱりと捨てられるほど、五大老の名前というのは安い名前ではないと思うがね」
「質問に答えろ」
窓の前には椅子が一つ置かれていて、一人の男が座っている。
ヌガーがクリオロと呼んだその男は、ヌガーから見ても、およそ『クリオロ』の特長には似合わない。顔まで黒い布で覆い、目元も黒い前髪に隠されて、その隙間から覗く瞳だけがようやく黄色い、真っ黒な暗殺者としての『クリオロ』とは程遠い。椅子の背もたれからは、年老いた白髪の後頭部だけがのぞいている。
ただ、そのしわがれた声の無愛想だけは似通っている。
部屋には、その老人が一人いるだけだった。
土の元素魔球が通り過ぎた際の砂埃があちこちの隅に吹き溜まり、見てくれを整えるように置かれた最低限の木製の衣装だなや寝具は、水の元素魔球がもたらす湿気に変色し、腐っている。
ネズミが、部屋の戸口に立つヌガーの足元から外へ逃げていく。あらゆる風化を記録した、古い匂いのする部屋。
ヌガーはまた葉巻を吸い、煙を吐いた。
「俺は話をしに来たんだ。なにせ、俺にはお前さんと違って大した魔法も使えないからな。こうして言葉を使うことと、葉巻を吹かすことくらいしか能がないんだ。警戒することもないだろうに、もう少し話してくれたっていいだろう」
「質問に答えろ」
「なるほど。言葉は銀、沈黙は金というやつか。俺に最も似合わない言葉だな」
ヌガーは一歩足を踏み出した。埃が大きく舞い起こって、元素魔球の赤い光に照らし出される。
「何のことはない。魔法は、あくまで自分の視界内でなければ発動できないだろう。だから、時針塔を戦場に指定してやれば、お前さんは時針塔広場周囲の民家のどこかに潜むだろうと、そう考えただけだ」
「それだけか?」
「あぁ、そうだ。だから、わざわざ足で探したんだ。労ってくれてもいい。俺は普段、頼まれたって薪を割らない男で通っている」
もう一歩。この一歩一歩が、すべてを決める。木で骨を組み、漆喰で固め、石を敷いたこの床が抜けるとも思えないが、部屋の空気となれない緊張がヌガーの足を慎重にさせていた。似合わないと自嘲するヌガーに。
「一人でか?」
老人の言葉は、まるで玉座に座る王が下賜する言葉のようだった。それくらい、ヌガーには遠く聞こえた。
「連れがいるように見えるか? あぁ、勘違いしないでくれ。今の『いる』は、この場に存在するか、
という意味でなく、必要かどうかという意味の『いる』だ」
「どういう意味だ」
「お前さん、もしかしてだが、自分の本名というやつが王城の門にでも張り付けてあると思ってるんじゃないか。お前さんの本名を知っている俺が、お前さんの正体というのを調べつくしていないと、本気で思っているのか?」
「……」
ヌガーは自分のスーツの裏に手を潜らせる。ひんやりとした金属の感触。もうすぐ、彼の武器が老人ののど元に届くはずだ。
「お前さんはトリニタリオ・クレーメ。生まれつき病弱で、立てば貧血座れば眩暈、歩く姿は夏の雪とまで笑われた男だろう。そんな男に家を継がせるわけもなく、クレーメ家はお前さんに金だけ与えて隠居を強いた」
老人に近づき、窓にも近くなり、広場の様子がようやく見える。人の波にもみくちゃにされながら、それでも踊るようにクリオロを斬り伏せていくジェラートがいる。しか
し、それで手一杯だろう。
「ジェラートからお前さんの話を聞いて不思議だったのは、発声ができるほどに体内まで精密に再現された土人形を作れる、そんな稀代の元素魔法使いが、なぜ人形しか作らないのか。その一点だった。あのジェラートという、脳みその代わりに胸を大きくしたような女でさえ、迷彩から獅子の曲芸まで器用にこなすのに。お前さんは、せいぜい土の壁を作ったりするくらい」
今日は、今までになく口が回る。
これならば、自分にも役割があるかもしれないと、ヌガーは思う。
「それでわかったんだ。お前さん、自分を作る魔法しか、ろくな魔法が使えないんだろう」
俺にも、ろくな魔法なんて使えないが。
「自分を作る魔法だけを研究する男なんて、それこそナルシストか、自分の肉体にコンプレックスのある男だ」
きっと今日くらいはできるのだろう。
魔法のようにこの男を騙すことが。あの珍しく傷ついた老女の代わりに。人を助けると大っぴらに言う、あの恥ずかしい少女の代わりに。
「そしたら、ちょうどいるじゃないか。土の元素魔法の名門で。自分の肉体にコンプレックスを持ち。隠居しているから、裏の活動にいそしみたいだけいそしめる。あからさまな男が」
そして、こんなしょうもない俺を信じてくれる、あの子の代わりに。
「しかし、笑えるじゃないか」
老人の頭が目の前にある。縊ろうと、喉元をかき切ろうと、あらゆる殺人の成立する間合いで。
「人の手なしに、魔法だけで王都を建築したことで名をはせたクレーメの男が、人しか作れないというのは」
「黙れ」
そこで初めて老人が振り返り。黄色い瞳にヌガーを映した。
物音。
衣装棚の扉が蹴破られる音。
ヌガーが振り返るのは間に合わない。スーツの裏に潜ませた手を抜く前に、クリオロの土人形が横合いからヌガーを押し倒した。彼は何とか押しのけようともがくが、息をする間に新たなクリオロが作られている。
「所詮、口だけの男だな」
咳をしながら立ち上がる老人。立ち上がるだけでも辛そうで、椅子の背を支えにする彼の手は骨と皮ばかりだ。まるで死神だなとヌガーは思った。思ったら、脇腹にナイフが突き立っていた。
「……」
やはり、慣れないことはするものじゃなかった。ヌガーは久しぶりに痛みというものを覚えて、悲鳴も出すことができなかった。
それでも何とか、抵抗だけはしようとしていたのだが、脇腹に刺さったナイフが引き抜かれ、もう一度突き立てられると、どうしようもなかった。力が抜けた瞬間に数の暴力に捕らえられて、もがこうとするたび傷口を殴られ、顔を殴られ。ヌガーは汚い床へ大の字に押さえつけられる。
自分の身体から流れ出していく血液を感じながら、ヌガーは視線を上げる。老人が見下ろしていた。
「何か、最後に言って見せるか?」
どうせ、口だけではどうにもならないぞと言われていた。
朦朧とする頭を言葉が巡る。チョコレィトへの恨み言、ビスキュイへの嫌味、スフレへのからかい、ショコラへの……
いや、今言うべきはどれでもない。
今言うべきはただ一つ。
「かかったな、バカめ」
◇◆◇
時が来た。
ジェラートは直感する。今、クリオロは自分を見ていない。
大ぶりな攻撃をするクリオロがいれば、その陰から次の攻撃を伺うクリオロがいて。左右から挟撃するときには、必ず背後に伏兵がいて。そんな緻密な連携のない一斉攻撃。明らかなその場しのぎ。
「もし、俺が間に合わなかったら。代わりに俺は、クリオロがお前さんを見ていない一瞬を作ろう」
そういったヌガーの顔を思い加速した
「あの人は、何するかわかりませんからね」
合図も受け取った。魔力も、多少は回復した。あのムカつく男が無茶をしているならば、私が無茶をしても罰は当たらないはずだから。
チョコレィトに、彼女は祈る。
「燃え盛れ、我が夢の化身よ!」
その祈りに、炎獅子の咆哮が答えた。
すでに一度燃え尽きた、瀕死の獅子ではあったが。それは確かに、獣の王者の咆哮だ。
吹きすさぶ熱風が、ジェラートを取り囲んでいたクリオロたちを吹き飛ばし。彼女への攻撃の手が止まる。
ジェラートは、その間隙を駆け抜ける。
目指すべき場所は合図で知っている。
風の元素魔法が、彼女の背を押している。
ならば間に合わない道理はない。
目的の民家にたどり着き、垂直に跳躍。開放されていた二階の窓から、風の元素魔法で鋭角的に加速したジェラートは突入し。
「クリオロォ!」
その仕込み剣で、老人を斬りつけた。彼は木っ端のように吹き飛んで、壁に叩きつけられた。
◇◆◇
ジェラートが老人を斬り飛ばした途端、クリオロの土人形たちは砂に還った。そうなれば、クリオロたちに組み伏せられていたヌガーが砂に埋もれるのも道理だ。
散々苦しめられ、逃げられていた相手に一発叩き込めてご満悦のジェラートは、自分が吹き飛ばした老人が目を回しているのを確認してから、そんなヌガーをやはり上機嫌に掘り起こしてくれていたのだが。彼女はヌガーのけがを見るなり、素っ頓狂な叫びをあげた。
ヌガーの待ったも聞かず、彼女はヌガーのスーツの袖を破って捨て、その下に来ていたシャツの裾を破り、それを傷口に当てて抑えるように言ってきた。ヌガーは言われたとおりにしつつも、自分の破れた袖を見て、げんなりとする。
その時、老人の呻きが、クリオロの正体であった男の呻きが聞こえる。
「あぁ、目が覚めたか。結構なことだ。どうも、神はケチな性分で、老人を殺すと天国に行けないというからな」
「何いってんですか。すでに地獄に行きかけだったくせに」
「……なぜ、俺は生きている」
のんきに口を動かすヌガーに呆れながら、ジェラートがつかつかと倒れている老人に歩み寄る。
腕を掴んで引き立て、仕込み剣を喉元にあてがった。
「勘違いしちゃいけませんよ。とりあえずヌガーさんの救助を優先しただけで、貴方を殺すつもりがないわけじゃないんです。下手なことをすれば、殺します」
「そうか」
「やめとくんだな、ジェラート。そいつにそういう脅しをする意味はないと、わかっているだろう」
「……そうですけど。気に食わないんですよっ」
言うに合わせて、ジェラートは老人の頬を張った。それだけで、彼の首はぐりんと回り、もう一度床に倒れてしまう。ジェラートはそれを見て、なお苛立たし気に舌打ちをする。
「まぁ、こういうわけだ、トリニタリオ。手が出るのもそこのジェラートの方が早いし、魔法だって、一度人型を作らなければいけないお前さんより、ジェラートがお前さんの白髪頭へ、ろうそくみたいに火をともす方が早い」
「そうだろうな」
「あぁ、そうだ。だから、しばらくはおとなしくしていてくれ。俺は死にかけたあとで、誰かの死を見たいほど血の気が多くない一般人だ」
「そこはかとなく嫌味な感じがしますけど、まぁ、見逃しましょう」
ヌガーのけだるげな言葉に、老人は目を伏せた。無口な彼だから、それが了承の合図なのだろう。ジェラートも、仕方なしとばかりに腕を組む。ヌガーはそんな彼女の対応が少し意外だった。
「なんだ。血の気の多いお前さんだから、てっきり『さっさとこんな奴殺して、私はあの人のところに行きます』とか、そんなことを言うかと思っていたんだが」
「やっぱり私のこと、血の気が多いって言いたかったんですね?! 言いませんよ、そんなこと!」
「そうは言うが。お前さんの目的だって、ヴァンホーテンへの復讐だったはずだろう」
「それは、そうですけど――」
ヌガーに食ってかかろうとしたジェラートだが、彼の核心を突く一言にその勢いが止まる。もどかしそうに口をもごもごさせた後、はぁと大きく息をつき。彼女は壁にもたれて、横髪をいじり始めた。
「ヌガーさんにもわかるでしょう。彼女が、あのドレスにもう一度袖を通した意味。私のつけた火傷を隠さない意味」
「さぁ、わかっていないかもしれないな」
「とぼけなくていいですよ。私がわかっていて、あなたがわかっていないわけがない」
ジェラートの指が止まる。
「あの子、私の植え付けた死の恐怖を乗り越えたんです。乗り越えて、死ぬことを覚悟したうえで、彼女は復讐を選んだんです」
「それだけではないと思うが。そうだろうな」
「だったら、邪魔しちゃだめじゃないですか。あんな小さい子には重すぎる覚悟を、決めてるんですから。人を助ける私が、人の邪魔をしちゃあダメなんです」
ジェラートは時針塔を見上げていた。ヌガーもつられて見上げるが、窓枠に切り取られてその頂上は見えない。どうせ窓枠などなくても、頂上の様子などわからないが、ジェラートは元素魔法使いだ、頂上で魔法が動いていることくらいはわかるのだろう。
「お前は、どうなんだ」
不意に、老人が声を上げる。
「ヌガー。お前はなぜ、死の覚悟を決めた子供を、死地に送ったんだ」
ヌガーはその意図を探るように、老人の黄色の瞳を覗き込むが、その意図は読めない。
もしや、自分を打倒した相手をちゃんと知っておきたいとでも言うのだろうか。だとしても、自分はこの老人を欺いただけだし、そもこの老人がそんな武人的な高尚さを持っているとも、ヌガーには考えられなかった。
ただ、答えない理由も、特に見当たらないから。
「そんなのは決まっている」
隠す価値もないしょうもない理由を打ち明ける。
「ショコラは、きっととんでもないことをやってくれるだろうからな」
言った途端、ジェラートが二度目の素っ頓狂な声が上げる。
やはり、魔法の使えないヌガーには、何が起こっているのかはわからなかった。
わからなくとも、窓の外にパラパラ振り出した、赤い石片を見るだけで十分だ。
どうせあのじゃじゃ馬が、バカをやったのだ。
ちなみにヌガーのスーツの裏にあったのは、愛用のシガーカッターです。




