第三十四話 母
ショコラは、完全に虚を突かれて、何を咄嗟に言うこともできなかった。ただ、父とかつて暮らした家にいる、謎の女性を眺めるしかない。
痛みきった銀色の長髪。けばけばしいほどの化粧はむしろ、きっと肌も同じように荒れているのだろうと想像させる。紅は赤々として、その張り付いた笑みと同じにわざとらしい。そして、形の良い胸を強調するような、細身の衣装。
年齢的にも性別的にも、|そちら≪・・・≫の世界に疎いショコラにだって、彼女の職業は想像がついてしまう。
「お父さん、あなたみたいないかがわしい人を、家に上げていた覚えはないのだけど」
「どなたかしらって聞いてるのに、はぁ、ひどい言い草じゃない?」
「……嫌なしゃべり方」
思わず、ぼそりと呟いてしまう。
ねっとりと甘くて、のどが焼け付くくらい。だけど、ショコラには初めて聞いた声とも思えないくて、不思議だった。
「あらあら。それより、あなた今」
対して、ショコラの呟きをさらりと受け流し他彼女は、頬に手を当てて言う。
「お父さんって言ったかしら」
「それがどうしたのかしら」
「もしかして、お父さんってチョコレィトのこと?」
「だったら何よ」
要領を得ないその言葉に、ショコラは苛立ちを見せたのだが、見知らぬ女性はむしろ笑みを深める。
「なら、わたしはあなたのお母さん。そういうことになるわね」
「は?」
その伏し目がちな笑みは、やんちゃな子供をかわいいと思う母親のものというより、化かす相手を見つけた森の魔女のものだった。
◇◆◇
「どうしたの、食べなさいな」
「イヤ、食べたくない」
ベッドに腰かけるショコラは、渡された木椀の中に入ったスープに、釈然としない気持ちになる。
すべては、彼女のおなかが鳴ってしまったことが原因だ。気づかぬうち、かなりの時間歩いていたようで、母を自称する女性はくつくつと笑いながら、「そうね、お昼の時間だものね」と納得。ショコラは気づいていなかったのだが、彼女はかなりの大荷物でここにやってきていたようで、雑嚢からベーコンや黒パンを取り出すと、手際よく昼食の準備を始めてしまった。
彼女が母であるなどと、まったく信じていなかったショコラだが。彼女はチョコレィトとヌガーの積み上げたものの山の中から、迷うことなく小鍋や木椀を探し当てる。少なくとも、偶然ここにやってきたわけではなく、ここで生活したことがあるような立ち居振る舞いだった。
本当に、彼女が自分の母親なのだろうか。物心ついたころには母親なんていなくて、顔もわからない。ただ、彼女の髪はスープの液面に映る自分の髪と同じに、銀髪をしている。
「もしかして、反抗期かしら。そんなに私に構ってほしい?」
「違うわよ!」
「そう、違うのね」
ショコラは食って掛かるが、彼女はやはりゆったりとして、ショコラのことなど歯牙にもかけない。ショコラの隣に黒パンの皿を置き、それを挟んで彼女もベッドに腰かけてくる。
「でもおかしいわ。反抗期が来る前の、まだ子供だっていうなら、素直にいただきますって食べるでしょう? そうじゃなくて、反抗期の終わった、もう大人だったなら、相手の好意を無下にするはずないじゃない?」
「……うぅ」
そして、先んじて逃げ道を塞いでくるようなその話し方は、苦手だった。あとから揚げ足を取ってくるヌガーの方が、まだ話しやすい。
ショコラは再びスープに視線を落とした。食べたくないわけではない。むしろ美味しそうだ。ベーコンしか入っていないから彩りこそないが、肉の脂が浮いて黄金色に光っている。すきっ腹では目に毒だ。
……まぁ、食べ物に罪はないのだし。
「いただきます」
「えぇ、どうぞ」
ずずっと、スープをすする。
見た目通り、シンプルな味だったが。シンプルな分、ベーコンから染み出た旨味を直接に感じた。なにより、暖かさ外の底から広がっていく感覚には、抗いがたい幸福感が伴った。たまらなくて、今度はスープをすすると同時、口の近くに流れ着いたベーコンをはぐはぐと引き寄せて、食べる。きつい塩気が口の中いっぱいに広がり、続けてスープに浸した黒パンを放り込むと、程よく中和した。
「おいしい」
「久しぶりにそんな、飾らない『おいしい』を聞いたわ」
口に出ていたことに気づいて、ショコラは急いで口を覆うが、当然遅い。頬を膨らまして食べるショコラを、彼女は口元を隠して笑っていた。
「あー、面白い。やっぱりチョコレィトの娘なのね、あなた」
「どういう意味よ」
「素直って意味よ。言葉が素直だわ、あなた」
「余計なお世話よ」
彼女の声色はそう聞いても小ばかにしていて、ショコラは腹が立ったものだから。不満を表すように、がつがつと食べた。余計に笑われた。
◇◆◇
「それで」
一通り食べ終えたところで、ショコラは彼女に話を振った。
「あなた、どうしてここにいるのよ」
「あぁ、やっぱり、気になるわよね」
彼女は、手鏡で口紅を整えなおしながら返事をする。大人の女性が化粧をするところを実際に見るのはショコラにとって初めてで、しかしまじまじと見るのも何か悔しいから、横目でちらちらと盗み見る。
「面倒くさい男をひっかけちゃってね。飽きてくれるまで、隠れることにしたのよ」
「それで、お父さんに頼ろうってこと? 虫が良すぎる気がするんだけど」
「あら、今のはお母さんって認めてくれたってことかしら」
「違うわよ!」
からかいの視線をよこす彼女と目が合ってしまって、つい大声で叫ぶ。松明の明かりくらいしかない部屋だもので今までは気づかなかったが、彼女は髪色だけでなく、瞳の色も同じなのだとショコラは気づいた。
「……ただ、つまりは浮気の面倒を夫に押し付けようだなんてって、そう言いたかったの」
「うわき」
言い訳のように釈明すると、彼女は目を丸くして、浮気という言葉を繰り返した。浮気という言葉のどこに、そこまで驚く要素があるのかと、ショコラも何も言えなくなってしまい。
しばし、沈黙。
その後、女性は堰を切ったように笑い出した。
「ふふっ、ふふふふっ。浮気、浮気だなんてあなた、こんなわたしにそんな言葉使うの、初めて聞いたわ。ふふふ、あはは」
「何よ! そんな変なこと言ってないでしょ!」
「あっは。やめて、笑いが止まらなくなっちゃう」
ショコラは反射的に起こった声を出して染むのだが、それ余計に彼女のツボに入ってしまったらしく。ひたすら居心地が悪くなるまで、ショコラは彼女に笑われ続けた。
やがて、ようやく収まった彼女は目尻をぬぐいつつ。
「浮気なんて、ほんとに何年ぶりに聞いた言葉かしらね」
「そんなに珍しい言葉?」
「それはそうよ。わたし、体を売って生きてるんだから」
「それって」「娼婦って意味。わかってたでしょ?」
わかっていたとはいえ、ショコラも十二歳の少女だ。目の前で、女性が、娼婦だと宣言することに、驚きは隠せない。
「常に浮気をして、お金をもらっているもの。わたしに浮気をしに来て、それでお金を置いていく人もいるわね。あなたが食事をするのに特別な名前を付けないように、私が生きている世界で、浮気を浮気という名前で呼ぼうとする人、いないもの」
「そう」
それは、ショコラにとっても知らない世界ではない。ショコラ自身もかつては人を殺す世界にいて、その時の自分は、できるなら人は殺したくないと言っていた。必要ならば、人も殺すと言っていた。
「酷い生き方だと思う?」
「いいえ。わたしもそうしてきたもの」
「あら、そんなに小さいのに言うじゃない。もしかして、その酷い火傷もそのせいだったりするのかしらね」
「……えぇ、そんなようなものよ」
「まぁ、おっかない」
言われ、頬の火傷に触れる。自分の弱さと、そのくせ人を傷つけてきた醜さを現したような、いびつな痕。
「だから、私は酷い生き方はやめたの。そんな生き方を心配してくれる人もいたし」
「心配してくれる人……チョコレィトかしら」
「お父さんは死んだわ。私は、その復讐をしていたんだもの」
「――そう」
その時、初めて彼女の表情に陰が走った。悲しみの陰だ。これまで滑らかに動き続けていた彼女の口が、言葉を探して迷っている。
彼女がショコラの母親なのか、証拠なんてもはや探しようもないが。少なくともチョコレィトを愛していたのは確かだろうと、ショコラは感じた。
「あなた、名前は?」
「あら、急にどうしたの」
「別に。ただ、名前も聞かないで話をしているのが、いい加減気持ち悪いなって、そう思ったの」
そっぽを向いてのショコラの言葉。虚を突かれたのか、彼女の返事は少しの間を置いたのだが。
「……ふふっ。本当に、言葉が素直」
「いいから、教えなさいよ」
口元を隠して笑う。その姿はすっかり元通りだ。
「ダクワーズよ。いい名前でしょ」
「……保養地と同じ名前の娼婦なんて、ぞっとしないわね」
「あらひどい。それで、あなたは?」
「ショコラよ」
「そう、ショコラ。ショコラっていうの、わたしの娘は」
「だから、あなたをお母さんと認めたつもりはないわ」
そうしてからかう姿に、やはりさっきの表情はウソだったのではないかと思うショコラ。
実際、やはり彼女は自分の母親であると、ショコラには信じられなくて、なぜって彼女は、自分が母親であるとからかいでしか口にしないのだ。本当に母親として腹を痛めていたのなら、『母親』という事実はそんなに重くないのじゃないかと、ショコラには思える。
「それで、ダクワーズ」
「なぁに、ショコラ」
それにやはり、この声で名前を呼ばれてもうれしくない。
とにかく、それは置いておいて。
「お父さんがどうやって死んだかには、興味があるの?」
「いえ、別に興味なんてないわ。ろくでもない仕事をしてたんだから、ろくでもない死に方をしたにきまってる。結末がわかってるのに、聞いてもしょうがないでしょう」
「あっそ、じゃあ、なんでもないわ
「あぁでも、ちょっと待って」
「待ってって、何よ」
肩透かしを食らった気分のショコラは、口をとがらせる。
「あなたが話したいのなら、聞きたいわ。それなら面白そうだもの」
「別に、話したいわけじゃないけれど」
ではなぜ、自分は彼女に話をする気になったのか。
お父さんに対し、彼女が何かしらの思いを持っているのだろうとは、確かに思った。ただそれだけで、このいけ好かない女性に対して、お父さんの話をしようと思うのだろうか。自問して、よくわからなくなる。
口ごもったショコラを、ダクワーズはのぞき込んでくる。彼女の手がそっと、ショコラの手を包み込んでいた。多少肌ががさついていても、暖かくて、確かに柔らかい手。
この、自分の母親と自称するダクワーズが、こうして男を誘惑しているのかと思うと、男が惑わされてしまうのもわかる気がした。何を話しても聞いてくれそうな安心感。
それが、彼女が娼婦であることに輪郭をもたらして。
「まぁ、たまには話してみるのもいいかもしれないわ」
「ふふっ、あなたから言い出したのだけれどね」
彼女が自分のように酷い生き方をしているから、話す気になったのかもしれないと、納得した。
そして、実際に話し始めてみると、ショコラに話せることは意外と少ない。
彼女は所詮、蚊帳の外だったのだ。この家とも呼べない家で、一緒に生活したりもした、誰よりも近くにいたはずのショコラなのに。お父さんはまんまと以来の形をとった罠に引っかかって、おびき出されて、勝手に死んでしまったのだと。ダクワーズが適切に相槌を打つものだから、ただでさえ短い話はすぐに終わりを迎える。自分がいかにお父さんに気を使われ、甘やかされていたのか、言語化したことでショコラは痛感していた。
「そう、それであなたは復讐を始めたのね」
「えぇ、もうやめたけど」
「あら、そうなの」
「誰もわたしにそれを望んでないんだって、気づいたから」
ショコラはベッドの脇に置きっぱなしの、チョコレートボンボンの紙箱に目をやった。当然、中身はもう食べきっているから、あれは少し甘いにおいが残っているかいないかというだけの、ただの紙箱に過ぎない。
それでも、スフレが私を気遣って、作ってくれたものの、その証のような気がしたから。捨てるに捨てられなかった。かといって、パティスリーに住み込む時にもっていってしまって、スフレにばれると恥ずかしいから、ここに置いてある。
「昨日、ちょうど仇がわかったけれど」
回り始めた口というのは、なかなか止まるものではない。
ショコラは、すでにチョコレィトの話ではなく自分の話になっていることには気づかず、素直な気持ちを口に出した。
「今考えても殺したいとは思わない。ただ、ただ……。そう、ただ、お父さんの魔法を使っていたのが、気になる? のかしら。それくらい」
「ただって、あなた」
すると、意外と自分の気持ちが曖昧なままであることに、ショコラは戸惑った。自分のことなのに、自分の言葉に自信が持てない。ダクワーズも同様に、要領を得ないという顔をしている。
「……あぁ、そういうこと」
「なに、どういうことよ」
しばらくして、ぽんと手を打ったのは、ショコラでなくダクワーズの方だった。自分がわからない自分のことを、他人に理解され、しかも目の前でにやにやされて、ショコラとしては穏やかじゃない。
「あなた、自分がどんな顔でお父さんが死んだことを話していたか、分かってないでしょう」
「どんな顔って」「どんな顔?」
「それは……」
どんな顔をしていたろう。
他でもないお父さんが死んだ話だ。悲しい顔をしていた、はず。
「怒っていたのよ」
「え?」
「あなた、怒っていたのよ。ショコラ」
言われ、昨日のジェラートとの会話を思い出す。
「確かに、お父さんにも許せない部分はあるけれど」
「あるけれど、じゃないわよ。あなたは許せないから、復讐を始めたのよ」
「……どういうこと?」
それこそ、ジェラートに指摘されたとおりだ。自分の復讐の感情というのは、お父さんへの怒りと同居できるほどのものではなかった、はず。だが、そこの思い違いをしているから、今の忸怩たる思いがあるのだとすれば、納得できるような気がした。
「教えなさいよ」
「あらあら? もしかしてわたし、母親みたいなことをするチャンスなのかしら」
「母親だとは認めないけれど、教えなさい」
「あぁ、そういう意味じゃないわよ。母親でもないのに母親体験ができそうで楽しみって意味よ」
「ついに自称すらやめたのね」
もはや、ショコラには彼女がその場その場で面白いことを言うだけの快楽主義者にも思えて、何を教えてもらえるわけでもないのではないかと思うのだが、ダクワーズはすっかりその気だ。思案顔で天井を見つめる彼女は、ものを考えるときのクセなのか、手先だけで枝毛を探してはぷちりぷちりとやっている。
期待しないで足をぶらぶらやりつつショコラが待っていると、唐突に話は始まった。
「ねぇ、ショコラ。なんでお母さんがお母さんをやらなかったか、わかる?」
「急に気持ち悪いわね。お母さんとか言わないでよ」
「ねぇ、ショコラ。なんでお母さんがお母さんをやらなかったか、わかる?」
「あぁ、もう。わかったわよ、付き合うわよ」
どうやら、そういう遊びらしい。
「面倒くさかったからでしょ。そうに決まっているわ」
「あら、大正解」
「ねぇ、そんなことで嬉しそうに大正解なんて言う母親がいると、もしかして思ってる?」
半ば、本当に期待外れだったのかと思いかけたところで。
「さぁ、知らないわね。わたしも母親に捨てられたから」
ダクワーズの顔に張り付いていた笑みが消えた。
「売られたのよ、娼館に。私はあなたくらいの頃から娼婦で、娼婦以外の道は知らない」
「だから、決めたわ。小汚い成金の商人に犯されながら、わたしは娼婦として生きるんだ。母親が私を売ったお金の何百倍も稼いで、見返してやろうって」
「それからのわたしは頑張ったわ。ほとんどお金をよこさないケチな娼館のオーナーが、金を出さざるを得ないくらい働いて。それで自分を自分で買い上げて、それからも娼婦として稼いだ」
「チョコレィトも、その過程で会った金ヅルの一人だったわ。酒場で連れの男と飲み比べをして、見事に負けて。机に突っ伏していたから、これはちょろいと思って声をかけたのよ」
「そしたら彼、私が近づくなり、言うのよ。きれいな髪だって。今とそんなに変わらない、ひどい髪だったのに。それできっと乗り気なんだろうって思ったら、彼、お金すらろくにもってないじゃない」
「あまりにバカで、久しぶりに心から笑ったら、彼、それもきれいだって言う。きれいしか言葉を知らないのって聞いたら、ごめんもう無理って言ってゲロを吐いたわ」
「なんだか、まるで眼中にないみたいでイラっとしちゃって。意地でもこの男から娼婦として金をとろうって躍起になったのよ」
「そしたら、いつの間にか恋人になってたわ。いろいろあったけど、なにもなかったんだから、雑な説明になったのは許して。それで初めて、彼と愛し合って、そしたら、あなたができた」
「彼は喜んだわ。わたしも喜んだ。娼婦として働くのもやめて、この家で主婦のまねごとをしてた」
「だけどね、ある日気づいたのよ。これはわたしじゃないって。別に、わたしである必要がないのよ。彼はもちろん否定したけれど、わたしが必要としていないんだから仕方ないじゃない」
「わたしは娼婦よ。誰に強制されたわけでも、性欲に脳みそがやられたわけでもなく。わたしは娼婦としてやることがある。娼婦としてお金を稼ぐことに意味があって、それがわたしの夢なんだから」
「だから、わたしはあなたのお母さんはやらないのよ。子持ちの娼婦なんて、重いにもほどがあるもの」
「もし、この場にまだチョコレィトがいても、それで何を言われても、私はこの生き方を変えるつもりはなかった。わたしはここに、自分の生き方を守るために、チョコレィトを利用しに来た。そしたら、あんたに出会っちゃったんだけど」
まったく、当てが外れたわ。人生を吐き出し続けたダクワーズはそうして一息ついた。
「そう、ショコラ。お母さんの人生を聞いた感想は」
「自己中心的で、最悪の人生ね」
「だからこそ、わたしにとっては最高の人生なのよ」
ダクワーズは断言する。そこには決して揺るがない芯があって、ショコラの喉まで出かかっていた一般的な正しさは、出るまでもなく引っ込んでしまう。
「ロバに歌えば屁が返るなんて言うけれど、それはロバの価値観を考えない傲慢な言い方だわ。為政者が変われば法律も変わるように、何が良くて何が悪いかなんて、結局一個人の価値観。だったらわたしは、自分の価値観で人生を歩む」
めちゃくちゃな理屈だ。しかし、身に覚えのある理屈だ。
だから、ショコラは彼女の言葉に引き込まれる。
「だけどね、ショコラ。こういう人生を歩むなら、一つだけ忘れちゃいけないことがあるの。まぁ、それを忘れたから、あなたが産まれたわけだけど」
ダクワーズは言葉を切る。今からくる言葉が、本当に彼女の伝えたいこと。
「自分の価値観は、誰より正しく自分が理解するのよ、ショコラ。あなたに今必要なのは、それ」
「そんなの、分かってるのよ。だから、教えなさいって言ってるの」
「そうよね。だけど、答えだけ教えるのもつまらないじゃない」
そう言って、彼女はいたずらっぽく笑った。どこか少女っぽいその笑い方は、彼女の年齢にはそぐわないが、もしかしたら彼女は、娼館に売られた十二歳のころから、何も変わっていないのかもしれないと、ショコラは思った。純粋に、曲がることなく、自分を生きている、それがショコラにはうらやましくて。
「お願い、教えてよ」
ダクワーズの手にすがった。初めて、ショコラは初めて、お母さんに甘えた。たとえそれが、ごっこ遊びのお母さんでも。
「仕方ないわね。今回だけよ」
秘密にする相手もいないのに、しぃーっと指を立てる彼女は、確かにショコラのお母さんなのだから。
「あなたが復讐したい、その本当の相手はね」
――その時。
二人の間に、球体上の何かが落ちる。何かしら、とダクワーズは拾い上げ、ショコラは天井を見上げる。
通風孔だ。火を焚いても問題のないよう、展示鵜から地上までつながる通風孔から落ちてきたのだ。
そして、ショコラはダクワーズの持つ球体を見た。見覚えがあった。
「捨てて!」
それは導火線のない、魔法式の火薬玉だった。
◇◆◇
かちりと火打ち石を打ち鳴らすように、ショコラの意識は急速に覚醒した。
ひどく立ち込める火薬の匂いに、何があったのかを思い出す。耳の中には爆破音の残響がひどく残っていて、脳みそを刺すようだ。頭を振って追い払う。
だが、自分の体に痛みがない。どうまさぐっても、一切の怪我をしていない。
あの至近距離で、どうして。
実際、気を失っていたのは爆破の音によるものなのだ。だのに、怪我はない。
その違和感は、すぐに解消された。
「ダクワーズ?!」
ベッドの上に、丸まった背中が倒れ伏している。そして、彼女の向こう側だけ、破壊力の嵐に部屋は荒れ果て、所々に炎が燻っている。
人体は爆風に対して、有効な盾になるのだと、かつてヌガーが言っていた。
「何やってんのよばか!」
勢い任せにショコラはダクワーズの体を仰向けにさせて、そして、悲鳴を飲んだ。
火薬玉を、そのまま抱き込んだのだろう。形の良かった胸は見る影もなく、あのわざとらしかった口紅は、下顎ごと吹き飛んでいる。
弱りきった瞳が動いて、ショコラを映した。ひゅうと音が鳴って、その間抜けな笛の音みたいなものが、呼吸のそれだ。
「何やってんのよ、ばか……」
また、ひゅうひゅうと鳴る。返事をしようとしたのだろう。明らかに苦しげで、ショコラはふるふると首を振る。
「そんなんじゃもう、娼婦、やれないでしょ」
例え命を繋いでも。顔の欠けた娼婦がいるものか。自分の火傷なんて非じゃない。彼女は自分を守るために、命より大事なものを差し出したのだ。
「母親、やらないんじゃなかったの?」
これは明らかに、ごっこ遊びでは釣り合わない。彼女の最高の人生をぶち壊す、最悪の冗談。
「自分の価値観で人生を歩むって、そう言ったじゃない」
ウソつきだ。とんでもないウソつきだ。
ショコラの頬を一筋、伝う。指で掬うと、それは涙だ。ショコラは悲しみを覚えていた。
それは、なぜか。自分はダクワーズを母親と認めていたのか。こんな、大ウソつきを。
もはや、ぐちゃぐちゃの感情ではわからない。
「ねぇ、あなたもまた、わたしを置いていっちゃうの? 答えだって、まだ聞いてないじゃない……!」
次第に力を失っていく体を、ショコラは抱き寄せて、嗚咽した。
ふと、ダクワーズの手が動く。片手をショコラの顔へと伸ばしてくる。そんな彼女の遺志をちゃんと受け取ろうと、真正面から見据えるショコラ。
ダクワーズが最期の力で触れたのは、ショコラの艶やかな銀髪だった。
掌に一房を取り、親指の腹で愛おしそうに、有り難そうに撫でて。それで終わり。
彼女の手は生命力というものを使い果たして、ぼとりと落ちた。
「なによ、それ。わかんないわよ」
この動きの意味も。
彼女の用意していた答えも彼女の伝えたかった想いも何故自分を守ってくれたのかも。
ショコラには一切わからなかった。
わかるわけがなかった。
溢れる涙。ぎりりと食いしばる奥歯。
胸の奥から湧き上がるこの感情には、覚えがある。
お父さんの時にも感じたこの感情。
これは、復讐心だ。
今度は間違えない。わたしの復讐心とは怒りなのだ。
わたしだけの、間違えようのない。生きる価値観。
ダクワーズがその身を持って伝えてきたものだから。
「ばかね。ほんとうにばか」
二重扉の向こうから微かに聞こえる、これは足音だ。きっと実行犯が、その結果を確認しにきたのだ。
ショコラは自分と同じルビーの瞳を閉じてやり。元素魔法を行使した。泥水の枠が彼女をコーティングしていき、欠けてしまった部位を復元していく。
それでも、今日会ったばかりの彼女を再現することなんてできないのだが。
「あの世で娼婦をやる分には、充分でしょ」
ショコラは本心からそう吐き捨てた。一般的な女性像を取り戻した彼女を、ショコラはベッドに、チョコレィトのベッドに寝かせてやって、立ち上がる。
二重扉の一枚目が開かれた、鉄門扉の軋み。
「さぁ、やってやるわよ」
道は決まった。なら迷わない。
復讐とは。正しく、真正面から叩きつけて、ねじ伏せるものだから。
わたしはわたしのために、悪い子にだってなってみせる。
「だから、まずは手始めに――」
ショコラは扉の前に立ち、迎撃の構えを取る。おそらく向こうにいる、敵を見据える。
「あなたの復讐から始めることにするわ。お母さん」
その呟きと同時、扉は開かれた。




