第二十三話 名前
「黒い黒いとは思ってましたけど、ゴキブリの生まれ変わりだったんですか」
「違う。そんなことより、務めを果たせ」
口をつく強がりとしての嫌味、クーリは頰を痙攣らせる。クリオロの登場は、しかも、何十人にも分身しての登場は、完全な想定外だった。同じ背格好、同じ姿の人の壁が行手を阻んでいるのは、出来の悪い悪夢の中にいる錯覚すら引き起こす。
魔法がタネであることは、クーリにも察しが付いていた。けれども、いかに無から有を生み出す元素魔法とはいえ、人の命までは作り出せない。
すると、フォラステロが殺し損ねたことになるのだが。クーリは、あの男がそんな間抜けをするとも思えなかったし、胴体を確かに真っ二つにしておいて『殺し損ねる』も何もない。
エスト村へ向かうことを阻まれた焦りと、敵前逃亡を目撃されてしまった焦りと。その二つがかき回すクーリの脳は、理屈に合わないクリオロという存在に空転していた。
「どうした。あの男を殺せ」
クリオロは相変わらず要点だけを口にする。頭髪と口布の隙間から覗く黄色い瞳には、温度がなかった。
それがむしろ、クーリの思考の熱を冷ました。とりあえず、すぐさまこの場で処罰の類を受ける心配はないらしい。
余裕のできた彼女は背後に視線をやった。そこには、クーリと同じく人の壁に直面しているフォラステロがいる。嬉々として斬りかかりそうな人間と思っていた彼女は内心で驚く。
やはり、彼の軽薄な言動は一面に過ぎない。事実、クーリとの戦いを楽しむ上でも、逃げるための策を打っていたのだ。
と、すれば。フォラステロと決着をつけるまで戦って、万に一つもエスト村へ間に合う可能性は。
「……あの。クリオロ、さん」
「なんだ」
クーリは慎重に言葉を選ぶ。交渉などできた立場ではないと承知しているからだ。
「この男には、部下がいます。四人です。金目のものを持っていった二人と、村に、魔獣をけしかけた二人。迷彩魔法で姿を隠せて、最悪風の元素魔法で素早く移動できる私は、彼らを追う方が適しています」
「つまり、なんだ」
「フォラステロの相手は、クリオロさんにお願いさせてはいただけませんか」
「……なるほどな」
言葉の一つ一つで紡いだ細い綱の上を渡る感覚。端的な一言でもって瞑目するクリオロに、クーリは腹の底で嫌な重みを感じる。
苦しい言い訳だった。自分に指示を出す立場の人間に、代わりに戦えと要求しているのだ。通ったとして、結局クーリがすぐにエスト村へ向かえるわけではない。
ただ、クリオロの言葉少なに要点のみを述べる様は、合理性の現れだとクーリは解釈していた。ならばまだ、明確にメリットを持つこの案は通るのではないかという、一縷の望み。
「今、その提案は必要なくなった」
クリオロは平坦に言った。
必要なくなったという物言いをクーリが図りかねていると、クリオロの作る壁が割れて、白い木々の奥から新たなクリオロが歩いてくるのが見える。両肩に何かを担いでいる。
どさりと置けば、かちゃりと鳴る。
クーリの顔に理解が浮かんだ。じわじわと苦味が広がり、口を覆った。
――してやられた。
あれは、まさに彼の部下が持ち逃げしたインゴットの袋だ。
「クーリ・グラス。お前の忠誠を問う」
まさか、クリオロの言葉通り、今回収して持ってきたなどというはずはない。元素魔法は視覚までは飛ばせないのだから、視界外で元素魔法を行使することはできない。こうして、明らかに魔法で自分を分裂させ、包囲した状態で。逃げてしばらく経った人間二人から目的の物を奪い取るなど、物理的な距離からして無理だ。
最初からクリオロは持ち逃げした男たちを捕まえていて、クーリに隠した。その意図はクリオロが口にした通り、クーリを試すことに違いないだろう。
「まだ二人、残ってますよね」
「お前の、忠誠を、問う」
悪あがきをしてどうにかなる相手でもなかった。
「忠誠は今も、誓ったままです。『あの方』は、私に名前をくれた人。エスト村を、ギルドハウスを、居場所をくれた人。裏切ろうなんて微塵も思ってません!」
「本当か?」
「えぇ、本当です」
チョコレィトは確かに彼女を救い出してくれたが、救け続けることはできなかった。不器用な表情で彼女の手に硬貨の入った巾着を握らせて、「わるい。これで、なんとかしてくれ」と言っていた。
彼の住処だった下水道区画を抜けて、日の当たる王都に出た。彼女には眩しすぎて、すぐに裏路地へ逃げ込んだ。
もらった硬貨が擦れる音に侍女の顔を思い出して、もう自分には頼るものがないのだと思い知って。
膝を抱えて小さくなっていた彼女にかけられた、穏やかな声。
「おや、どうしたのですか?」
五大元素の色にほのかに光るモノクルをかけていたのが印象に残っている。それが、クーリと『あの方』の出会い。
「信じられんな」
「じゃあ、どうしろって言うんですか」
もちろん、クリオロはそれを知らない。
クーリは自分の心の一欠片を踏みにじられた思いで腹立たしげに聞き返す。同時に、信じられないという自分の主観を、やけに断定的に言うものだとも思った。
そしてそれは、単純に客観的事実を伴うからだと思い知る。
「ならばなぜ、チョコレィトの娘が生きている」
自分の質問が無視されたことにすら気付かないほど、クーリは狼狽した。
「生かす理由もないのに、なぜ殺さなかった。チョコレィトの娘は押せば倒れるほどに弱っていたろう」
「それを何故、報告しなかった。もし仮に、チョコレィトの娘を組織のために生かしたのならば、隠す理由もなかったろう」
この一週間、クリオロはショコラについての調査を行なっていたのだろう。エスト村の人々はみな目撃しているのだし、調べればすぐにわかる。
クーリが嘘をついたのは、そこまで調べはすまいとたかを括っていたから。コンディトライがショコラに執着するのは何故か。
いや、それよりも――
「それは……」
今この状況。コンディトライへの翻意として、それが捉えられているのが問題だ。しどろもどろと目の泳ぐクーリの姿が、黄色いクリオロの瞳に映り込んでいる。
あの無機物のような瞳を動かすには、論理性が必要だ。脳内で組み立てようにも、組み立てる時間を見せてしまえば、その時点で信頼は戻ってこない。
「お前の忠誠を問う。クーリ・グラス」
いつの間にかまた一人、クリオロが増えていた。彼がクーリの目の前に突き立てる片手剣。森に投げ捨てられたクーリのものだ。
「戦え。忠誠を示せ」
視界は、そのただ一本へと狭まっていった。目眩と共に世界がその一本へと閉じていく。
この剣を取らねば。戦わねば。エスト村を捨てなければ。
エスト村のみならず、今のクーリの全てが失われることだろう。
クーリはコンディトライの一員としてこそ成立する。『ジェラート』も所詮、クーリの隠れ蓑として与えられたもの。
彼女の手が、柄頭に触れ。
「おい、嬢ちゃんよぉ! まさかこんな盛り上がらねぇテンションで、俺と殺し合うなんて言い出さねぇよな!」
恫喝するようなフォラステロの声に、指先がぴくりと跳ねた。
「それはつまらねぇ。あぁ、つまらねぇだろうよ。そしてお前もつまらねぇ。このクソ野郎どもはそもそも全てがつまらねぇって顔してやがる。そこに命を張る価値なんざありゃしなぁだろう」
「うるさい! 誰も彼も、あなたみたいにお気楽に生きてないんです!」
「あぁ? 俺は至って、マジメちゃんだぜ」
「っ!」
クーリが振り返ると、彼女の思うよりずっと近くにフォラステロが立っていた。微塵も、笑ってなんていない。脇腹のひどい火傷を風に晒しながら、彼女を見下ろす髭面。
「交渉だ、クーリ・グラス。俺の逃げる目的は、今あのクソ野郎が目の前に持ってきちまった。だからよ、俺はあいつをぶった斬ってぶった斬ってぶった斬りまくって、そいつを取り返さなきゃいけねぇ。お前も、それを手伝えよ。なぁ」
「誰があなたなんかと……!」
「じゃあ、他に誰かいるか?」
わざとらしく血塗れの左手でフォラステロが周囲を示す。太陽の光すら届かない曇天の下にいるのは、クリオロだけ。
返す言葉につまる彼女の耳に、ため息が届く。
「何をしている。やはり、お前は裏切り者か」
「そんな! そんなことは!」
「なら、早く断ればいい」
「ぐぅ……」
彼女の耳には、今も警鐘の音が響いている。エスト村が彼女を頼る音が。
どうしようもなかった。フォラステロに向かって口を開いても、その音が言葉を喉の中で押し留めてしまう。この時間が一番無駄だと理性が告げる。心が内圧と外圧で挟み潰されていた。
決まりきらない行き先を示すよう、彼女の爪先が迷っている。
「なら、報酬を出そう」
「報酬……?」
「あぁ、報酬だ。お前向けの」
三度、森の奥からクリオロが新たに現れた。甲高い喚き声と一緒だった。彼女の頭が冷える。聞き覚えがあった。でも、最近は聞く機会がなかった。
引き出されたのは、まだ幼い一人。
「しょう、ねん……?」
「んんーっ! んー!」
ジェラートが救けた、そういうことになっている、少年だった。猿轡をかまされ、手足を縛られた彼は、ジェラートの姿を認めるなり助けを求めようとして、つんのめって倒れた。
わざわざそれを助け起こすようなクリオロではない。少年は芋虫のような無様さで、地面の上でもがく。
「聞かれたぞ。お前がクーリだと」
「そんなはず、ないですよ。その記憶は……」
「何を言っているか知らないが、お前と俺の話を、聞かれたのだ」
不用意な言葉に彼女が口をつぐむ。その間に、クリオロの残酷な宣告。
「お前が忠誠を示すなら、生かしてやってもいい」
彼女の魔法で灰まみれの地面を、自分も灰まみれになって転がる少年。その上に一人のクリオロが馬乗りになった。黒いローブの中から伸びる細い腕には短剣。艶の消えた黒金の刃が少年の首筋を撫でる。
彼の目一杯に見開かれた瞳が、それを凝視した。死を直視した。
「ふざけないでください」
底冷えのする声。彼女の、ジェラートの足元がぴたりと定まる。クリオロを向いていた。
「そうだ。やつはふざけてるぜ、殺すしかねぇ」
「うるさいです」
調子に乗ってジェラートの肩に手を置いたフォラステロを、つれなく拒絶した。ぴしゃりと叩かれ、フォラステロは「おぉこわ」と愉快げ。がしゃりとエールム・エグゾスキュレを鳴らして、剣を構えた。
「言わなければわからないか? 逆らえば殺すと言っている」
「言わなくてもわかりますよ。わかっているからこうしてるんです」
ジェラートの思考は今、驚くほどクリアだ。
少年を守る。ただそれだけ。彼はあの暖かい村の象徴だ。彼女を慕ってくれる。こんな状況にあって、彼は私を、すがるように見上げてくれる。
チョコレィトもきっと、こんな気持ちで私を救けたのだ。
「私の広範囲の魔法は、あなたのソレと相性が悪いんじゃないですか? 悪いですよね? 悪いんですよ。だからあなたは、私を見定めるこの場に、その少年を連れてきた」
「……」
何を焼く、焼かないかは彼女の自由だが、それも見えている範囲にとどまる。クリオロたちという人の壁に遮られてしまえば、ジェラートには焼き払うなんてできなかった。
思考を証明するように、少年を隠してクリオロたちが壁を作る。
「フォラステロさん」
「なんだ? ステロって呼べって言ったろ?」
「あなたには後で責任を取ってもらいますが、まぁ、今はいいです」
「ひゅう、楽しみだ。デートに誘われちまった」
背後から聞こえる口笛にちらりと白い目を向けつつも、ジェラートは片手剣を掴む。これを向ける相手が、彼女の人生を大きく変えてしまうだろう。ただもう、迷ってはいられない。
『人を救ける』のか。『貴族を倒す』のか。答えは決まりきっていた。
彼女の原点に、最初から答えはあった。
眦を決する。ただ真っ直ぐなその一振りに、怒りの劫火を纏わせて。
「あーあ、これでもう私も終わりです」
クリオロに突きつけた。
せいせいとした顔で笑う彼女の名は、ジェラートという。チョコレィトという一人の男に憧れた、不運な少女だ。




