第二十八話 しがらむモノ
黒々とした水たまりの上に、彼女は立っていた。
触れずともわかる、泥水だ。彼女の使う魔法そのもの。それが果てしなく広がっていて、霧のような雨に紛れた一粒に、時折波紋を揺らす。その様を眺める彼女の髪を、水滴が伝う。煩わしそうに髪をかきあげて、そこで彼女はようやく気付いた。
自分の銀髪が、ツーサイドアップに結われている。
ショコラは泥水の上に膝をついて、自分の顔を写した。そこには間違いなく、短くする前の長さの銀髪があった。それだけじゃない、ドレスだって、エスプレッソ色のあのドレスだ。
ぱっと彼女は立ちあがった。お父さんからもらったドレスをむやみに汚すわけにはいかないからだ。できることなら、雨にだって濡らしたくなかった。見渡す限り、何もないけれど。
せめて歩いてみれば、雨をしのげる場所があるかもしれない。
そう思い、ショコラが一歩を踏み出すと。
「きゃっ!」
踏み込むそばからずぶずぶと沈んでゆく。慌てて引き抜こうとすると、今度は硬い感触が万力のように、ふくらはぎを締めつけた。
彼女の柔らかな筋肉を圧断しようと食い込むそれは、巨大で黒々とした人間の歯に見えた。
「なによっ、これ!」
泥水は、人の顔をかたどっていた。ショコラの足はその口腔に飲み込まれようとしている。その奥から漂う腐敗臭にショコラは思わず怯んで。
瞬間、力の抜けた片脚が、さらに深く口腔に飲み込まれた。
「きゃっ!」
必然、均衡の崩れた上体が、泥の水面に浮かぶ顔面へ倒れ込む。
その先にあるのは、卵白みたいに白く濁った眼球。憎悪を乗せた視線。
ぷつり。
カナブンを踏みつぶしたような、嫌な感覚に包まれて。
飛沫が飛び散った。泥の水面に浮かんでいた顔は弾け飛んで、足の拘束も外れ、すっぽ抜ける。無様に地面を転がるから、湿ったドレスが肌に張り付いて不快だった。
ようやく仰向けになったショコラは、数多の泥人形に囲まれている。
「おまえがころした」
「おまえにころされた」
「おまえのせいでしんだ」
見下ろす彼らの顔は黒々とした能面。口などないのに。
「だれのためにしんだ?」
「おまえのためにしんだ」
「おまえのためにしんでやったのに」
いや、彼らの顔には、ちゃんと顔がある。少なくとも、ショコラのルビーの瞳には映り込んでいる。
あれはショコラが初めて殺した男の顔。力加減がわからず、全力で放ったパレが側頭をえぐり飛ばした。
ピンクの脳漿がたらりと溢れて、ほおにかかったように感じた。雨水だった。
あれはタミゼ。
理不尽だ、納得できないと叫ぶ彼には鬼気迫るものがあった。迫る鬼気はついに口の中から顔を出し、人間としての顔は引きちぎられて悪魔になった。
中には魔獣もいる。
狼の頭は次から次に増殖して、首からこぼれ落ちた一つ一つが、彼女の周りでピラニアのようにのたうちまわっている。
「なぜ」「どうして」「なんのために」
「ごめんなさい……」
「おれたちは、しんだのだ」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
ショコラは顔を覆って泣きじゃくった。なぜって、言い返す言葉がなかったから。
復讐のため、自分のための殺人をしてきてしまった自分が、今その『自分のため』すら投げ出している。
罪深いという言葉すら通り越して、自分自身が罪そのものだと言われても、今のショコラは認めてしまうだろう。
それでも、彼女は立ち上がらなかった。膝を抱えて丸くなり、胎児のようになって謝り続ける。
そのうち、彼女の身体は燃え始めた。ドレスは見る見るうちに焼け落ちて、彼女の髪は元通りに短くなっている。
右半身をグロテスクに彩っていた火傷痕が復活して、そこから吹き出す炎の舌が、泥人形を焼成して、物言わぬインテリアに変えて行く。
そうして、彼女の耳に満ちていた粘着質の呪詛が消える頃には霧雨も上がっていた。
泥水の大地は乾燥してひび割れて、彼女はようやく目を開く。差し込む太陽に、短く悲鳴を上げた。
「まったく」
そして、それを見下ろす声。
「我ながら情けないとは、思わないのかしら」
血染めの赤黒いドレスから埃を払う、それは、自分だった。
◇◆◇
布団の温もりが、暑苦しく自分を包んでいる。汗ばむ不快さに目を覚ませば、ショコラはパティスリー二階に与えられた自分のベッドに寝かされていた。
彼女は自分の衣服が寝巻きでないことに、今が朝でないことを悟る。夢見に引きずられた鬱屈とした心に、敬意というやつがぽこりぽこりと浮かび上がってきた。
彼女の部屋のドアが、遠慮がちに開かれる。
「あ、ショコラさん。目が覚めました?」
いつもと変わらぬ微笑みで入ってきたのは、スフレだった。
「えぇ……えぇ。ごめんなさい、迷惑かけたわ」
「いいんです。気にしないでください」
「気にするわよ。朝だって、いっつも起こしてもらってるのに……」
「気にしないでくださいって、言ってるじゃないですか。ほら、ひどい汗ですから、拭いますよ」
「……もう起きたんだから、自分でやるわよ」
「あっ…………それもそうですよね!」
自分の手に持った濡れタオルとショコラを見比べたスフレは、急に顔を赤くして早口に言った。
慌ててドアを閉めて、再び開ける。手に持ちっぱなしだったタオルをショコラに押し付けて、今度こそ本当に部屋から出て行った。
ショコラはその様子をぽかんと見ていたのだが、ドアが再び閉まってから、思わず笑みをこぼした。
「ありがと。スフレ」
「ーーどういたしまして」
ドア越しの声は、中性的な魅力を持つ彼の普段とは違っていて、ショコラにとってはまた、おかしかった。おばさまがやられてしまうのも無理はないわねと呟く胸中は、先ほどまでと比べて格段に軽いのだが。
身体を拭こうとして自分の身体を見下ろせば、いやでも火傷跡が目に入る。美しいアゲハも、きっとサナギを捌いてみればこんなグロテスクが詰まっているのだろうという、醜さ。
ショコラにとっては罪の象徴だった。
いまだにタオルで擦るとくすぐったかったり、擦れて痛かったりするそこを、ショコラはあえて乱雑に拭った。痛みを感じたつつも、無心で拭った。
「あ、そうだ。ショコラさん」
「どうしたの?」
「あんまり強く擦っちゃダメですよ。女の子なんですから」
「……わかってるわよ」
一度、タオルに血を滲ませてしまってからは、スフレに止められているのだけれど。
どうせ見えていないからと思いっきり頰を膨らましてやりつつ、簡単に顔や腕、脇を拭った。
そして衣服を整えてから、ドアの外のスフレは声をかける。
「お待たせ。入ってちょうだい?」
すると程なく、スフレが顔を覗かせた。
「スッキリしました?」
「あら。口うるさいお母さんがいなければ、もっとスッキリできたのだけれど」
「お義母さんのことですかね? あとで伝えておきましょう」
「ごめんなさい。悪かったと思ってるわ」
租税を納める農民の心地で使い終わったタオルを差し出すと、スフレはその生地を検める。隅々まで確認して、「いいでしょう」とのお言葉。
汗を拭いただけとはいえ、自分の身体を拭いたタオルをそこまで観察されると、なんだか気恥ずかしいショコラだった。
毛先を指先で弄びながら、口を開く。とりあえず、詫びるべきを詫びるのだ。
「今日はごめんなさい。ちょっと、気持ちが止まらなくなっちゃって」
ただ、こういう時の謝罪を受け入れないのがスフレだった。
「そういう時もありますよ。そんなに謝られると、僕の方が謝りたくなります」
「そうは言っても」
「なら、ありがとうございますって言ってください。そっちの方が嬉しいです」
結局いつも、この理屈にたどり着いて、ショコラはお礼しか言わせてもらえない。今日もつられるまま、「ありがとうございます」と言いかけて。
今日はたまたま、彼の優しさが意地悪に感じられた。
「……だってそんなの、いっつも言ってるんだもの」
「……あはは。そんなことない、ですよ」
本当に、ショコラはスフレに支えられてばかりなのだ。もどかしさがいじけた口調となって言語化されたものなのだが。
スフレはショコラの予想外に、不本意そうだった。いつも絶やさない微笑みがぎこちなくなって、何より返答が少し的外れだ。
「スフレ?」
ショコラはスフレの顔を覗き込む。
彼は何度か口を開いたり閉じたりして、なにごとかしゅんじゅんしているらしい。ショコラにはその正体がまったくわからなくて、待つ以外にない。
やがて、彼は決断した。
「ショコラさん。僕は本当に、あなたの役に立てていますか?」
ショコラはあまりにもあんまりなその質問に、反射的に答えようとして。
「何よ急に。そんなの」
「当たり前じゃないですよ」
その言葉に重ねられる。
「ショコラさん、僕に本当のこと、話してくれないじゃないですか」
ショコラは、胸をつかれる思いだった。
そうだ。自分はここまで尽くしてくれる彼に、何も真実は話していない。悪魔にうなされていたのであろう自分を気遣ってくれていた彼に、何を話すつもりもなかった。
それはもちろん、彼を巻き込むわけにはいかないからではある。
だとしても、それはショコラの事情であって、スフレからすれば信頼を感じられないのだろう。
あなたのためだと、そう言ってしまうのは簡単だ。
ただ、まったく相手を責める気配を見せず、むしろ聞いてしまった自分を後悔するように唇を噛むスフレに、そう言ってはいけない気がした。
なぜ、そういう気持ちになるのか。
考えてふと思い当たる。それは、何も知らないうちに父が死んでしまった自分の感情と、重なる部分を感じているからなのかもしれない。
自分の真正面に立ったスフレに返す言葉を、ショコラは決めきれない。
ならば。
「気のせいよ。秘密なんてないわ」
「……そう、ですよね」
項垂れるスフレを見ていると心が痛むショコラだが、曖昧な感情で曖昧に危険のタネを撒くわけにはいかない。
肩を落としたスフレが、ショコラのベッドの足元に座る。右手を伸ばそうとして、こんな手で触れていいわけがないと引っ込める。
「ショコラさん、知っていますか?」
「えっ?! 何を?」
その途端にスフレから声をかけられるものだから、素っ頓狂な声をあげてしまう。
スフレは構わず続けた。
「今度、貴族式典があるんです。今回は広間で五大老が魔法のパフォーマンスをするというので、その人だかりを狙った出店もいっぱい出るそうですよ」
「えぇ、そりゃ、聞いたことはあるけど」
というか、今日の朝にショコラの目の前で話していたのは、まさにその式典に向けた準備の話ではなかったか。
基本、裏で行われる貴族たちだけのパーティがメインとなるイベントなのだが。今回はどうも、民衆向けのデモンストレーションも兼ねているようで、そこに金の匂いを嗅ぎつけた街の商人たちは様々に動き出している。
「それが、どうかしたの?」
「よかったら、僕と一緒に見に行きませんか?」
「えぇ、それは、素敵だけど……」
ショコラが自分の右手を左手の下に隠す。
この火傷が多くの人に見られるのだと思うと、胸の奥がきゅっとなる。
「僕がずっとそばにいます。ショコラさんの右側に立って、僕が壁代わりになりますから。それで、いつもみたいに頭巾を被ってれば、ぱっとショコラさんの火傷に気づく人も少ないですよ」
「でも……」
「きっと、大勢の人が集まります。そこで外に出られたら、ショコラさんの自信になると思うんです」
「それはそうだけど」
いつになく自分の意見を言語化してくるスフレに、ショコラは面食らっていた。足元に座っている彼の背中しか見えていないから、表情も見えない。
「そしたら」
だが、見るまでもなく彼は。
「きっともう、ショコラさんも泣かなくてすみます」
自分のことを、考えてくれているのだろう。
本当に、どれだけありがとうを言っても足りないくらいだ。自分より自分のことを考えてくれているんじゃないかとショコラは思う。
自分のことは自分が一番考えるべきだと思うショコラだが、スフレに関しては、くすぐったい気持ちになる。嬉しいのだ。
ショコラは、この後に及んで震える右手をぎゅっと握った。
いつまでもこのままでいいわけがない。自分が謝ってばかりで、スフレと対等でいられるわけがない。
こんなに大事な人と対等でいられないなんて、嫌だった。
ショコラは余計な葛藤を追い出すように息をつく。
「わかったわ。いくわよ」
「本当、ですか?」
スフレらしくもない弱々しい確認の声。
「行くわよ。わたしに二言はないもの。行くったら行くわよ!」
なんだか珍しくて、ちょっと調子に乗るショコラ。
「ほんとですね? 嘘じゃないですね?」
「バカにしてるの? あったりまえじゃない!」
「そうですか……」
しかしここまでくると、ショコラも違和感を感じ始める。もしやと疑いの視線を向けるや否や、スフレはすっくと立ち上がった。
振り返った彼の顔には、いつもの笑顔がある。
「これで、言質は取りましたからね。絶対に、外に出てもらいますよ」
「え、うん。出るけれど」
「いやぁ、良かったです。たまには演技もしてみるものですね」
照れ臭そうに鼻頭をかくスフレに、ショコラは眉を潜めた。
「えんぎ……?」
「はい、演技」
抜け抜けとスフレは言う。
演技。演技とは。演じることである。偽りの感情を、さも本物のように見せることである。
「つまり」
つまり。
ここまでのショコラの葛藤というのは。
「はい、そうです」
全て、スフレの嘘に基づいており。
「今までのは全部」
全部が全部。
「演技です」
スフレの掌の上……?
目線で確認を取ると、スフレは楽しげな笑みを深める。深めやがった。
「ふざけんじゃないわよ、このすけこましっ!」




