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ダーカー・ザン・チョコレィト 〜魔法少女の復讐、甘い香りとともに〜  作者: 浜能来
第二章 最も別れるのが難しい相手とは、過去の自分だ
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第十八話 夢

 私に、名前はない。


 名前というのは、親に与えられるものなんだそうだ。あのショコラという名前は、きっとチョコレィトさんに付けられたものだ。

 私には、そんな尊いもの、ない。


 あの子と同じくらいの時は、それが当然なのだと思っていた。


 私の幼少期は、すえた臭いと共にある。駆け回れるくらいに広い部屋だったが、それ以外にあったのは、部屋の隅の便器という名の穴だけ。

 昨日の排泄物がその存在を主張するから、私はそこからなるべく離れたところで、与えられた毛布を体に巻きつけて、丸まって眠った。

 人の気配一つない、無音の闇。それが夜。


「起きろ、朝だ」


 そして、朝は父が連れてくるものだった。

 真っ黒に磨かれた鉄門扉が開き、つまりは私の寝床が押しやられる。押しつけられる冷たい感触に私は慌てて起き出して、出迎えた。父が指をパチリと鳴らすと、私の独房に一斉に光が灯った。

 偉そうに蓄えた口髭を指でしごく父は、部屋の悪臭に「またか」と眉をひそめる。もう一度指をパチリと鳴らすと、便器の中でごうと炎が音を立て、焦げ臭さだけが残った。


「便所の掃除くらい、自分でやれと言っただろう」

「はい、ごめんなさい……」

「謝るのなら、行動で示せ!」

「はいっ!」


 手に持つ鞭でぴしゃり、床を打つ。それを聞くと、背中の傷が一斉に痛みを訴えて、私の身体から感覚が消えるのだ。父の言葉だけが、私を動かす。

 父の身体の後ろで、侍女が扉を閉ざす。これで二人きり。


裁く者(エンフォーサー)


 魔法名に応じて、背後に熱が立ち上がる。振り返ると、父と同じ背丈の炎の人型があった。顔にヒリヒリと感じる熱に、唇が乾く。


「昨日と同じだ。そいつを、風の元素魔法で消せ。出来るのは知っている。お前は、我が血統の希望なのだ」

「はい。やって見せます」


 父の言葉の通り、私の身体は動いた。

 両手を炎に向かってかざし、意識を尖らせる。すると、独房の中を流れる空気の動きを感じるようになる。人型に熱せられ上昇する空気が、天井にぶつかり、広がり、冷えて落ちる。

 その流れに、魔力を乗せればいい。


 びゅうっ!


 風の鉄槌が私の両脇を駆け抜ける。くしゃくしゃの栗色の髪が暴れる視界の中、たしかにそれらは炎の人型に命中して。

 ますます、その火勢を強くした。

 怒ったように大きくなった炎の波が手のひらをなぜ、私は思わず身を縮こまらせる。


「ふざけているのか!」

「んやっ……!」


 ついで、今度は背中に一条の熱が叩きつけられた。

 父に鞭で叩かれたのだ。当たったその部分にある皮膚を無理やり剥がされたような痛みの感覚は、何度受けても慣れることはない。頭の中で反響する。


「立て! 早く立て!」

「は、い……」

「いいか。お前が失敗するたび、そいつは一歩お前に近づくと思え! 早く消さないと、焼け死ぬぞ!」


 その上で、鼓膜すら父の声で満たされてしまうと、自分の介在する余地はない。

 ぎちりと歯を食いしばって立ち上がると、わざわざそれを待ってから、炎の人型がこちらへ一歩踏み出してきた。「思え」も何も、父は本当に、私が無能ならば焼き殺す気なのだと、その時思った。

 本当に私は死ぬ思いで頑張ったけれど、炎はなかなか消えない。むしろ私には、炎が吹き付ける風を食らう様がよくわかってしまって、何をやっているのか分からなくなる。

 その度に鞭が飛んだ。そうだ、私は『父の言葉』をやっているのだ。


 そしてまた、焼け死ぬ前に鞭の痛みに気絶するのだ。

 私は、部屋を出ていく父を見たことがない。


 ◇◆◇


「んんぅ……」

「お目覚めですか、お嬢様」


 目を覚ますと、侍女がいた。いつも長袖の簡素な給仕服を着た、昼を連れてくる人だ。

 彼女は雑巾で部屋の煤を落としていた手を止めて、私に近づいてくる。地べたに転がっていた私を立たせて、身体中をペタペタ触るのだ。


「くすぐったいです」

「我慢してください。私がご主人様に怒られてしまいます」


 とはいえ、脇の下などを触られてつい身を捩ってしまうと、背中が突っ張って痛むのだ。口を尖らせ、涙ぐんだ私が言うのを、侍女は澄ました顔で受け流した。

 彼女は一通り私の身体の具合を確かめ終わると、最後に着衣――といっても、布一枚を縫い合わせただけのものだけど――の乱れを整えてくれる。


「それでは、お昼ご飯をお持ちします」

「今日は、なんですか?」

「ウナギのパイ、それと、ニシンの塩漬けです」

「ウナギの、パイ……」


 最悪の気分だった。

 ウナギパイといえば、せっかくのサクサクふわふわしたパイ生地の中に、しょっぱいだけで味の抜けた、もさもさのウナギ肉を混ぜ込んだ料理だ。魚特有の生臭さこそないけれど、別のえぐみがある。


「そうは言いますが」


 げんなりとしていると、侍女は私の頭に手を乗せて言った。


「ウナギのパイも十分、御馳走なのですよ」

「なら、あなたにあげます」

「ダメですよ。私は侍女ですから、ご主人様やお嬢様の食事は食べられません」


 侍女は私の栗色の髪の毛を指先でくしけずりながら、穏やかに言う。彼女は基本、私の話を聞いてくれるけれど、聞いてくれるだけだ。


「じゃあ、ここで食べたらいいんです。そうすればバレません」

「ダメです。そうしたら、お嬢様が十分に食べれなくて、お身体を壊します」

「別に、いいです」


 父に鞭打たれている間は、自分の身体を強制力が動かしている。今日の朝、便所を掃除しろと言われたことに返事をした時も、心から返事をした。

 でも、それが終わった後では、全てがどうでも良くなってしまうのだ。例えば、便器から悪臭がして、それで自分の気分が悪くなって、何が変わるだろう。

 せいぜい、鞭打たれる回数が一回増えるくらいだ。


「良くないですよ」


 侍女が、真剣な顔で言う。


「私の仕事がなくなります」

「……そっか」

「では、お食事を持ってきますからね。食べてくださいね」

「はい」


 我ながらふてくされつつも返事を返した。侍女は頷く。重そうに扉を引き開けて、外へ出て行った。がちゃり、いつもの音がする。

 一人になって、ぶるりと身体に尿意が走る。便器の方を見るけれど、これからあの侍女が戻ってきて、父と同じように眉をひそめるのかと思うと、申し訳なくなった。我慢しよう。

 幸い、あぐらをかいて、気を紛らわすために足をぱたぱたさせている間に、尿意はどこかへ消えてくれた。この調子で、ウナギのパイも我慢して食べるしかない。

 重い音を立てて、扉が開く。


「お待たせしました」

「待ってないです」


 と、口では言うものの。扉が開くことによって生まれた空気の流れにコンソメスープの香りを嗅ぎ取ると、私のお腹はぐぅと鳴った。侍女はその音を聞き終わってから、わざわざ「そうですか」と言う。

 この生活で私が一番楽しみにしているのが食事だった。お腹がいっぱいになれば、とりあえず幸せ。私の言葉は自分でも嘘とわかった憎まれ口だ。


「さぁ、どうぞ」


 それでも、ウナギのパイなんて考えただけで吐き気がする。もはや視界にすら入れたくないと、目の前に置かれる銀のトレイを目を瞑って受け入れる。

 恐る恐る、薄目を開けた。


「……あれ、パイじゃない」

「ライ麦パンです」

「ウナギのパイは?」

「間違いでした」


 トレイの上に乗っていたのは、嗅いだ通りのコンソメスープ、平皿に切り分けて並べられたニシンの塩漬け。そこまではいいのだが、その脇に添えられた丸々としたパンは、明らかにパイではなかった。侍女と、トレイの上の硬い小麦色とを見比べるのだが、彼女は澄ました顔を崩さない。

 しかし、間違えたのはわかっても、ライ麦パンというのがわからなかった。パンをちぎって中身を見ると、ぼそぼそとした茶色をしている。私は今まで、ふわふわの白色しか見たことがない。

 昔、いつもの倍は父に鞭打たれた日に白パンを放り投げてしまって、侍女に言われたことがある。

「白いパンというのは、私どもには滅多に食べられないくらい貴重なのです。お大事になさってください」と。珍しくちょっと怒っていた。


 聞いたことのない、見たことのない色のパンが誰のものか、頭の中で理解した。今度は確信を持って侍女の方を振り返ると、彼女はふぅ、とため息をついた。

 人差し指を立て、口元にあてる。


「内緒ですよ」


 立てた腕に沿って、給仕服の袖がずり落ちる。そうして覗く痩せた腕には、青痣。


「お嬢様と私は、仲間ですから」


 彼女は口の端を歪める。それが笑うのが苦手な彼女なりの笑顔だ。

 嬉しかった。いてもたってもいられなくて、手に持ったライ麦パンにかじりつく。硬い。 

 ぐぐっと歯を立てて、両手で引っ張るのだが、逆に歯のほうが抜けそうだ。


「あぁ、駄目ですよ。それはスープに浸して、柔らかくして食べるんです

「ふぇ、ふぉうなんへふか」


 慌てた様子の侍女に言われて、私はパンから口を離した。自分の歯形のついたそれをスープに浸してみると、じわじわと琥珀色を吸い上げていく。


「もう、大丈夫ですよ」


 パンをスープから引き上げて見ると、ぽちゃぽちゃと吸いきれなかったスープが溢れる。勿体無くて、わたしは顔を突き出してかぶりついた。

 途端、ブイヨンの旨味が口の中に広がる。ふやけたパンを噛み締めるたび、いくらでも出てきた。


「んんっ〜!」


 十分味わってから飲み込むと、腹にずしりと落ちる感覚。硬いし、ちょっと酸味があったけど、食べた感じがして好みだった。


「おいしい! おいしいですよ!」

「そうですか?」


 その感動を素直に侍女へ伝えると、彼女は戸惑ったように頰に手を添える。


「きっと、スープがおいしいんですね」

「でも、スープはいつもと同じですよ」

「え……あぁ、お嬢様にとっては、そうでした」

「私にとっては? よくわからないことを言いますね」

「よくわからないのなら、いいのです」


 首を小さく傾げる私に、侍女はいつもの澄ました顔に戻ってしまった。

 あの時の私は本当によくわかっていなくて、そんな小さなことよりも、目の前の新しいご馳走に興味を奪われた。


 今ならわかる。

 彼女にとっては、コンソメスープなんて当たり前ではなかったのだ。お嬢様にとっては当たり前のものも、私にはないからわからないのだと。

 あれは、そういう嫉妬だ。


 ◇◆◇


 そんな暮らしが毎日同じように続く無限回廊は、唐突に終わりを迎えた。


 臭いから逃げるようにして眠っていた私の身体が、また押しのけられた。なぜか、いつもより押しのけられる力が弱かったのだが、鉄の冷たさは同じだ。

 私は跳ね起きて、開く扉の前で父を出迎えようとする。


「お嬢様、外に出る準備を」


 けれど、朝より先に昼が来た。侍女が、張り詰めた面持ちでそこにいる。服装も、いままで見たことのない地味なものだ。


「え……お父様では、ないんですか?」

「お父様は、もう来ません」

「もう、来ない?」


 たったの一言で、私の日常が決定的に崩れる。

 父はもう来ない。なら、私の朝も来ない。何をすればいいのか。ただ食事を食べるだけというのは、なにか、物足りない。

 立ち尽くす私の手を、侍女が取る。


「お嬢様を置いておくことはもうできないとのことです。だから、行きますよ」

「どこへ?」

「逃げるんです。こんな生活は、もう嫌でしょう」

「いや……?」


 嫌、なのだろうか。

 わからない。嫌だとして、なら、他に何があるのかも知らないから。でもそれは、『こんな生活』を続けたいという理由もないということだった。

 侍女に引っ張られるまま、独房を出た。鼻のムズムズする匂いがする茶色い壁。目の前に、何か板を並べた段々がある。

 侍女が足を乗せて上へ向かうのを見て、これは登るためのものだと理解する。息を切らせて十数段を登り、もう一つ、何かの扉を潜る。


「まぶし……」


 遠く、城壁の上に、太陽が顔を覗かせていた。

 そもそも、その時の私は太陽というものを初めて見た。背景に広がる膨大な青に圧倒され、辺りを見渡し、今度は五大元素魔球を視界に収め、色の多彩さに驚く。

 それから、裸足に触れる草のくすぐったさに気づいて、飛び上がったのを覚えている。


「急ぎますよ。このままだとお嬢様は、殺されてしまうんです」


 そんな私を有無も言わさず引っ張っていった侍女。

 きっと、あれは王都フランツの貴族区画だったのだろう。林を駆け抜けて、侍女に頼まれるまま風の元素魔法で鉄槍の並び立つ石塀を越えると、同じような大袈裟な建物がひたすらに並んでいた。

 早朝から外出するような活動的な貴族はいなかったようで、私と侍女は人気のない通りを駆け抜け、やがて街並みが変わったことに気づく。


「ここは?」

「庶民の区画です。大丈夫、もうすぐ着きますから」


 侍女は忙しなく振り返りながら言った。

 またもや現れたあたらしい世界。炊事の煙を上げる様々な建物。ガラス窓。いままでと異なり、広く開け放たれた構造。物珍しい何かが並び、目を引く。

 商業区画だった。そのあらゆるに私が目を奪われているうちに、侍女は一本の路地を見つけたらしく、私を引っ張り込んでいく。

 その先に、二人の男がいた。


「約束通り、連れて、来ましたよ」


 額に浮いた汗を拭って、侍女が言った。


「あぁ、助かるよ。その子が、例の子供だな」

「えぇ、そうです」

「おい」

「へぇ」


 身なりは綺麗だったけれど、言葉遣いにどこか違和感のある男たちだった。また、体つきががっちりしている。

 二人のうちの一人が私を顎で示して、もう一人がそれに応じて歩み寄ってくる。なんだろう。私が侍女の手を握り直すと。


 突然、男が襲いかかってきて、口に布を押し当てられた。


 侍女の手はあっけなく離れた。よろけ、倒され、頭を強かに打つ。目の奥で火花が散って、くぐもる声で悲鳴を漏らした。

 そうすれば自然、次は息を吸うわけで。何か、透き通って甘い香りを、吸う。


「それで、お代は……」

「あぁ、ほらよ」


 侍女と男の話す声がした。

 私は私で、なんとか拘束を破ろうと口を覆う腕を引っ掻くのだが、だんだんとそれが気怠くなってゆく。億劫だった。どうでもいい。

 私を抑えている男が身動ぎして、その後ろに隠れていた侍女が見えた。手元の袋の中身を、ちゃりん、ちゃりんと数えている様子だった。

 果たして満足のいく中身だったのか、服のうちに大事そうに仕舞い込んで、顔を上げる。私と目があった。


 彼女は、歪んだ笑顔を見せた。下手くそで、気持ちの悪いくらい卑屈だった。

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