一.二重生活も一長一短
誤字報告、ありがとうございました!
できるだけ見直しはしているのですが、どうしても漏れがありますので大変助かります。
頼り切るには心許ない足場から、向こう側へと手を伸ばす。
「うぐぐ……ぐッ」
あと少し、あと少しなんだ。この手が届けば――。
そんな願いも空しく、俺の手は空を切った。さらに、追い打ちだと言わんばかりに体勢まで崩してしまい、ぐらりと身体が傾く。
そのまま重力に逆らわずに地面――ではなく分厚いマットレスに叩き付けられる寸前、詠唱無しで〝軽量化〟を発動させた。
それからすぐに、ぼすん、という音が室内に響く。
「加藤ちゃん、惜しかったわねえ」
「いいセンいってたのに!」
背後で見守っていたギャラリーのおばあ……もとい、ご年配のお姉様がたから声をかけられた。
「いやあ、さすがに三十番台は難しいですねえ」
マットレスの上で大の字になったまま返事をすると、彼女たちはきゃあきゃあと声を上げた。
「そこまで行けるのが凄いのよぉ!」
「そうそう! あたしなんか七番でもう腕がパンパンになっちゃうもの」
「さすが、若い男の子は違うわよねえ」
褒められること自体は嬉しい。ただ、これが若いお嬢さん方からの声援だったらもっと喜べるんだけどなあ。
なんて大変失礼なことを考えながら、俺は身体を起こすのであった。
――今日は週末、土曜日だ。
うちの会社は基本週休二日制なんで、土日は休み。そんな日に一体何をしていたのかというと、近所のスポーツジムでボルダリングに興じていたのである。
ボルダリングってのは、岩や壁面を登るクライミング・スポーツでな。片足が乗るくらいの小さな突起を足がかりにして、登ったり、平行移動したり……という、腕と足の双方に負荷のかかる運動だ。
施設によって規模もルールも異なるが、俺が通っているジムで採用されているのは突起に振られた番号に沿って移動していく、というものだ。
基本的に、数字が大きくなっていくほど移動するための難易度が上がっていく配置になっていて、ここの三十番台後半はそれなりに慣れたクライマーでないと到達できないよう設定されている。
魔法を使えば楽勝だろうが、ここでそんな真似をする訳にはいかない。
人目があるのもそうだが、魔法を使わずに身体を動かしたいと考えたからこそ、わざわざスポーツジムに通っているんだから。
ジムに通い始めたのには、当然だが理由がある。六年前の健康診断で、筋量の大幅な低下と運動不足を指摘されてしまったからだ。
まさかの「隠れメタボ」警告に、メンタル面へ多大なるダメージを食らってしまったのは言うまでもない。
もっとも、こうなってしまった原因はハッキリしている。
ただでさえデスクワークで運動不足になりがちだというのに、俺は〝転移〟を覚えて以降、それに頼りっぱなしだった。そのうちの一つが、通勤地獄から解放されたことだろう。
自宅のマンションから駅まで歩いて十分、満員電車で二十分ほど揺られ、さらに駅から会社まで十五分。往復分の時間を計算すると、毎日約一時間半の自由時間ができた格好だ。
逆に言えば、そのぶんだけ身体を動かす時間が減っている計算になる。
他にも遠出といえば魔法に頼り、ミュステリウムでもそればかり。荷物運びには〝軽量化〟を使い、部屋の片づけも〝念力〟で終了。こんな感じでロクに運動してない上に、食事の量は変わらないんだからメタボって当然だわ。
塔を探索してるだろうって? そうだよ! 俺もそう思って安心しきってたんだけど……実は、ミュステリウムは地球よりも重力が弱いんだ。月と地球みたいに極端な差はないんだが、それでも初めて地表に足をつけた時に、身体がふらついた程度には違っていた訳で。
計測してみた結果、ミュステリウムは地球と比較するとの五分の四程度の重力しかなかった。
宇宙飛行士が、地上へ戻ってからリハビリをしなきゃならないのは、地球よりも圧倒的に重力が弱い空間で長い間過ごしたために衰えてしまった筋肉や体幹、平衡感覚の狂いなんかを元の状態に戻すためだ。
俺は、そんな彼らと同じような体験をしていることになる。なんせ、一日おきに低重力空間で過ごしているようなもんなんだから。
魔獣との戦闘で鍛えればいい? ゲームのレベル上げや、それしか方法がないってんならともかく、運動不足解消のためだけに生き物と戦う、ましてや殺すってのはさすがに抵抗があってなあ。これが仕事なら、普通に割り切れるんだがね。
それ以前に、離れた場所からの魔法攻撃が主体の魔術師が、戦闘中に飛んだり跳ねたりするような場面って、ほとんどないしな。俺の場合、魔獣に近付かれそうになったら即座に〝転移〟で距離を取るし。
だからこそ、余計に運動不足になっちまうんだけども。
一応、探索者組合の訓練所でナイフの扱いと簡単な格闘術は習ってるから、近接戦闘がぜんぜんできないって訳でもないが、俺の体格だとせいぜい小鬼とか犬鬼相手にするのがせいぜいだし。
魔法で身体を強化するって手もあるんだが、ぶっちゃけ俺のスタイルには合わないから却下。遠くから安全に、ってのが俺のポリシーなんでね。
大鬼や動物型魔獣と真正面からガチンコ勝負できる戦士たち、ほんと凄い。
週に一度、訓練所で誰かと組手するようにはしてるけど、筋量を保つという意味じゃいまいち効率が悪い。もちろん、何もしないよりはずっといいんだが。
その点、ジムなら使う機材で鍛えたい筋肉を狙って鍛えることができるし、今日やったボルダリングに挑戦したり、プールで泳ぐこともできる。全身をくまなく、効率良く鍛えることができるってこった。
さらに、若干のカネはかかるが定期的に筋肉・骨量の確認をしてもらえる上に、効率的なトレーニングのやり方や、食生活面でのアドバイスなんかも受けられる。実はこれが一番大きいかもしれない。
料理できない訳じゃないんだが、どうしても外食に偏りがちになるからな。意識して食べる物の取捨選択ができるだけでもだいぶ違う。あと、他のジムはどうだか知らないが、ここはプロテインの販売機とか色々あって便利なんだよ。
〝魂の水晶〟による肉体の最適化も、ミュステリウムで運動するより、地球でしたほうが成長の度合いが大きいんだ。このへんも、重力差の影響だろう。
魔法が使えるようになったメリットは計り知れないが、その一方で、一切眠れなくなったこと、こうして普段から気を付けておかないと、すぐに筋量が落ちてしまうのは大きなデメリットだと思う。
人生、得ばかりするようには出来てないってことなんだろうな。
◇
「只今外出中、夕方までには戻ります……っと」
店舗のドアに掲げた黒板に、チョークでメモを記入する。さらに、灰色の猫が丸まって寝ているイラスト入りの〝休業中〟プレートを下げた。
直後、扉の下面に取り付けた猫専用の出入り口から、グリグリが顔を出す。
「お前も出かけるのか?」
「みゃう」
琥珀色の瞳が、じっと俺を見つめている。外へ出たい訳ではなさそうだ。
「いつものやつなら、ちゃんと買ってくるから心配するな」
「にゃあ」
その答えに満足したのか、グリグリは頭を引っ込めた。
いつものやつとは、漁港で売りに出されている魚の干物のことだ。こいつをほぐして塩抜きした後、湯漬けにしたのがグリグリの大好物でな。機会があると、こうして催促してくるんだよ。
転送屋『灰色猫』は、週に二日の定休日を設けている。地球の土日休みに合わせているから、俺の感覚的には四連休だ。
……そのぶん、十連勤になるんで一長一短ではあるんだが。
アルバ国での休日一日目の過ごし方は、散歩と街中の探索を兼ねた買い出しだ。ミュステリウム大陸の玄関口なんて呼ばれているだけあって、近隣諸国だけでなく海の向こうから来た商品で溢れかえる中央市場は、ただ見て歩くだけでも面白い。たまに掘り出し物に出会えたりもするから、すごく楽しめるんだよ。
俺の眼鏡に魔法を付与できたのも、中央市場で偶然見つけた古書のおかげだったりする。最新の付与術と比べていまいち効率は悪いが、これ、本来であれば門外不出の技術らしいからな。そう考えれば、とんでもない値打ちものだろう。
さて、漁港と中央市場行きは確定として。その後はどこへ行くか……と、思い出した! 今日は魔法魔術組合の店に顔を出す予定だった!
◇
「いらっしゃいませ、熟練者カトゥ。今日はどのようなご用件でしょうか?」
「いくつか売りに出したい巻物があるんだ、確認してもらっていいか? 三枚はいつものやつで、二枚は組合公認の新作見本だ。それと、何か新しい呪文があれば閲覧したいんだが」
俺は背負い鞄の中から、銀糸で封印を施した五枚の巻物を取り出し、カウンターに並べて見せる。
「おお! すぐに鑑定担当者を呼んで参ります。呪文は……残念ながら、新発見のものはございません」
「月末だから、そろそろ出てくる頃かと思ってたんだがなあ。なら、担当の人が来るまで店の中を見せてもらうよ」
「かしこまりました。では、少々お待ちください」
「手間かけさせちまって悪いね」
「とんでもございません」
ここは魔法魔術師組合の直営店である『神秘の庭園』。おもに、魔法関連の触媒や巻物の販売を行っている。
組合直営というだけあって、効果の不確かなものや未鑑定の品が無く、さらに現役魔術師が商品についての解説をしてくれるので、魔法初心者でも安心して買い物ができる優良店だ。
ここ以外にも魔法関連の店はたくさんあるが、正直、ある程度の目利きでないとお勧めできない。効果が値段に見合わないことが多いし、品揃えもピンキリ。その代わり、安価でとんでもないブツを手に入れる機会に恵まれたりもするんだが。
ちなみに俺が熟練者と呼ばれているのは、単に上級魔術師だからだ。これは魔法魔術組合独特の呼称で、組合に所属する魔術師に対して用いられる。
具体的には、
・初級魔術師 = 新参入者
・中級魔術師 = 中級者
ここから壁があって、
・上級魔術師 = 熟練者
・魔導師 = 導手
・大魔導師 = 導師
と、なっている。
なんで上級魔術師が壁になっているのかというと、単純に組合の検定試験が難しいからだ。日本でいうところの高校入試が中級魔術師試験、大学の卒業論文を書くレベルを求められるのが上級魔術師と表現すれば、なんとなくでも難易度の差を理解してもらえるだろうか。
実のところ、上級魔法魔術学院を卒業し、かつ等級六以上の魔法を五種類ほど発動させることができれば、検定試験に合格するのはそれほど難しくない。
だけど、その前提である魔法魔術学院の卒業、いや、入学試験でもたついてしまう魔術師が多いというのが実情らしい。そういう意味で、俺はものすごく恵まれていたと思う。役所と塾からの推薦があったからな。
この試験に合格しないと、たとえ等級六以上の魔法が使えても、俺が客前でやったあの名乗り〝公認上級魔術師〟を名乗ることは許されない。
車を運転する技術があっても、免許がなければ犯罪になるのと同じだな。逆に言えば、合格証があることで、厳しい試験を突破した優秀な魔術師ですよ、という証明にもなる。当然、給金や仕事の依頼料なんかにもダイレクトに反映されるから、頑張って取得しようとする魔術師がほとんどだ。
「熟練者カトゥ、お待たせ致しました」
そうこうしているうちに、担当者が来たようだ。魔術組合から頼まれて、仕事が暇な時にちまちまと作成している〝脱出〟の巻物三枚と、ようやく認可が下りた新作魔法。はてさて、いくらで買い取ってもらえるかな。
――店長から提示された金額は、俺の想定を遙かに上回るものだった。
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