第九話 支度
「ん、お父さん……?」
四角い空白だけの無骨な窓から、朝日が差し込んでいた。聞こえてくるのは、日の出に巣から飛び出した小鳥たちの、戯れの声。
干し草を詰め込んだ長方形の木箱にシーツをかけただけのベッドで、ショコラは目を覚ました。シーツの裂け目からワンピースの下着についた草を、あくびとともに払う。そして、埃っぽい漆喰の壁をなぜて、そういえばギルドハウスだったわね、と独り言ちた。
続いて思い出すのは、クーリ・グラスだ。
『あの人を、チョコレィトを、侮辱しないで』
彼と同じ異名を使う人間も、まさかそんなふざけた本名をした人間も、この世にはいるまい。彼とも彼女ともしれないクーリは、お父さんを知る人間だ。
それだけで、ショコラが打倒する理由になる。依頼などもはやついで。彼女はすっくと起き上がって、突っ張り棒に吊ったドレスを取り、それを一人で器用に着込んだ。そして、毎朝の習慣である魔法の練習をする。
あの日お父さんが作ったように、子犬を作る。
魔法名をつければもう少し容易にもなろうが、ショコラはそれをしない。
そも、他人の魔術であるから、自分の好きなものでイメージ付けをするのも無理がある。それに、魔法名を使いつつも無詠唱を織り交ぜた、変幻自在のチョコレィトを目指すショコラとしては、意地の張りどころなのだ。
その場に座り込み、精神を縒り合す一息。彼女が手をかざしたその場所から、漆黒色の泥水が沸き上がった。幾筋かに枝分かれし、目指す形へと近づいていく。
脚ができ、胴ができ、しっぽがゆらりと。最後に頭ができあがり、なるほど、遠めに見れば誰もが犬だと言うだろう。
だが、まだ及ばない。
ショコラがルビーを溶かした瞳を細める。漆黒の流動体は微細に揺れ始め、細部の再現が始まった。
かわいらしくぽってりとした足が凹凸を得て、指の区別がつく。毛並みが線と表現されて、光沢の美しさ。
「んむむ……」
あとは顔を作るだけ。まだ成長しきらない、短かな鼻先と、つぶらな瞳を意識して。
「んうっ!」
『熱』の事象魔法の助けを借りて、水分を蹴散らした。ジュッという音ともに、ほんわりとした湯気がショコラの手のひらを湿らす。
出来上がった子犬の像の頭を、ショコラはなでりなでりとする。
「はぁ、またダメ……」
どっと、疲れを顔に出す。ざらざらとして、少し痛いぐらいなのだ。
原因は彼女も重々承知している。『泥水』の元素魔法は『土』と『水』の複合であるが、今回は『水』の操作に注力しすぎた。水は土を運ぶ役割を持つから、それに意識を割くことで形は定まった。ただ、土の操作が甘く、泥の粒形がそろっていない。だから手触りが悪い。
これは、戦闘においても問題足りうるのだ。
泥水を操るうえで粒形がそろっていなければ、泥水に質量を与え、つまりは攻撃力や防御力を与える泥の受ける抵抗が均一にならず、分離する。それを強引に補正する集中力を、戦闘という緊張状態の中で割くのはあまりに恐ろしい。
「これじゃ、ピエスモンテ・シリーズは無理ね……」
ピエスモンテ・シリーズとは、チョコレィトがショコラにはめったに見せなかった、彼の魔法名持つ魔法たち。
単純な造形物を作り、あるいは飛ばすばかりのショコラと違い。その魔法は生きていた。百の顔を持ち、千の攻撃をなす魔法系統。ピエスモンテ。
ショコラが時間をかけてやっと作り出す子犬を、彼女は次に、動かさねばならない。粒形がそろっていなければもちろん崩れるだろう。
彼女はしばしの間、我が子を叱る母親のように子犬をぺちぺちと叩き。
「きっと、髪がべたついてるからね」
髪をかき上げ、立ち上がった。
実際、王都を出てからの二日は髪を洗えていない。チョコレィトの生きていたころは、ほとんど毎日水浴びのできていた彼女だから、そのちょっとの不快感にもまだ慣れない。
もう、子犬の方は見ようとせず、彼女は自室の木戸を開けた。昨夜、寝ぼけ心地に聞いたヌガーの部屋を思い出す。確か右隣りだったはず。
殺風景な廊下を歩いて、ドアを控えめにノックする。
「ヌガー? 起きてる?」
「あぁ、ショコラか。すまないが、昨日の歩きの疲れが取れなくてな。まだぐっすりと寝ているんだ。頼むから、起こさないでくれ」
「そんな長い寝言ないわよ!」
言葉とともにドアを勢い良く開けたら、蝶番が外れかかってわたわたしつつ。ショコラが部屋に入ると、何食わぬ顔でヌガーが装備を検めていた。毒針に始まり、彼の愛用のスーツに隠せるちょっとしたものがいくつか。
「ひどいな。財宝は枕元にこそやってくるというが、お前といたらそれも奪われてしまうんじゃないかと思う」
「ことわざでしょ? 本当にあるわけないじゃない」
「知っているかショコラ。この世界でもっとも腹立たしい会話相手は、揚げ足を取るやつらしい」
「あぁ、はいはい。ごめんなさいね」
目線もくれずに言うヌガーに手をひらひらと振って、ショコラはヌガーの腰かけるベッドの隣にすとんと座った。
今のヌガーは、装備を検めるために焦がしたキャラメル色のスーツを脱いでいるし、なによりいつもはオールバックにしている髪を下ろしているから、簡潔に言うならば、険がない。ナッツのベージュ色を薄めたような襟付きシャツと、変哲のない髪形は、冴えない貴族の末弟らしき風情がある。
ショコラは、ずっとこれならいいのにと密かに思い。
「ずっとそうしていればいいのに」
やっぱり、口に出した。
「ん? …………あぁ、髪のことか」
ヌガーはいまだ目を手元から上げもせず、返事を返す。
「残念だが、お前さんにとっての――」
「はいはい、言ってみただけよ」
だが、話を振った当の本人が切り上げるんだから、そんな無愛想もおあいこというものだ。
お転婆なショコラは、足をぶらぶらさせながら次の話題に移る。
「ていうか、いつどこで、整髪油を洗い落としたのよ」
「お前が寝たあとでな、ギルドハウスの裏だ。ジェラートのやつに頼めば、桶を貸してくれるはずだ」
「ふぅん、そ。教えてくれてありがと」
二人の会話は非常に淡白。それは別に、たがいに興味を持たないからではなくて、たがいに特別言葉を交わさなくても、たがいを承知しているから。
それを証明するように、揺らした足の勢いそのまま、ひょいと立ち上がったショコラの動きを、ヌガーの一言が止めた。
「今朝の練習は、うまくいったか?」
ショコラの顔が強張る。
「……まぁ、それなり」
「それなりにダメだったのか。どうも、まだお前さんをチョコレィトのやつの再来だと、ビスキュイに胸を張って紹介させてはもらえないらしい」
「うるさいわね」
その言葉は、明確ないら立ちを伴って。
ただショコラは、怒ってその場を立ち去りはしない。ヌガーはそれを、ショコラが話を聞く気があると、少なからず現実を直視していると解釈する。
「それで、だ。その状態で、お前さんは本当に、あの姿も見えず、聞けず、攻撃の底も知れない、正体不明のクーリ・グラスを、倒せるのか?」
「昨日言ったでしょ」
「あぁ、倒さなきゃいけない。そう言っていたように思うが、倒せるという意味はそこに含まれないだろう。なら、だめだ。チョコレィトに預かったお前さんを死なせられないことに、俺はなっているからな」
クーリ・グラスは完全にヌガーの目算から外れていた。
別に、ビスキュイが簡単だと紹介してくれたから、安心していたわけじゃない。あまりに正体の知れないクーリを、彼が現地で情報をかき集め、攻略する。そんなヌガーの目算から。
想定外の遭遇戦に加え、ショコラ自身が、自分は敵だと示してしまった以上、悠長なことは言えない。その焦りは、ショコラの中にもちゃんと存在していて。
だからこその、反発だった。
「確証がないなら、帰ろう。まだ俺も、お前さんの身代わりになって死にたくはない」
「なら、あなた一人で帰っていいわよ。白森にいるのははっきりしたんだし、わたし一人でやるから」
「相棒を死なせた次は、その娘を見捨てろと。お前さんはそんなに残酷に育ってしまったのか」
ショコラが振り返って、無機質な声で言う。今度は、ヌガーがその視線を受け止めた。
彼女がお父さんの次に長く過ごした相手だ。珍しく見下ろすものではない彼の瞳に、多少たじろぐ。
「まぁ、お前さんがそう言うのは、わかっちゃいたがね」
その間隙に言葉を差し込めるのが、ヌガーの交渉人たる、大人たる所以。
「お前さんがそうしたいなら、そうさせてやろう。ただし、俺の手綱の中で、だ。無計画も、精神論も、どちらも許さない」
「……」
「ほら、座れ。今日の話をするぞ。ショコラ」
言い切ると、ヌガーは再び手元に視線を落としてしまった。
取り残されたショコラは、釈然としない表情でそこにいたが、やがてぼすんと彼の隣に再び座る。
「……いつもこういうのやるの、めんどくさいんだけど」
彼女が口をとがらせて言った小言。
どうせ最後にはいつも手伝ってくれるんだから、試すような真似をしないで、最初からそうしてくれればいいじゃない。
そんなニュアンスの、ショコラなりの甘えであると、わからないヌガーではない。
だから、ニヒルに口の端を釣り上げて。
「それが、俺の味だからな」
ショコラは顔を背けて、ふんと鼻を鳴らす。
「それで、今日は何をするのよ」
「そうだな。実力で劣る「劣らないわよ」相手に、短期間で勝つ方法なんて、一つしかない」
ヌガーは手入れを終えた暗器類をスーツにしまい込み。代わりに雑嚢から整髪油を取り出す。
「まずは、相手を見つけるところからだ」




