第十九話 豆パン
「夢……」
呟く。ジェラート、あるいはクーリが目を覚ました。額には脂汗が滲んでいて、彼女はそれを手で拭い、仰向けのまま翳し見る。夜明け前の薄闇では、ろくに見えなかった。
「どうせ夢見るなら、最後まで見せてほしいんですけど」
けれど、村の規則正しい生活リズムに慣れた彼女は必ず、このタイミングで起きてしまうのだった。あるいはこの時間が、かつて父が連れてきた『朝』の時間なのかもしれなかった。
彼女は忌々しげに舌打ちして、かさりと鳴るベッドから身体を引き剥がす。物見塔に登ろうかとも考えたが、そういう気分ではなかった。涼しく冴えた夜気に、寝汗が冷えて、彼女は身震いしつつ一階へ降りる。
普段はやってこない家主に慌てたのか、ネズミが一匹、厨房から逃げ出していった。多分、使っていない居室のベッドのどれかにでも住み着いているのだろう。
「今度、掃除しなきゃ」とジェラート。体良く後回しにした彼女は、木戸を押し開き外に出た。エスト村はまだ、寝起き間際の微睡の中にいる。
本当に、長閑な村だった。
もしこの村が川沿いにあって、領主の邸宅に付随する形で作られていたなら、こうもいかなかったろう。領主の目と鼻の先に暮らして、真に心休まるわけがない。
ただその分、領主宅を守る衛兵というのがこの村にはいないから。この村を守れるのは冒険者しかいない。
白森を挟むこの村などにギルドハウスが置かれているのは、食事のある場所を用意してやれば、貧乏な冒険者どもが勝手に村を守りに来るだろうという、貴族の傲慢で投げやりな考えに基づく。
ジェラートは改めて、自分の稼いだ金が作り上げた、村のぐるりを囲う木柵を見渡す。たとえ、いわゆるところの汚い金であったが、村人もそれを受け入れて、安心を享受している。
そも、『金に臭いがつくものか』ということわざもあるのだから、こののどかさを作り出したクーリの金はいいものなのだし、つまり、クーリは間違いなく人を救っている。
「私みたいな人は、いなくていいんです」
貴族の利益のために、苦しい思いを当たり前にしながら生きる人間は、いなくていい。
それがクーリの決意だ。貴族の持つ知識、その独占により発生する権力を、金銭に変換してクーリが再分配することの、大義名分。
そしていつか、人狩りに売られた私を救ってくれたチョコレィトのように……。
チョコレィトのように、そう、なるのだ。
名前のない少女は朝焼けを背負いながら、拳を固めた。
◇◆◇
それからの数日、村はいつものように穏やかだった。
ある日は、領主の元に作物を納めに行って、かわりに、領主様の特権たる大釜で村人全員分のパンを焼いてもらう日だった。
早朝、牛車が二台、ムームーと文句を言いながら並んで出て行くのを村人総出で見送る。その後は普通に農作業を始めるので、ジェラートもジェラートで警備に出た。
どうも、ショコラとの派手な戦闘が影響を与えたのは人間に対してだけでなく、魔獣に対してものようだ。ジェラートが森の縁、樹木の日傘がなくなって、ようやく生えることを許された背の低い緑をなぞるように歩いても、逃げていく影すら見えなかった。
おかげでジェラートは、散歩をするような心地で巡回をする。この前クリオロに出してしまった香茶を作り直すため、材料となる薄紫の花を見つけては詰んで歩く。
何度も屈んでは花を摘む。その繰り返しは存外と腰に負担がかかって――特に、ジェラートは無駄な重りが二つもついている――水か何かみたいに香茶を飲み干したクリオロがどんどんと憎くなった。気晴らしに、少し森の奥に入って魔獣を狩った。
昼も過ぎ、村に帰り着くころには、左手に花束を持っているように見えるほどで、女たちに「あら、可愛いじゃない」と笑われる。なんだか気恥ずかしくって、「放っておいてください」とつっけんどんなジェラートだ。
牛車が出払ってしまったから、今日はブーロゥを伐採しに行くこともできない。
ジェラートは降って湧いた暇を使って、摘んできた花を選別していく。一番香りの強い、開花直前の花はもうなかったので、その中でもまだ若い花を中心に選んでいった。
いつもは寂れたギルドハウスの中が、急に花の香りに包まれて、ジェラートはこの瞬間が好きで香茶を作っているとも言える。
そして、虫に喰われた花や、すでに香りの飛んだ古い花を外へと捨てたころ、村の方がやにわに賑やいだ。
朝に出ていった二台が帰ってきたのだろう。
どうせ、選別した花もしばらく風にさらして、余計な湿気を飛ばす必要がある。ジェラートは少し様子を見に行くことにした。
そこは、農村の女の戦場だった。
いつもは井戸端で一緒に洗濯物を踏んづけている奥様たちが、なるべく大きいパンをと押し合いへし合いして、牛車の荷台から手元の布袋へとパンを詰めていく。
まだ牛車には牛が繋がれているのだが、その人波に暴れ出したりしないのが何よりの幸運か。もしかすると、あの牛も恐れ慄いてしまって動けないのかもしれないけれど。
農夫たちはほとんどが野次馬に出てきていて、ジェラートが今まで何となく騒がしいなと無視していたこれは、どうやら村のイベントの一つだったらしい。
「うわぁ……」
思わずジェラートが声を漏らすと、離れて野次馬をしていた農夫の一人が彼女に気づく。
「なんだジェラートちゃん、見るのは初めてかい?」
「怖いだろう。でも、あれが本当の顔なんだぜ。うちではいっつもあんななんだ」
彼は中年らしくない悪戯小僧のにやけ顔で言うのだが、そんな彼の妻が一瞬、ぎろりと睨みつけるのをジェラートは目ざとく見つけてしまった。
「あはは、それはその、あはは……」
慎重は安全の母である。ジェラートは明確な一言を避けて、農夫から一歩離れた。
しばらくすると、一人、また一人と戦場から離脱する女たち。領主は村人の数に合わせてパンを焼くから、一人当たりのパンの個数も決まっているのだ。目当てのものを素早く獲得した強者から順に、戦場から離れていくという寸法である。
彼女らは自分の夫を見つけると、でっぷり膨れた布袋を、冒険者が魔獣の首でも掲げるみたいに見せつけた。夫は、それはもう必死に拍手する。先ほどの農夫は、そのまま振り回されたパンの袋で、遠心力とともに殴り付けられていた。野次馬どもは彼を指差して笑う。
たかがパンに無様に殴り倒される夫を見てせいせいしたのか、その女は怒らせていた肩から力を抜いた。ふぅ、と息をついて、そして今度はジェラートに目を止めた。
反射的に身構える彼女に、女は目をキョトンとさせて、それから愛想良く笑った。
「大丈夫よぉ。おばさん、そんな八つ当たりするほど怒ってもないから」
「え、いや。でもあなたのご主人、すごい痛そうなんですが」
実際、腹に直撃を食らった彼は、未だ地面で丸まって低い声を出している。
「それはそれ。これはこれ」
「あ、はい」
「そうそう。あんなバカとは違って、おばさん、あなたには感謝してるんだから」
だが、余計なことは言うものではないと、ジェラートは笑顔の圧力に悟った。女は、戦利品の袋をごそごそとやりながらジェラートへ歩み寄る。
「木柵を作ってからは領主の機嫌に障ったみたいで、ちょっとパンが小さくなってる気がするんだけどね」
「それは、悲しいですね……」
「ほんと、あなたのところのパンを分けてほしいくらい」
ジェラートは女の袋を一緒になって覗いてみるが、もともとのサイズというのをよく知らないから、何とも言えなかった。とりあえず、パンの表面にころっと小さい粒があったりするから、豆を混ぜてかさ増しをしてることくらいはわかるのだが。
ジェラートが冗談に何と返していいものか判断つきかねている間に、女は目当てのパンを見つけたらしい。
「ほら、これ、いつものお礼よ」
「えっ?! いや、そんな……」
「まぁまぁ、いいのよ。だってほら、あなたみたいに花の香りをさせてる女の子に、おばさんが守ってもらってるなんて情けないじゃない。何かお礼をしないと、私が落ち着かないんだよ」
胸の前で両手を振って遠慮するジェラートに、一つのパンが押しつけられる。そのまま手を離したりするものだから、落とすわけにもいかず、しっかり受け取ってしまった。女は、ジェラートがそのパンをどうしようかと固まったわずかの間に。
「多分ギルドの方には、豆パンなんて来ないんじゃない? 大したもんじゃないけれど、たまに食べるには珍しくていいんじゃないかい」
捨て台詞を残し、女は夫を引き連れて帰っていく。
ジェラートは仕方なく、手の中に残ったパンを見た。小石を散らしたように、たくさんの豆が浮いている。大釜で雑に焼いた分、焦げたりはしているが、おそらく好意でもって豆の多いものを選んでくれたのだろう。ジェラートは推察した。
明日の朝食が楽しみになるジェラート。気付くと、パンの奪い合い戦争も大方片付いたらしく。
「あら、ジェラートちゃんは豆が好きなのかい? なら、あげるよ。アタシは嫌いなんだ」
「うわっ、急に置かないでくださいよ!」
最後に余裕を持って出てきた老婆が、ジェラートの持つパンの上に無造作にもう一個を重ねた。
「あら、ならうちのも貰っておくれよ。うちの子が焦げが苦くて嫌だなんて贅沢言うからね、今日はパンを抜いてやるんだ」
「それ、いいわね。うちもやることにするわ」
「じゃ、私も」
それを皮切りに、家へ帰ろうとしていた女たちがジェラートに群がった。どんどんと重ねられていくパンを落とさないよう、ジェラートは必死になって腕を広げた。そんな状態で戦後の高揚を残す女たちを止められるわけもなく、ジェラートは渡されるがまますべてのパンを受け取って。
「そうねぇ、私は特に理由思いつかないから、誕生日のお祝いにでもして?」
抱え切れるギリギリまで、パンを押し付けられてしまった。
「誕生日なんて、私自身知らないんですけど……」
初めてのことに脳がパンクして、方向外れの文句が口をつく。とりあえず、ジェラートはギルドハウスへ持ち帰ることにした。エスト村の領主は火の元素魔法を使うから、あそこの大釜で焼いたパンは一週間ほど日持ちする。保存しておいて、やはり足りなくなってしまった家庭や、腹を空かせた子供に分けてやればいい。
バランスを崩さないよう、慎重に歩いて、ジェラートはやっとギルドハウスに辿り着いた。食堂の、自分が普段使っている食卓にどさりとおろして、転がり落ちる一個をすんでのところでキャッチ。一安心。
ジェラートはおもむろに、その一個を手で割ってみた。もはや見慣れた、ぼそぼその黒色だ。そのまま噛み付いてみるのだが、この歳になっても噛み切ることはできなかった。
「はぁ、正夢ってやつですかね」
自分の歯形のついた豆パンを見てそう溢す声色には、過去を懐かしむ色がある。
彼女は別に、あの侍女を恨んではいないのだ。侍女は唯一、彼女に食事という幸せを連れてきてくれた、暖かい昼の人だから。
悪いのは、彼女に下手くそな笑顔をさせた、貴族たち。コンソメスープすら与えなかった貴族たち。
だから、彼女は貴族を倒さねばならない。
誰それではなく、家族というシステムそのものを。
そのためにはコンディトライが、『あの方』が必要なのだ。現在の貴族の中で、有数の権力者たる、『あの方』の力が。
「とりあえず、パンを仕舞いましょうか」
腰に手を当て、ジェラートは厨房の上に備え付けの戸棚を見やった。もともとジェラート一人のためだけのものではないから、きっと入り切るだろう。
抱え上げ、やっぱり一人に渡す量としては多すぎると思って、誰かに渡してしまいたいと思って、ふと、気付いた。
「そういえば、今日は少年が来ませんでした」




