第十二話 ピエスモンテ
「追いすがる、例え泥に塗れても!」
彼女の詠唱に付き従うように、数多の漆黒が湧き上がる。
「所詮、子供……!」
その奇襲に悪態を吐き捨てるクーリに、数多の触腕として殺到する。
炎の人型であるところのクーリには、意味のない攻撃。だからかクーリはショコラへの反撃を優先した。
突き出した左腕がまるごと炎の悪魔と変わり、ショコラを見据えて翼を撓める。
「舐めてくれるじゃないの!」
それは、ショコラの想定を超えるものではなかった。
悪魔が飛び立つより早く、ショコラの攻撃が届いた。泥水であるはずのそれは、高温のクーリに衝突し、しかし蒸発せず。
飛散。拡散。
飛沫が膨張しては炎の身体に張り付き、加速度的に覆い隠してゆく。ついには悪魔の翼をも侵し、命なきガーゴイル像へと変えてしまう。
そして、ごとりと落ちた。
「どう? ご自慢のお人形、もらってしまったけれど」
ショコラは豪然と言い放った。勇者の兜飾りよろしく、すくい上げた銀髪が空にたなびく。
制圧、わずか数秒。
ショコラの前に残された泥水の彫像も、新たに湧き上がった泥水が包み込み、溶かし込み、跡形も残らない。主人を守る忠犬のよう、一本の大流となってショコラを囲ってとぐろを巻く。
クーベルチュールとは。
バンホーテン卿によってカカオ豆から抽出された油脂成分を多分に含んだ、流動性や滑らかさ、カカオの香り高さに富むチョコレートを言う。
ならばショコラの『クーベルチュール』とは。
地下という『土』の元素の宝庫で魔力を練り上げることで、より純度を高めた『泥水』だ。それは水より水らしく、土より土らしく。故に高い操作性を持ちながら、完全無欠に流体であり続ける、大質量体。
ショコラがクーリと接敵してから、地表下で準備し続けた魔法がこれだ。
そして――
「その魔法……」
「えぇ、えぇ。その通りよ! もしかして、まだわたしがチョコレィトの娘なのかと、疑っていたのかしら?」
「……」
これこそ、チョコレィトが息をするかのように使っていた全ての魔法の、派生元だった。
「だが、そんなものだ」
クーリの声が、ショコラの問いかけを塗りつぶすように響く。
灼熱の予感がショコラの足首をちりちりと。すぐさま、どこからともなく生じた火炎がショコラへと吹き寄せる。
「そっくりそのまま、お返しするわよ!」
とはいえ、いつか見た手に足止めをくらうショコラではない。
周囲に侍っていた泥水を撒き散らし、押し潰すように消火。花弁のように広がったそれを踏み越え、彼女は跳躍する。事象魔法で強化された筋力は、クーリがなぎ倒した木々の合間へと、スカートを片手で抑えたショコラを運ぶ。
「どうせ、あなた森の中でこそこそしてるんでしょ!」
森の中でジェラートを助け、追い立て、ここへ来たのだ。いくら姿を隠せるとはいえ、揺らぎが見える以上、隠れるのなら森の中だろう。
そんな思考のもと、ショコラは森の凸凹とした地面は手をかざす。
「グラサージュ!」
地下に潜伏していたショコラの泥水がぼこりと湧き出し、なめらかに、艶やかに地を覆っていく。
クーベルチュールは、覆うことに特化した魔法だ。あらゆる障害を踏破して、骨のように白いブーロゥすらも黒く染めて、白森を染め上げていく。
その中心、ドレスを汚さないようにと開けられた唯一の空白地点にショコラは着地。腕を組み、待ち構える。
クーリは、何も妖精や何かではないのだ。必ず、実態があるのだから。
目に映る全てを攻撃すれば、見つけられる。最初の一戦で確認した事実。
ショコラは自分の操る泥水の液面を見る。波紋一つなく、森の奥の湖面じみたそれが揺らぐ時を待つ。
あるいは、しびれを切らして攻撃してからその時を。
細く、長く、息を吐く。ショコラはその一瞬のために、こよりのように精神を寄り集め。
「来たわね!」
彼女の斜め手前から火球が飛び来る。大人の拳ほどの大きさしかないが、膨らみながら進んできているんじゃないかと錯覚するほどに速い。
速いけど、対応できないほどじゃないわね。
ショコラは冷静に人差し指をくいと上げて指示を出す。泥水はあっけなく火球を飲み込む。
――なら、これはオトリ。
液面が揺れた。8時の方角。
ショコラの指が鋭くその影を指し、クーベルチュールが意思を受ける。粘菌魔獣の捕食のように飛びかかるそれらは、確かに影を捉えていた。
だが。
「あぁ、もうっ!」
ショコラが舌打ちをした。そして反射的に泥水を球状に構築して自分を守る。結果、ショコラはひとまずの安全の代わりに視界を失ってしまう。
果たして、功を奏すか、首を絞めるのか。生唾を飲む。
ショコラはせめて耳で情報を得ようと、首を回した。
「うそでしょっ?!」
そして、自分の作り出した壁面の一部が赤熱していることに気づいた。
反対の壁をあぶくを弾くように解除して、転がり出る。頭上には炎の蜂の群れ。
「――パレッ!」
反射的に使い慣れた魔法を叫ぶ。地中から打ち出された礫が第一波を押しとどめ、その隙にさらに退がるショコラだ。
そして、『何か』にぶつかった。
吸おうとした息を止め、ショコラは腕を振る。目に見えない何かを押し留め、その先から炎が噴出する。
熱気に目を細めたショコラの腹部を、衝撃が襲った。
「んぐぅっ……!」
完全に自分の中から消えていく空気。遠のく意識。その中に感じる、迫り上がる嘔吐感を。
だが、ショコラに負けは許されない。彼女自身が許さない。
歪む目元をキュッと引き締め、ただ暴力的に魔力を振るう。ぶしゅうっと彼女の周囲に吹き出たクーベルチュールが、どうやら透明を追い払う。
ショコラは震える手を振って、渦潮型の砲台を展開。ヴェルミセルでもって完全に周囲を撃ち払ってから。
「――ぶはぁっ……!」
ようやく、一息ついた。
知らず滲んでいた涙を拭い、ドレスに擦り込まれた泥を払う。どうも、蹴られたらしいと理解する。息を整えようと試みるが、今こうして肩を上下させていなければ、とても生きてはいられないとショコラは苦しむ。
「……あなた、格闘なんて、できたのね」
ようやく絞り出した声でショコラは話しかける。返事はない。ショコラもそれに、舌打ちを返さない。
その息すらももったいないし、彼女は次のプランを練るのでいっぱいいっぱいだったからだ。今見てみれば、ショコラが最初に攻撃した影というのは魔獣の死骸で。
クーリは一瞬でショコラの魔法の意味と特性を理解して、罠に嵌めたことになる。
そうやって観察している間にも、次の攻撃はやってきた。
火の元素魔法と、不可視の近接攻撃のコンビネーション。どちらも本命で、どちらも奇襲である。
ショコラは地面を無限のリソースとして攻撃を受けるが、どうしても技量が追いつかない。クーベルチュールなんて大技を、ショコラはそう扱ってこなかったのだ。
次第に、体力も、精神力も削られるショコラ。すっかり乱れた自慢の銀髪を、わしゃわしゃと均す。
「これが、お前と私の力の差だ」
「……うるさいわね。少し、黙っててくれないかしら」
声はそんなショコラの神経を逆撫でして降りかかった。その返事として出した自分の声が、予想外に低くて彼女は内心で驚く。
まるで、強がりのようだった。自分が絞首台へ突き出されようとしているような、そんな焦燥感、不安。
つぅ、と伝う。親指の腹で拭ってみれば、それは鼻血だった。
「その魔法、かなり無理をしているのじゃないか?」
「そんなこと、ないわよ。チョコレートを食べ過ぎれば、鼻血が出るでしょう? あれと同じ」
ショコラは強がりなのかもわからない強がりを口にして、伝う鼻血を舐めた。
「やはり、お前は弱い。お前では、復讐などできない」
そんな彼女に力の差を見せつけるように、クーリは再び炎の人型を取る。背丈は最初と変わらないのだが、ショコラにはクーリがより大きく見えた。
「……余計なお世話よ」
「お前がチョコレィトの娘でなければ、しないのだがな」
「確かに、認めろとは言ったけれどね」
そういう意味じゃないわよ。
ショコラが意地で飲み込んだ言葉など、当然知った様子もないクーリ。
「私はチョコレィトに救われた。親も何も、あらゆる人間が自分のために私を好きにして、最後に手を差し伸べてくれたのがあの人。でも私は、あの人の家族にはなれなかったから。だからせめて、あの人のように人を救けるの」
「だから、わたしに諦めろって?」
「あぁ、そうだ。諦めないのなら、諦めざるを得ない程度に、焼く」
その意を示すよう、人型から天使の翼を模して炎が吹き出す。大気を焦がす高温、風に吹かれた葉の一枚が、地に触れる前に燃え落ちる。
灼熱はその勢いを緩めず立ち昇り、ついには森の木々をも超えた。地獄の底の亡者が神へと救いを求め伸ばす、幾本もの赤腕。やがて全てが絡み合い、一つの形を織り成していく。
精悍なる四足の獣。陽炎をふちどった鬣を持つ、その炎の獣の名は。
「燃え盛れ、我が夢の化身よ」
ショコラにはまだ使えない、ショコラの父の魔法名を、冠していた。
「せめてお前の父の魔法で、お前の未熟を焼き付けよう」
炎の獅子は咆哮を上げ、音なきそれは空気を熱波と伝う。真正面から見上げるショコラは、皮膚が水分を失って突っ張るのを感じながら、呆けていた。
気道の焼ける痛みにようやく我に返り、咳き込む。再び顔を上げた彼女の口元は、歪んでいた。
「人を、救ける? お父さんが?」
ショコラのルビーの瞳は炎を映して仄赤く。
「そんなわけないじゃない。お父さんは、人殺しよ? 仮に、仮にお父さんが人を救けていたとして……」
声は震えていた。繊細な職人技で作られた飴細工よりも不安定。
「なら。なら、お父さんはなんで……」
彼女の目尻に、涙が浮かぶ。
「なんで、わたしを置いて死んじゃったの!」
その涙すら、瞬く前に蒸発した。
ふらつく視界。遠く霞んでいく思考。全てを置き去りに手を振り上げる!
聳え立つ獅子を絡めとらんと大地から漆黒が迫り上がった。家を一つ丸呑みにするほどの大蛇。残るクーベルチュールの全てだった。
それでも、獅子の体躯に及ばない。
「もうっ! 死んじゃえ!」
金切り声でショコラは叫んだ。
主人の命令に従い、大蛇は無謀な吶喊を始める。燃え盛る首筋を狙った一噛みは無情にもその前足に踏み潰された。
水よりも水であるはずのクーベルチュールが、音を立てて蒸発していく。白煙の中、その全てを焦がし尽くし、蛇を台地にのたうつ影に変えてなお、獅子はその威容を誇る。
「嫌い! 嫌いよっ!」
ショコラはやたらめったらに腕を振るが、もう応えるものは何もなかった。からきしだ。
一歩、また一歩。炎獅子はショコラに近づく。
「動くな。加減を間違える」
苛立たしげなクーリの声が正体不明に響く。もはや半ベソをかくショコラには届かない。
駄々をこねる子供を睥睨する獅子。弓引くように身体をたわめ、力を溜め。
クーリの溜息が風と吹いた。
「終わりだ」
ぐわっと開かれた顎門がショコラを襲う。
「うるっさい!!!」
叩き捨てるように振り下ろされるショコラの腕。同時、獅子の足元に異変が起こる。
地響き。亀裂。崩落。
ショコラの周囲を円形にくり抜くように。森の木々を巻き添えにして、大地が陥没した。




