第十三話 脱ぎ捨てて
炎の獅子は陽炎のように揺らめき、消えた。
もうもうと立つ砂煙。先ほどまでの熱気を涼やかな風が撹拌し、森は埃色に染まる。
何のことはない。地下に空洞があって、なるべくして崩れただけだ。
ショコラのクーベルチュールは、大地というリソースを背景になしえたもので。ならばそれを出し切るというのは、彼女の力の及ぶ『地下』を出し切ったのと同じである。
円形の堀の底では、崩れてきた土砂に押しつぶされて、生っ白い地下棲魔獣がもがいている。その苦しげな呻き声をよそに、別の土塊がごろりと揺れた。
「――っはぁ!」
何とかやったという様子で顔を出したのは、クーリ・グラスだった。さすがに押しつぶされたままの密閉空間では、得意の炎にも頼れなかったのだろう。肩で息をしており、頬を伝う汗を拭うと、土がそのままこびりついた。
彼女はまだ隠れたままの下半身に手を伸ばし、抜き放つ。片手剣だった。そのまま杖がわりに突き立てて、身体を引っ張り出す。
崩れ積もったばかりの地面はひどく不安定で、クーリは足を取られてよろめく。左腕がそれに合わせて、糸の切れた人形のように揺れた。
「あぁ、さいあく……」
その声も、姿も、今は明瞭になっていた。呆れを多分に含んだ、若い女声の愚痴だ。脱臼していた左腕を右腕で掴み、ふぅ、と一息、はめ込んだ。「んっ」とくぐもった声を漏らすだけに堪えて、痛みを慣らすように軽く腕を前後させる。
そうして自分のコンディションを整えてから、クーリは目の前にそびえる土柱を見上げた。
半ば黒く焼けついたそれは、クーリがショコラを最後に見た場所に立っている。もし仮に炎獅子の攻撃が外れたときの、その保険として後ろに控えていたクーリだったが、それが裏目に出てしまった。
「変に焼けちゃってないでくださいよ……」
焦りの滲む口ぶりでクーリは呟く。
本来、魔法である炎獅子に地面が崩れるなんて事態は影響しないのだが、今回はその魔法を操っていたクーリの足元も崩れてしまった。つられて斜めに傾ぐ炎獅子を、クーリも確かに見ていた。
ぱっと辺りを見渡して、足掛かりを見つけたクーリ。左腕を庇いながら器用に、千切れた木の根を引っ張っては、引っこ抜けて落っこちそうになりながら。女性にしても豊満な胸を煩わしそうにしつつ、ついにてっぺんに手が届く。
「んっ……しょっ!」
頂上に、というよりは本来の地面に戻ったクーリの鼻をかすめる風。クーリにとっては嗅ぎ慣れた悪臭がした。
人の焼けた匂いだ。
「とりあえず、人の形は残ってますね」
ほっと胸を撫で下ろすクーリだが、話しかけた相手の返事はない。ショコラはその場に、仰向けに倒れていたのだ。
大人すら木苺のように飲み干しそうな炎獅子の顎門に、最後まで正面から向き合ったのだろう。演劇か何かの大英雄のようなその様は、少女の様としては滑稽だ。
クーリはその傍まで歩いていくと、しゃがみ込んで彼女の状態を検める。
彼女の身体には土が瘡蓋のように張り付いていた。おそらく、咄嗟に自分の魔法を発動して、泥水を被ったのだろう。
クーリがパイを崩すようにそれを剥がしていくと、ぐずぐずに炭化した皮膚が一緒になって落ちた。真っ赤な皮下組織が空気に触れ、それでもショコラは目を瞑ったまま呻きもしなかった。
時折、焼け残った皮膚もあるのだが、残らず白く水膨れており、お人形のようだったショコラの面影はない。
そんな、右上半身。
制御を失った炎獅子はバランスを崩し、ショコラの右半身を掠めるに留まったのだろう。それでも、クーリの憧れを焼き焦がしたものである炎獅子は、一瞬のうちにショコラを気絶させるほど強く焼いた。
「でも、まだ生きてますね。女の子としては、ダメかもですけど」
黒く焦げた銀髪をかきわけて、ショコラの顔を露わにした。右頬から右眼窩にかけて大きく焼け爛れているが、クーリが鼻先に指を当てると、わずかに湿った。
「良かった。これでチョコレィトさんに怒られる心配をしなくていいですね」
満身創痍のショコラを見て、クーリはにっこりと笑った。
人を跡形もなく焼くことの多いクーリだが、人をどのくらい焼けば、どうなるのか、そのくらいは自分の魔法の特性として踏まえている。ショコラの火傷はかなりの深度だったが、運動機能を完全に失うほどのものではない。右目は、開いてみるまでわからないが。
どちらにせよ片目は残る。下半身については両足とも残っているし、ショコラが元素魔法使いであること、言い換えれば、腕はなくとも戦えることを踏まえれば。
応急手当でもしてやってこの場さえ凌げれば、ショコラはまだ、目的のために生きることもできるはずだ。
「……脚の一本でも、落としておきましょう」
クーリはにこやかにそう言った。頭の中では既に、切った後の傷口を焼いて止血する算段までつけている。
しゃりんと軽快な音とともに抜かれた片手剣が、斬るべき場所を見定めるように、ショコラの脚の上を彷徨う様は――
「まるで、ケーキの切り分けでもするみたいに人の脚を斬るんだな。お前さんは」
「っ! 誰だ!」
クーリが振り返るその先、砂煙の奥に見える焦がしたキャラメル色。
「なんだ、今更口調を取り繕うこともないだろう。今初めて会ったわけでもないし、そもそもお前さんには似合わない。なぁ、そうだろう。クーリ・グラス。いや、ジェラートと、呼んだ方がいいか?」
「ヌガー……さん」
苦虫を噛み潰したようにクーリ、もといジェラートが漏らす。彼女とショコラのぐるりを囲う堀の向こう、ヌガーがそこに立っていた。
「ち、違うんですよ! クーリのすっごい魔法をショコラちゃんがなんとか相討ちにして、それで」
「自分でも無駄だと分かってるのに、下手な言い訳をするんじゃない。お前がジェラートなのは、最初からわかっていたさ」
「――なんですか、それ。負け惜しみみたいでかっこ悪いですよ」
「まぁ、そう言われてしまえば、そうなんだが」
「だから、そんなかっこ悪いことまでして、もっとかっこ悪くなることないじゃないですか」
「そんなかっこ悪いこと? 何のことだ?」
首まで捻ってとぼけて見せるヌガーは、見せつけるように胸元に抱えた人影を揺すった。くぐもった声。ショコラとヌガーとジェラートで助け出した、あの少年だった。
今はむしろ、人質よろしく口を抑えられ、首元に針を突きつけられていた。
「人質なんて、取らないでくださいよ……!」
「驚いたな。うちのショコラをそんな風にしたお前にも、人の心があるのか」
「それとこれとは話が」
ジェラートは声を荒げそうになって、やめた。もうだいぶ埃も落ち着いて、彼女には少年の表情まで見えていたからだ。涙を溜めた瞳はすっかりジェラートを頼りきっていて、その状況で自分が取り乱すわけにはいかなかった。
歯噛みするジェラートに、「申し訳ないが、ショコラをいじめるのはそのくらいにしてくれ」ヌガーは言葉を叩きつける。
「でも、それじゃあ」
「ショコラがまた、復讐に動くと?」
「そうです! あなただって、それは望まないでしょ!」
「だから、ショコラの脚がなくなっても我慢しろと、お前さんは言うんだな」
「……えぇ、そうですよ」
「それはまた随分と、猟奇的な優しさだな。真夜中には全ての猫は灰色に見えるというが、お前さんも少し頭を冷やせば考え直してくれるのかね」
「ほんと、嫌な人」
憔悴している時には冷静な判断をし損ねるという意味のことわざを、ヌガーは完全に皮肉として口にした。ショコラより少し大人なジェラートは、その意味を正しく受け取れてしまった。
「なら、あなたが何とかすれば良かったじゃないですか」
「何とか?」
「そもそも、私がクーリだと気付いていたなら、私とこの子を二人で置いていくことなかったじゃないんですか?」
「なんだ、そんなことか」
せめてこのねちっこく嫌味な男を、一度は負かしたいという衝動に突き動かされたジェラートに、ヌガーは面倒そうに答えた。
「お前が、少なからず正体を隠そうとしていたんだ。なら、すぐそばにいる状況の方が、お前は身動き取れないだろう」
ヌガーの指摘は正鵠を得ていた。
実際、炎の蜂は遠隔で魔法を起動しなければいけないからこその省火力の魔法だし、姿を消すために一度距離を離せば、今度はその操作精度が落ちた。
既に狙われている状況なら、見える状態で隣にいた方がショコラにとっては安全。
「……どうせそんなこと言って、ほんとは確信が持ててなかったんじゃないですか?」
「いや、お前さんはわかりやすかったからな。確信していたさ」
ヌガーはそうだな、と一度空に視線を逃す。
「最初から、お前は怪しかったからな。初対面で俺ではなくショコラを戦闘要員として認識するやつは、そうはいない。あの正体不明のクーリを、彼女と呼んでもいたしな」
まだいくつか、めぼしいものをあげてもいいが。
ヌガーは話を切り上げる。
「そろそろショコラを返してくれ。このままじゃ、あのお転婆娘でも死んでしまうかもしれない」
「……いやです」
「じゃあ、この少年はどうする。お前さんをクーリ・グラスだと知った少年だ」
「それが……」
「殺さないのか?」
ジェラートが言葉に詰まる。
「お前さんは自分ひたすらに隠してきた。それこそ、魔法を見ただけで冒険者を焼き殺すほどに」
「……」
「なら、この少年は焼き殺されて然るべきだ。焼き殺さなければいけない。お前さんを客観的に見た行動原理に従えば、そうあるべきなんだ。しかし、おかしいな」
「黙ってください!」
声を張り上げるジェラートを無視して、ヌガーは続ける。
「お前さん、人を救けるんじゃないのか?」
「それは!」
仕方のないことだ。
クーリはたしかに人を救っている。村は防備を整え、その警備も素性を隠して行って。あれほどの元素魔法使いであるジェラートならば、ただ一人そこにいるだけで十分な魔獣避けだ。
ただ、その資金源は悪であるらしい。
ジェラートからすれば腐った血統主義者である貴族が勝手にこぼした儲けの種を、正しく民に還元しているだけなのに。
だから、ジェラートが冒険者に対して警戒を強めるのは、彼女にとって正しい人の救い方からすれば当然なのだ。
言葉にすれば簡単なことを、ジェラートはしかし口にできなかった。
「それでも」
彼女はすぅっと消えてしまった熱を追いかけるように口を開く。
「チョコレィトさんは、正しかったんです。だから、私は助かった」
「まぁ、英雄というのは得てして、大量殺人者だからな。殺し屋が正しいという考えも――」
「それですよ!」
ジェラートがきっと目を吊り上げる。呼応するように、背後にごうと炎が上がる。ヌガーがもう一度少年を揺すり、ジェラートが慌てて炎を収める。
「ヌガーさんも、この子も。なんで、あの人を悪く言うんですか?」
炎獅子を目にしてからショコラが口にした「嫌い」は、誰よりもチョコレィトに向けられたものだと、言葉を受けたジェラートにはよくわかった。
だからこそわからない。
なぜあんな素晴らしい人を、一番近しい人が貶すのか。
いや、わかるのだ。わかるけど、ジェラートには許せない。
「私はこの子を救います」
「なら、この少年は殺さなきゃいけないな」
「どうしてそうなるんですか!」
「簡単な話だ。お前さんがショコラを返せば、俺はこの少年の記憶を消すことができる」
「……は? 記憶を?」
言ってなかったか? ヌガーはそう言いたげに片眉を上げる。少年が抗議の言葉も失ってヌガーを見上げた。
「この針に塗ってある毒は、意識を混濁させる。混濁して、記憶までごちゃごちゃになって、そうだな、今日一日の記憶は曖昧になるだろう」
「そんな危ないもの!」
「だが、死なない。お前さんはこの少年を殺す必要を失い、ショコラは俺のもとで手当てを受ける。あとは俺たちが手を引けば、お前の秘密も守られる。全員、助かる」
「……マッチポンプじゃないですか」
「だが、卵を割らずにケーキは焼けない」
しばし、二人は黙って目を見つめあった。片や、その言葉の奥を疑い、片や、既に結末を見ている。ヌガーという男は、魔法では戦えない分、魔法戦の後始末というのをしっかりと見ていた。
その時点で、決着は決まっていたようなものだ。
一陣の風が吹いた。
ショコラの身体がふわりと浮かび、堀を超える。ヌガーは少年の首筋に淡々と針を突き立ててから、ショコラに向かって手を伸ばす。火傷になるべく触れぬよう、優しく抱きとめた。
その間に、ぐてりと力の抜けた少年の体はジェラートに回収されていた。
「今回だけです」
ジェラートと少年の体を、石鹸液のように七色を映した風が取り巻いてゆく。姿を消す魔法の起動だ。
「次にあったら、殺してしまうかもしれません」
「あぁ、手をひくとも」
そして、ジェラートは姿を消した。もう一度強く風が吹いて、おそらく堀を飛び渡ったのだろうとヌガーは推測した。
ショコラを一度木の根元に寄りかからせて、スーツを脱ぐ。振ると、暗器や何かがバラバラと落ちた。ただの布になったスーツを気休めに地面へ敷いて、ショコラを寝かせる。
スーツから落ちたうちの一つ、小さな陶器のケースが割れていなかったことに安堵して、蓋を開いた。
その中の軟膏を指ですくって、ショコラの傷に向かう。
「すまない、ショコラ」
右上半身をくまなく焼かれたショコラに、そのわずかな量で十分なのか。
だが、他にヌガーに出来ることなどない。
「すまない。すまない」
大規模な魔法戦の直後、魔獣の影が現れなかったのだけが、幸運だった。
グラス:フランス語で氷菓
ジェラート:イタリア語で氷菓
お前さては隠す気ないな?




