プロローグ
「それじゃ、お先」
定時から一時間ほど過ぎた、午後七時半。
三十代前半、もしかすると二十代後半にも見える中肉中背の男は、未だ室内に居残る数名の部下たちに向けて軽く帰宅の挨拶を済ませると、革製の通勤鞄を手に、カツカツと足音をフロア内に響かせながら外へ向かった。
彼が首に提げていた社員証をカードリーダーにかざすと、ピッという電子音と共に扉のカギが解錠される。それを聞きながら、部下たちが口々にぼやく。
「加藤部長、相変わらず早いっすねえ」
「いや、今日は遅いほうだろ」
「〆の週でもない限り、滅多に残業しないからな」
「一日のタスク終わったらとっとと帰る、居残り残業なんて非効率だ、が昔からの口癖だしなあ」
「あれで部長になれるんだから、この会社は風通し良いんですね」
軽口を叩く若い男性社員に、彼より少し年上の男が呆れたように言う。
「なれるに決まってんだろ。あの人、めちゃくちゃ仕事できるんだから……って、そういえば君、まだ直接部長と一緒に仕事したことないんだっけ」
頷いた若手社員に、他の居残り社員たちの視線と口撃が集まる。
「加藤部長の書いたコード、すごくわかりやすいよ」
「作成自体も早いしね」
「オレ、コードレビューで何度助けられたか……」
「部長見てると、この人機械と意思疎通できてるんじゃないかって錯覚するぜ」
「わかる。魔術師認定されてんのも納得というか」
「う、魔術師級!?」
コンピューターシステムに関する極めて高い処理技術と幅広い知識を有し、常人なら投げてしまうような難題を、魔法のようにあっさりと解決してしまう手腕を持つ人物のことを、業界では敬意をもって〝魔術師〟と呼ぶ。
「今度、開発者フォーラムの相談板覗いてみるといいよ。あの人、色々なところで助言してるから」
「そういやこの間、電話で明らかに英語じゃない謎言語喋ってたな」
「ああ、ドイツの開発会社からの問い合わせだって言ってた」
「海外出張に加藤部長がいると、通訳いらないもんなあ」
「そういや、前に海外から来る電話の七割が部長宛のヘッドハントだって、総務部の同期が頭抱えてたな」
「マジか……他言語話者だから外国でも問題なく仕事できるだろうし、あれだけ書ければそりゃお誘いも来るだろうな」
「今は第一開発部の部長だけど、開発本部長への昇進も秒読みだって噂だぜ」
「これ以上の出世は嫌だみたいなこと、前に言ってたけど」
「ああ、あの人現場主義だからな」
「か、加藤部長って、そんなとんでもない人だったんだ……」
怒濤の情報攻勢にたじたじになる若手社員。そんな彼を救ったのは、室内に響くパンパンと手を叩く音であった。
「加藤さんのことはもういいだろ。だべってないで、俺たちもさっさと今日のタスク片付けて帰るぞ」
「ういーっす」
そんな部下たちの噂話など知るよしもない加藤はその頃、社屋の近隣にある公衆トイレの個室に籠もっていた。
「……外に人影なし、近付く足音もなし、あちら側にも問題なし、と」
誰かに聞かれたら、産業スパイを疑われそうなセリフと共に、中指に銀の指輪を填めた右手をかざす。
〝指定座標移動〟
呟きと共に、彼の姿は唐突にかき消えた――直後。先ほどまでいたオフィスビルとは明らかに異なる、生活感あふれたマンションの玄関先に現れた。
「ただいまー」
もしも、彼が消えた場所と、再び姿を現した位置を同時に観察できる人物がいたならば、さぞかし驚いたに違いない。何せ、今加藤がいる部屋から彼が先ほどまで居た職場へは、十五キロほど離れているのだから。
文字通りの瞬間移動。現代科学では到底成し得ない、奇跡の技である。
そんなとてつもない御業を用いた加藤の見た目は、黒髪にツーブロックのショートヘアスタイル。スクエアの銀縁眼鏡にスーツという、どこにでもいそうな日本の典型的サラリーマンだ。
あえて言うなら、中年と呼ぶには若く、かといって青年と称すには少々くたびれてこそいるが、やはり普通という領域からは逸脱していない。
彼は何事もなかったかのように靴を脱いで部屋に上がると、ふいに何もない中空へ視線を移した。
「ん? 宅配ボックスに何か届いてんな」
呟いて、ポケットからスマートフォンを取り出してメールアプリを開く。
「ああ、hamamonの定期便来んの今日だったか」
言いながら、再びポケットに手を入れる。中から取り出したのは、何の変哲もないビー玉だ。
加藤がそれを親指の爪でパチンと上に弾くと同時に、玄関先でドサリという音が響き、何かが現れた。宅配ボックスに入っていたはずのダンボール箱である。
「メシも全部魔法で作れたら楽なんだけど、そっちの才能ねえからなあ」
ぼやきながらキッチンへ向かう男の背に、ダンボール箱がふわふわと宙に浮きながら付き従う。さらに彼が指輪をした右手を振るうと、スーツにワイシャツ、ネクタイというビジネススタイルから一転、ルームウェア姿に変わった。
傍目には、日本のどこにでもいそうなサラリーマン。しかし、ごく当たり前のように〝魔法〟を操る男の正体については、彼をいちばんよく知る人物――本人の口から語っていただこう。