第三話 ビスキュイ
魔導王国エウロパは、魔法によって護られた王国だ。それは別に、魔法の恩恵で生活するだとか、そういった比喩ではなく。文字通り、魔法という武力に護られた王国なのである。
血統により適性の分かれる五大元素魔法を最大限活用するための、戦略としての貴族制。五大元素の精霊に愛された血脈が、その持てる時間の限りを尽くした大魔法や魔導兵器は、戦争を天災へと引き上げた。
隣り合うヤープ共和国やアガペル聖火教国、東の遊牧民族トレスタと結ばれた不可侵条約が、明らかに不平等なのはそのためだ。
世界は確実に、エウロパを軸として回っていた。
なればこそ、他国がエウロパの魔法技術を盗み出そうと躍起になるのは、自然の帰結だったろう。
対して、エウロパは五大元素魔法研究の機能を王都フランツに集約。太陽にも劣るまいという巨大な元素魔石を一色ずつ、寝そべったドラゴンを優に超えるだろう半径を持つ円周上に配置した、魔導城塞都市に。
以来、王都外での一切の研究を禁じてまで、情報封鎖を敷いたのだが。結果として余計に高まった情報の価値に、国を裏切る貴族が出始めてしまったのは、笑えない皮肉だ。
「いやぁ、本当に。貴族のお偉方の考えることはわからないな、ショコラ。それとも、俺には毎朝のバゲットにたっぷりのコンフィチュールを乗せられるような余裕がないから、わからないんだろうか」
「知らないわよ。あなた、わたしみたいな女の子と話す話題、間違えてる」
「……それもそうだな。お前さんみたいな子供と話すことじゃあなかった」
「そうよ。だから、わたしみたいなお子様にもわかるお話しをしてちょうだい」
彼らは、そんな貴族たちを『悲しい殺人事件』として始末するための、暗殺者だった。
ふん、と気取ったショコラと、話題を探すくらいならと黙るヌガー。タミゼの始末をつけ、行き掛けの駄賃に人狩りと話をつけた彼らは、まさに裏ギルドに帰るところ。久しぶりの王都に、ショコラの足取りは軽い。
円形に作られた王都フランツに、放射状に伸びた大通りの、一本隣り。高くても二階まで、と定められた市街地が日の光を妨げることはないが、狭いその道には圧迫感がある。大通りを歩きたいのは山々だが、そこでは折悪く、貴族様が自慢の魔導四輪でお散歩をしていて、避けるように裏道へ入った二人だ。
普段、人力車を押す手助けや、調理における加熱など、些細な事象魔法しか扱わない民衆のざわめきは、そんな二人の耳にも届く。貴族とはつまり、大衆の憧れであり、強大そのものなのだ。
対照的に静かなショコラとヌガー。あくびを噛み殺しながら、スーツの襟を正すヌガーに、やがてショコラが不満げな視線を送る。
「……ねぇ」
唇を尖らすショコラ。
「どうしたんだ」
「もう別に、なんでもいいから。話しなさいよ」
「あぁ、寂しくなったのか。寂しくなったんだろう。いつもそうなら可愛いんだ、ショコラは」
「んもう! またバカにして!」
わしゃわしゃとぞんざいに。銀色の頭を撫でるヌガーに、ショコラは抗議の両手を振り上げる。ぽかぽかとヌガーのキャラメル色のスーツを叩くが、振りほどこうとはしなかった。しばらくの間、ヌガーは微笑ましげに撫でり撫でりとしていたのだが、ショコラの手に本格的に力がこもり始めたのを感じて、手を放す。
「まったく、油断も隙もない!」
「いいだろう、別に。お前さんは子供で、俺は大人なんだ。そして、大人は子供を可愛がるもんだ」
「だとしても、わたしとあなたは同じ人間で、パートナーでしょ!」
地団駄を踏むショコラに、流石にやりすぎたのかとヌガーはスーツのポケットに手を伸ばす。取り出したのは、ツルツルとした包装紙に包まれた立方体。それは、甘く煮詰めたフルーツに、リンゴの搾かすから取れる成分を加えて固めた、パート・ド・フリュイだったのだが。
ショコラはすげなく断った。
「あなたの手、ヘアオイルの鼻に抜ける匂いがひどいもの」
ヌガーは少し、しょぼくれた。自分の手の中で行き場を失った菓子を手の上で転がして、やがて自分の口の中にしまい込んでしまってから、彼は小さなお姫様に差し出す品を変える。
「なら今日は、『パティスリー』についたら好きなだけマカロンを食べたらいい」
「えっ、本当に?!」
ヌガーの、スーツの内ポケットに入れた残金を考えながらの言葉に、ショコラのルビーの瞳がわぁっときらめく。ヘアオイル臭いと言った手を強く握って尋ねるショコラに、たじろぐヌガー。
「……あぁ、好きにするといい。どうせ、俺も長い話がある」
そう聞いて、嬉しそうに胸の前で手を合わせるショコラに、ヌガーはべたつく髪の毛を撫でつけた。
「やった! あなたが破産するまで食べ続けてあげるから、覚悟しておくことね!」
「冗談だと信じてるよ、お嬢さん」
苦笑するヌガーを置いて、ショコラはスカートを揺らしながら駆け出していく。
◇◆◇
『パティスリー』とはその名の示す通り、庶民向けのお菓子屋さんである。別に、貴族御用達とかではなく。雑貨屋や生鮮店の並ぶその中に、ぽつんと砂糖の香りを漂わす、暖かい木製の店構えだ。
その木戸を押し開けると、鉄色の小さなベルが歓迎の音色を鳴らした。
「あら、いらっしゃい……って、何だい。ヌガーじゃないか」
「何よ、とはご挨拶だろう、マスター。俺の知る限り、このお店1番のお得意さんは俺だったはずだ」
「そうだったかねぇ? お前はいつも、持ち帰り用のフリュイを少し買うだけのくせに」
「あぁ、そうだな。そうだろうとも。だけどマスター、俺が来る時についてくるお転婆を忘れたわけじゃあないだろう」
「まぁ、そりゃあね。だからそれこそ、ご挨拶なんだよ」
「……一本取られたのか、俺は」
「アタシに勝とうなんて、あとバウムクーヘン十本分は生きてから考えなさいな」
ヌガーが肩を竦める先、ニヒルに笑う女性が一人。マスターと呼ばれた彼女は、名をビスキュイといった。
その名の通り、ビスケットかスポンジ生地こように肌から潤いが失われてきたことを気にする、痩身の女性。近頃、庶民の間にも流通し始めたガラスを一面に使ったショーケースの向こう、冬の立木のようにヌガーを出迎えていた。白髪まじりの黒髪を後ろで一つにまとめ、目元にシワの刻まれたその顔は、露骨に表情を示す。
「こんにちは! ビスキュイおばさま!」
「あら、こんにちは。ショコラは今日も元気だねぇ」
だから、ショコラがヌガーの影からひょこりと顔を覗かせると、ビスキュイは途端に相好を崩したのは、言うまでもない。目尻を下げ切ったその顔は、聖母か何か。
「相変わらず素敵な香り……。今日はねおばさま、ヌガーが好きなだけマカロンを食べていいって言うのよ」
「なんだって? ヌガーはそんなことを言ったのかい? あんな葉の裏に張り付くような男の金、好きに使っていいんだよ?」
「……はぁ」
ヌガーはすっかり目を覆う。この場にショコラを連れてきた時点で、ヌガーの居場所はないのだ。
ショコラはショーケースにおでこを擦り付けんばかりに近づいて、一個一個のお菓子を見て回る。パステルな色合いの並ぶそれらは、価格設定こそ高いものの味は確か。普段から買いに来る人はいなくとも、祝祭日には人が押しかける。
その価値を知っているから、ヌガーはスーツのうちに手を伸ばして残金を確認するし、その味を知っているから、ショコラは腕組みまでして真剣に悩むのである。
「おばさまおばさま。このパウンドケーキ新作みたいだけど、何が違うのかしら?」
「あぁ、それかい。それは試しに、卵と砂糖を混ぜてから、最後にバターを入れているやつでね――」
ルビーの瞳いっぱいにケーキやデザートを写す少女と、その質問に喜色満面で答える初老の女性と。それこそ姪と叔母の微笑ましいワンシーンに見えなくもないが、現実は違う。
「それじゃあおばさま? こっちは――」
「ところでショコラ」
ショーケースの上からニコニコとショコラを見下ろしていたビスキュイの声が低まる。
エプロンに伸ばしていた彼女の手が、風切り音を残して消える。もとい、振り抜かれた。
「おばさまって呼ぶんじゃないって、何度言わせたらわかるんだい?」
「……ごめんなさい、ビスキュイおねえさま」
はらりと舞ったショコラの銀髪。
自分の後ろで木床に突き立ち、びーんと振れるケーキナイフに脅されるように、というより実際に脅されて、ショコラが訂正する。童話の魔女のような恐ろしいビスキュイの顔は、一瞬でにこやかになった!
「……俺は人生経験がないからそう思うのかもしれないが、どんな経験をしたら年端もいかない少女を刃物で脅せるのかには、興味がなくもない」
「ふん、もっとシンプルに、大人気ないと言えばいいじゃないか」
「言ったら、俺にもケーキナイフが飛んでくるんじゃないのか?」
「アタシは、アタシを正しく評価しないことを許さないだけさ」
「大人気ないって自覚はあるのか……」
ふん、と顔を背けるビスキュイに対して、「おばさまというのも正しい評価だろうがな」という言葉は飲み込むヌガー。腰が抜けてしまってあわあわとするショコラの脇に立ち、手を貸してやりつつ。
「それでマスター。注文なんだが」
「言わなくてもわかるけどね。ルールだから、早く言いな」
せっつかれつつも、ヌガーはすっかり意気消沈したショコラに硬貨をいくらか握らせてやる。その数を一つずつ数えて、「いつもより多いけど?!」と声のトーンを高めたショコラに、「約束だからな」と返してから。
「いつものやつだ。とっておきのギモーヴをくれ」
「味はどうするんだい」
「なんでもいいが、赤いやつはもうこりごりだ」
「じゃ、選ばせてやるからこっちに来な」
ビスキュイはショーケースの端、跳ね上げ式になっていたそこからヌガーを招き入れる。店に入った時とおんなじにお菓子を選び始めるショコラを置いて、二人は店の奥へと消えていった。
別にショコラとビスキュイは姪と叔母なんて暖かな関係ではないし、ヌガーだってただの客ではない。
ここは『パティスリー』、表向きでは甘いお菓子を売りつつも、裏ではとても子供には見せられない仕事を斡旋する裏ギルド。
そして、そんな裏ギルド『パティスリー』のギルドマスターこそ、ビスキュイだ。




