第三十八話 宣戦
気ばかりが急いていた。ここしばらく、引きこもり同然に生きていたせいで体力が落ちている。
「はぁ、はぁ……」
それでも、ショコラは足を止めるわけにはいかなかった。
泥水にまみれた衣服が乾燥し、パリパリと張り付いて気色が悪い。少し前の、うじうじと歩いた時とは少し違う奇異の目線を、邪魔くさいからと押しのけた。
ショコラは川底を流れる小石のように、人の波の中で衝突しながら、転がるようにかけていく。
走れば走るほど、早足でこちらへ流れてくる人が増えてくる。
「何かしらね」
「あそこ、菓子屋だろ?」
「おっかねぇ」
漏れ聞こえる会話は、彼らが騒動から逃げて来たことを伝えている。
ショコラは余計に、足を止めるわけにいかなくなる。むしろ、もはや限界まで酷使される自分の心臓の音しか聞こえないくらい、全力で走って。
見慣れた木戸を、蹴破る。吠える。
「ヴァン……ホーテンッ!」
「――おや?」
息の切れたショコラは返事代わりに、突き出した手から魔力を放つ。
「おっと、獣のようなご挨拶ですね」
ヴァンホーテンは、ショコラと同じ泥水の魔力を指先から打ち出して、それを相殺した。
彼の立つパティスリーは、最早面影を残していない。あちこちがちろちろと燻り、ヴァンホーテンの機械魔法の残骸であろう金属片が散乱している。
そして極め付けは、象に一踏みされたようにひしゃげたショウケース、ぐちゃぐちゃのお菓子。
その破壊の中心に横たわる、ビスキュイだ。
「あぁ、あぁ。お嬢さん。そんな恐ろしい目をするものじゃありませんよ」
「恐ろしい目で当たり前でしょ。わたしはお嬢さんなんかじゃなくて、ひとごろしなんだから」
「なるほど。それは失敬」
肩をすくめて見せるヴァンホーテンに、ショコラは反射的に噛みつきかけるのだが。軽口を返すことで代わりとする。今はそれより、ビスキュイだ。
脳裏にお母さんの顔がよぎり、さっと頭が冷えた。
「おばさまを、殺したの?」
「いえ、そんなことは。信じられなければ、どうぞ確かめてみては?」
「えぇ、そうさせてもらうわ」
ヴァンホーテンは一歩身を引いて、執事か何かのように恭しく道を開けた。胡散臭い彼に対して、ショコラはいきなり警戒を解こうとも思えず。身体の正面を見せたまま、じりじりとビスキュイに近づく。
それでも、彼女の弱々しい呼吸音がやっと聞こえると、ショコラは弾かれたようにビスキュイに駆け寄った。
「おばさま、おばさま?!」
ビスキュイの隣に膝をついて、ショコラはその痛々しさに息を呑んだ。
お菓子の棚に倒れているはずなのに、甘い匂いがしない。生臭く、鉄臭い血の臭いが混ざり込んで、吐き気がした。
ショコラは彼女を介抱しようとするが、何をして良いのか、彼女の身体のどこに触れて良いのかがわからない。服の破れ目から覗く彼女の傷には、裂傷だけでなく熱傷や電紋まであって、下手に触れてしまえば傷口に障るように思えた。
年老いてなお、弱々しいと梅雨も思わなかったビスキュイが、その身体が。急に冬の枯れ木のようだった。
ショコラの手は、気遣わしげに彼女の身体の上を彷徨うばかり。やがて、ビスキュイの手がぴくりと動く。
「あぁ……ショコラ、帰ったのかい」
閉じられていた目がゆっくりと開き、焦点を結ぶ。
「おばさま?! 良かった、おばさま!」
「うるさいね。おばさまと呼ぶんじゃない」
ビスキュイはショコラの頬へ手を伸ばす。途中、伸ばした先の頬が火傷の残る右の母だと気づいてか、手を止めるのだが、ショコラは構わず、その手を取って自分の頬に押し付けた。傷跡に触れられるくすぐったさの奥に、確かにビスキュイの温かさがあった。
当然、手当は必要だが、今際の際というほどではなさそうだ。ショコラの胸を締め付けていた不安が、一段だけ軽くなる。自分でもわかる程度にショコラの表情が緩み、ビスキュイも口の端で笑う。
あとは……。
目を閉じて、開く。あとはあの男を追い払うのみだ。ショコラはビスキュイの手を自分の頬からはがし、傷口を抑えさせる。
「少し待っててね、おばさま」
「待ちな、ショコラ……!」
しかしその抑えさせたはずの手が、ショコラの服の裾を掴んだ。服にこびりついていた砂粒が、ビスキュイの血に赤く染まって、ばらぱらと落ちる。
「ちょっとばかし寝ぼけちゃいたがね、その男はアタシの客だ。お前は引っ込んでな」
「何言ってるの? そんな体で、戦えるわけないじゃない!」
「いいや。年寄りを、バカにするもんじゃあないよ」
そう言うと、ショコラを掴むビスキュイの手に力が入る。そのまま、震える体をなんとか起こして、彼女は立ち上がる。意地だけが彼女の体を支えているのは、火を見るよりも明らかだった。
「やめてよ、おばさま。わたし、怒るわよ」
「怒る? 怒るってなんだい。そりゃあ、アタシのセリフだよ」
ビスキュイの前に立ち塞がるショコラを、ビスキュイは見下ろして言う。
「やめるんだろ、復讐を。それは誰もが願って出来ることじゃない。たいていは復讐の中で、後戻りのできない一線を越えちまってるからね」
「そんなの、わたしだって越えてるわよ!」
「あぁ、それは、そうかもしれないね」
ビスキュイの視線が、ショコラの火傷の痕を無遠慮に撫でた。少し前の自分なら、それに怯んだかもしれないが。今は違う。それを示したくて、ショコラは強く地団駄を鳴らした。ビスキュイはそれをみて、一つ頷いた。
「それに、お前には帰れる場所もある」
「だから、わたしはその場所を守りたくて――」
「うるさいね!」
食い下がるショコラだが、ビスキュイにぴしゃりと言い放たれると、つい言葉を止めてしまう。その隙に、彼女はショコラの肩に手を置いて、脇を通り抜けようとしている。
「お前はアタシを冗談でもお母さんと呼んだろう」
その時、囁かれた一言が、
「だったら、アタシに母親らしいこともさせな」
ショコラには無性に、腹立たしかった。
「ふっざけんじゃないわよ!」
「ぬわぁ!?」
その感情に任せて繰り出された回し蹴りが、ビスキュイの両膝裏を強かに打った。満身創痍だった彼女は、聞いたことのない声を上げながら後ろに倒れる。かろうじて受け身を取らなければ後頭部を強打していたことだろう。
それでも、背中を強打したことには変わらないから。呻きをあげるビスキュイに多少の罪悪感を抱きつつ、今度はショコラが、ビスキュイを見下ろした。
「なにするんだい!」
「わたしの勝ちよ!」
そして、高らかに勝利宣言。ビスキュイは、自分が何を言われているのか咄嗟に理解できない様子で、それがまた気持ちいい。ビスキュイには小さい頃からお世話になっているショコラだが、彼女のそんな顔は見たことがなかった。
「わたしの勝ちよ、ビスキュイ! わたしの方が強いんだから、わたしが戦う! いいわね!」
だからきっと、今なら彼女に守られてばかりのわたしでも、彼女を守ってあげられる。
ショコラは一方的に言いたいことを叩きつけて、背を向けた。未だに文句が聞こえるけれど、今度こそ起き上がって来れないようだから問題ない。
わたしが相手取るべきは、鷹揚に拍手を送ってくるもう一人だ。
「待たせたわね」
「いえ、良い観劇でした。それでは、わたしは帰っても?」
「笑えないジョークね。それとも、貴族の世界ではセンスが違うのかしら」
「いえ、本気ですよ」
けろりと言ってみせるヴァンホーテンには、魔法の気配がない。武器の一切を持たず、その万能の魔法適正で戦うのだろうヴァンホーテンが、魔力の一欠片も動かす気配がないのなら。それは本当に、戦う気がないのだ。
「せっかく雰囲気が盛り上がっているところ、申し訳ないですが。わたしには戦う理由がないんです。試したい魔法は全て試してしまいましたし」
「あなたの理由は知らないけど。わたしには理由があるもの。付き合ってもらうわよ」
「いえ、遠慮します」
「あなた、バカでしょ。遠慮なんてさせてあげないって、そう言ってるの」
「あぁ、なるほど」
言って、ヴァンホーテンは顎に手をやり、思案顔になる。どこまでもふざけた男だが、これ以上埒のあかない掛け合いをするつもりも、ショコラにはない。
魔力を研ぎ澄ませていくショコラに、ヴァンホーテンも片眉を上げる。仕方ないとばかりに、魔力の動く気配。
一度、全力の戦いを終えた後。カレやパレを使う分には十分でも、使い方を覚えたばかりのオ・ショコラをどれだけ維持できるか。
その上、敵は父を倒し、ビスキュイをも凌駕する、魔道王国最強の男だ。
水源も大地もなく、元素魔法のリソースとして、有利な点すらない。
考えれば考えるほど、ショコラが今ここで戦う利点はない。
だがそれは、彼女が思い出し、彼女が自覚した復讐心に、むしろ火を注いで燃え上がらせる。
今をおいて他に、自分の復讐を正しく果たす時は、ない。
「行くわよ」
「ダメだ、ショコラ」
そこに割り込む、粘着質な言葉遣い。開きっぱなしの入り口から。
「夜が助言をもたらすように。フランツは一日にして成らないように。古い鍋が最高のスープを作るように。まだその時じゃない、ショコラ」




