第四話 ヌガー
目に痛いほど真っ白な厨房を通り抜けて、ヌガーはさらにその奥、倉庫へと通される。ビスキュイが厨房から見習いの少年を呼びつけ、木箱に押しつぶされるように狭い倉庫の奥、小麦の袋がどかされる。その下に隠されていたレールに沿って、大きな木製の棚が軋みながらずらされた。
そして現れたのは、大人の腰ほどまでしか高さなのない、小さな木戸。「よっこいせ」と身を低めて通るビスキュイに続いて、ヌガーがひょいと潜り抜けた。彼は身を起こしたとき、ビスキュイが面白くなさそうに自分を見ていたことに気づいたが、無視。
ビスキュイは白髪の混じり始めた髪を一つ梳いて、部屋へと向き直った。上方に取り付けられた小窓から差し込む光に、微細な埃が舞うのが見えた。
「ほら、働きな」
そう言ってビスキュイが指を振ると、動きに合わせて火の粉が飛び。ふよふよと漂って、部屋の中央に立てられた三又の燭台に火を灯す。
「便利なものだな。元素魔法が使えるっていうのは」
「花は他人の花壇にある方が綺麗に見えるもんさ。結局は、昔貴族に捨て子にされたって証拠だよ」
ビスキュイは嫌味に言って、奥の座席に腰を落としす。
そんな彼女の火で照らし出されたのは、二人が向かい合って座るだけで窮屈なほどの半地下室。ただ、清潔感だけは保たれている。燭台が乗っている机には紺色のクロスが引かれているし、部屋の奥に積まれた依頼書なども、表の仕事で出た空き箱を利用して仕分けされているようだった。
ヌガーはしかし、タミゼの地下室にも似た籠もった空気を感じたのだが。それすらも、不自然に巻き起こった風が小窓から追い出してしまう。ビスキュイはそれを追うように、外の景色を見た。
「あぁ、ちょうど三時だね。不本意だけど、菓子くらい出してやるよ」
そう言って、ビスキュイが手を鳴らすと、ヌガーの背後でしていた重い音がやみ、木戸からひょっこりと先ほどの少年が顔を出す。
「どうしました、お義母さん」
ショコラに似た銀髪をして、ビスキュイとは似ても似つかない中世的な美少年だ。にこやかに受け応える彼に対し、ビスキュイの表情はむしろ苦い。
「お義母さんと呼ぶなと、何度言わせるんだい」
刺すような一声。
「とは言われましても、あなたは僕のお義母さんですから」
それでもにこやかな少年。
「いい加減にしないと、お前の頭をケーキナイフで平らにならしてしまうよ」
「えぇ、お義母さんがその髪型の方がよろしいとおっしゃるのなら、僕はそれで」
実際のところ、彼女が『パティシエが持ち歩いていても不自然じゃないし、いざという時に人を脅せる』と豪語するそれは、表の店の床に刺さったままなのだが。
ヌガーも顔を逸らすほどの彼女の形相を、少年は笑顔で受け流し続けた。
そんな、対照的なにらめっこは続くこと十数秒。
「……はぁ。もういいから、フリュレを山と持ってきてくれ」
「わかりました」
結局、折れたのはビスキュイだった。
ヌガーは、仕事を与えられた忠犬のような面持ちで顔を引っ込める少年を見送って、ビスキュイの向かいに座る。
「相変わらず、あの子にだけは弱いんだな。いやそりゃあ、腕っぷしならマスターの方が何倍も強いんだろうが。クイーンがジャックに負けるのを見ているようで、気分が良い」
「ふん。大貧民のお前らしい嫌味だね」
「あぁ、そうだろう? だからそろそろ、目上のマスターからいいモノを貰えると、嬉しいんだ」
「焦したキャラメルみたいな色のスーツを着ているくせに、せっかちだね。相変わらず」
ビスキュイの舌打ちに、ヌガーはこれみよがしに自分のスーツの襟を正す。ビスキュイはエプロンのポケットへ手を伸ばしかけ、思い出したように舌打ちした。
ちょうどその時、ぎぃと木戸が開いて、小さく折り畳まれた白いクロスが床に置かれ。その上に、銀の盆に文字通り山と積まれたフリュイが届けられる。
ビスキュイがぱちんと指を鳴らすと、風がそのお菓子を包み込み、ふわりと浮いて机の上までやってきた。彼女は意地悪く笑って言う。
「ほら、ちょうど届いたじゃないか。大富豪からの下賜だよ。謹んで受け取りな」
「なんというか、いや、何と言わずとも。本当に大人気がないな、マスターは」
薄く濁った立方体は、赤や黄色を鮮やかに。表面に浮いた砂糖の粒を、ろうそくの炎が照らしている。ヌガーはそのうちの一つを渋々と言った様子で口に運んで、眉根を寄せた。
それを見て、ビスキュイはくつくつと笑う。
「全く、お前がアタシを笑えたもんかね。好きでもないフリュイをいつも懐に忍ばせて、ショコラのご機嫌を取ろうとしているくせに」
「……マスターが何を勘違いしているのかは知らないが、俺はショコラの疲労を取るために持ち歩いているだけだ。そう、元素魔法はお腹が減るらしいから」
「そういうのをマジメな面で言えるところは、滑稽で嫌いじゃないよ」
言われ、憮然とするヌガーを見て、ビスキュイはすっかり気を良くした。
「じゃ、そろそろ仕事の話をしようかね」
「あぁ、そうした方がお互いのためだ」
◇◆◇
ビスキュイは部屋に置かれていたいくつかの木箱の中の一つ引き寄せ、親指をひと舐め。対象の名や期限などが記されただけのシンプルな依頼書をめくり始めた。
「えぇと、お前の受けた依頼はなんだったかね」
「タミゼ、タミゼ・カラントの暗殺だ」
「あぁ、あの家出小僧か。ほら、あったよ」
ビスキュイは紙束の中から一枚を見つけ出し、机の上に置く。依頼人の姓名の書かれていない不審なそれは、しかし白く均質な上質の紙を用いていた。
「依頼を受けるときにも言わせてもらったけどね、これは下級とはいえ貴族様からの依頼だよ。もし依頼完了と報告して間違いでしたとなったなら、送られてくるのは金のリンゴどころか毒リンゴだ。大丈夫なんだろうね?」
「もちろん。カラント家にいる自分の父親に暗殺を依頼される心当たりがある人間なんて、本人くらいのものだろう」
「……あんた、またおちょくったのかい?」
「俺はそうは言わないが、あいつはそうだと言ったな」
食べるでもないフリュイを、ろうそくの火に透かしてみたりして遊ぶヌガーに、ビスキュイはため息をついた。
「ほんと、なんであの子はあんたみたいなのと組んじまったんだろうね」
ビスキュイが指で空に円を描くと、その中に『パティスリー』の名が炎の線として浮かぶ。彼女がそれを掌で書面に押し付けると、焦げ跡として印が残る。それは、火の元素魔法を筆記レベルの細さで扱う面でも、紙を焦がすだけで燃やさない、絶妙な温度を要する面でも、老練の成せる技。
だからこそ、ビスキュイはヌガーのわずかな緊張に気付けなかった。
「あの子は、チョコレィトは、まだ元気にやっているのかい?」
「あぁ、うざったらしいほどに元気だよ。うざったらしいほど元気に、『ビスキュイのクソババアには会いたくない』と言っていた」
「殺されたいようだね、ヌガー」
「流れるように人を殺そうとするのは、流石は『パティスリー』のギルドマスターだと、俺は思う」
殺気立つビスキュイを変わらぬ無愛想で受け流しつつ、ヌガーは内心で安堵していた。
チョコレィトは、すでに死んでいる。
この部屋で、ヌガーが受けてきた依頼に向かい、そこで死んだのだ。
言葉も粗く、交渉下手で、しかし元素魔法の才を持ったチョコレィトが、仕事仲間して選んだのがヌガーだ。
俺は、チョコレィトの信頼を裏切り、そして殺した。
ヌガーの胸の中にわだかまるものは、全てその一言に集約される。
それは悔しさだった。自分に与えられた仕事をろくにこなせなかった事への。
それは悲しみだった。自分を信じてくれた相棒を失った事への。
そしてそれは、罪悪感。自分の迂闊さが、自分の一番近しい存在を殺した事への。
「まぁ、冗談はさておき。チョコレィトも相変わらずだね。目をかけてやった恩も忘れて」
「たまには顔を出すように言ってるんだがな。俺が乳母がわりに使えることに気付いてからは、この店にショコラを連れてくることすらしなくなった」
「あぁ、そのようだね」
こういう時こそ、自分の性質というのは役に立つのだと、自嘲的にヌガーは思った。
ヌガーは、ビスキュイにチョコレィトの死を伝えていない。もちろん、チョコレィトの死の原因となった依頼が失敗に終わったことは伝えてある。だが、それだけだった。
「でも、それでもいいんじゃないかい? こうしてアタシと歓談をして、ショコラを連れ回すだけで分け前が来るんだ」
「何を勘違いしてるのかは知らないが、タミゼが世をなめた家出小僧だとか、だからその警備は正面突破できるほど雑だとか。そういうことを調べるのまで含めて、俺の仕事だ」
「それでも、元素魔法なしでこの業界にいられるお前は恵まれてるんだよ」
ビスキュイは普段、元素魔法なんてあってもしょうがないと言うのだが、この時だけは違う。それは事実として、無から有を産む元素魔法が、個人の戦闘能力を決定的に分けてしまうからに他ならない。
元素魔法の使えないヌガーは、言われるまでもなく理解していることだ。
「……そうだな。チョコレィトには感謝しているよ」
「なんだね、素直に気持ち悪い」
「だから……」
「だから?」
だからこそ、ヌガーはチョコレィトの死を伝えられない。その瞬間、ヌガーはビスキュイから仕事を回されなくなり、ショコラの復讐の手助けもできなくなる。
怪訝そうなビスキュイに、ヌガーは言葉を選ぶ。
「だから、次もまた簡単な仕事を頼むよ、マスター。ショコラも大きくなってきて、チョコレィトもそろそろ腰を落ち着ける頃合いだ。大きな仕事はいいから、手堅く行きたい」
ビスキュイはヌガーの真意を探るように、彼の瞳を見据える。
「そうやって、若手の食い扶持を奪わないで欲しいんだけどね。なんなら、あの仕事だって、お前たち以外にできそうなやつがいなくて困ってるんだから」
「あんなのこそもう……勘弁だ」
ヌガーは一瞬、言葉に翳りをみせる。その一瞬を、ビスキュイが見逃すことはなく、目を眇めた。
眇めたが、彼女はそれを捉え違えた。
「ふぅん、そうかい。ま、お前たちのコンビがした初めての失敗だ。臆病ってのも、長生きには必要だね」
「チョコレィトが聞いたら怒るだろうな」
「なら言わなきゃいいって言っても、あんたは言いそうだね」
「それが俺の味だからな。口直し用に、とびっきりの旨い依頼をもらえると嬉しい」
「はん、なんでアタシがお前の尻を吹かなきゃいけないんだい」
ヌガーがチョコレィトの話を切り上げると、ビスキュイもそのまま依頼者を探し始める。どうせビスキュイしか触らないからと、区別を付けたりはしていないが、依頼書を入れた木箱はそれぞれ、受注の前後や彼女の基準で分けた難易度の分類になっている。彼女は最初に引き寄せた木箱を押し戻し、印を押した依頼書は別の箱へ。そしてまた別の木箱を引き寄せた。
「ちょうど、一般のギルドに流れる予定だったのがあるんだ。最近魔獣も増えて忙しいってんで、早く片付けたかったのかこっちに回ってきたんだけどね」
「なら、お誂え向きだ」
それはつまり、元素魔法の扱えない一般市民であってもこなせると言うことだ。
ヌガーは思う。それならショコラも、安全に達成感を味わっていられるだろう。
「あぁ、あったあった」
依頼書が机の上に乗せられる。質の悪い、繊維屑のまじった紙に書かれた依頼内容はシンプルだ。
『魔法義賊、クーリ・グラスを討伐せよ』