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人には得意不得意があるもので、適材適所を求めるのであれば、僕が最も得意とするのは、サボることにつきる。その日、僕は皆が皆せっせと働いている最中、上手いこと空気に溶け込んでいた。これにかんして、早くも頭角を現した僕の右に出る者はいない。働かざること山の如し。
「へいへいへーい、神田川くん。ちょっといいかな」
と可憐な天使マリちゃん。レジの横で一心不乱に必要のない架空の商品ポップを作っていた僕は、まさか自分の完璧な偽装がバレたのかと狼狽してしまう。
「ごめん。今ちょっと忙しい」
「そっか。じゃあさ、じゃあさ。帰りにちょっと時間あるかな? 頼みがあるんだよねー。奢るからさー」
おやおやー? これはデートのお誘いであろうか。しかし早まってはならない。ここで浮かれては、また田辺から勘違いやろうと罵られてしまう。主導権を渡してなるものか。
「あれ? 暇じゃない? 暇じゃない? なら別にいいのだけれども」
「ああ! 暇! 超暇! 家に帰っても十二時間ぶっ通しでアニメ見るか、ネット掲示板炎上させるくらいしか、やることないし!」
「あらら、ほんとに悲しいくらい暇人だね。わたしはそんな神田川くんが心配だよ」
そんなに心配してくれるのか。やっぱマリちゃん、僕のことが好きだとしか考えられない。良くないことだとは思いつつ、ついじろじろとマリちゃんを観察してしまう。小さな体に幼顔。ここでアルバイトをしているということは、高校生以上なのであろうが、一見中学生か小学生高学年ってところである。世の殿方は幼さの残る女子にめっぽう弱いのだ。ああそうさ。選に漏れることなく僕だって心の底では、ロリが大好きさ。ちっぱいが大好きさ。
「わたし五時までだから、神田川くんは先上がって、カフェでまってて!」
そして終業時刻。タイムカードを端末に通し、「上がりか?」と僕を呼び止める猫橋さんを華麗にスルー。がらがら立て付けの悪い引き戸を開け放ち、外気を思い切り肺に吸い込む。確認する腕時計。針は十六時をわずかに回っている。未だコバルトとアズール、その丁度中間くらいのクリアな空の真下、位置についた僕はクラウチングスタートを決め込む。前にも言ったが足にはちょいと自信があって、生ぬるい風を切り商店街最速を気取る。
自宅に辿り着くとすぐさまシャワー。指の股、耳の裏、かかとまで綺麗に洗う。一日で蓄積された身体の汚れは、タイルの目に沿い排水溝に落ちていく。身体の隅々まで清めた僕は、髪をよく乾かし、新しい下着を身にまとう。
……。
「あのさあのさ。なんで先に仕事上がったのに遅刻してくるかなぁ」
約束の時刻を十五分過ぎたところで商店街のカフェに到着。マリちゃんは少し怒っていた。怒ったところも中々可愛いので、まあ良しとする。
「致し方なし。僕にもいろいろ準備があるんだ」
「まあ、いいけど」
運ばれてくるメロンソーダとエスプレッソ。苦そうなエスプレッソを飲むのがマリちゃんで、甘々なメッソ(メロンソーダ)を嗜む甘々の甘ちゃんがこの僕である。
「それでさそれでさ、頼みたいことなのだけれど、猫橋さんのことなんだよね」
「……ほう。あの暴力女のことで僕に相談とは、穏やかじゃないね」
「暴力女とか言わないの! 神田川くん猫橋さんと仲良しじゃん。妬けちゃうなぁ」
心外ではあるが、口を挟むと話が進まないのでスルー。それにしても、もっと甘い話を期待していたが、まさか猫橋さんの話だとは。マリちゃんはブラック無糖なエスプレッソに口をつける。もしかしてこれは、世の中そんなに甘くはできていないってことのメタファーなのであろうか。
「単刀直入に言うよ。最近ちょっと心配なことがあってね。猫橋さんのこと探ってくれるかな」
「ほう。猫橋さんがメスゴリラなのかオスゴリラなのか探ればいいんだね?」
「もう。まじめに聞いて! 怒るよ。兎に角、猫橋さん、仲良しのきみになら何か話すかもしれないし、それとなく探ってみてよ。タダとは言わないからさ」
タダとは言わない。タダとは言わない。彼女はいったいこの僕に何をもたらしてくれるのであろうか。
「夕食をごちそうしよう」
「え? ここで?」
「うんにゃ。高級レストランでディナーと洒落込みたいところだけれど、訳あってねぇ。わたしは家に帰らなきゃならないのさ。そこで神田川くんには、わたしの手料理を振る舞ってしんぜよう。カレーで手を打ってくれないかい?」
僕は飲んでいたメッソ(メロンソーダ)を思わず吹き出す。じじじじ自宅あがりこんでも、いっすか? まじっすか。新しい下着穿いてきた甲斐あったわ。
「でもでもご両親とかいるんじゃ」
「え? 親とは住んでないよ。言ってなかったけ」
ぴきぴきと自分の貞操観念にひびが入る。純潔を後生大事に守ってきてよかった。田辺。悪いな。僕は先にいくよ。この娘のためにまじめに勉強して、いい大学入って、人生守りに入るよ。グッバイ田辺。グッバイ我が友よ。
そこからの記憶は曖昧であるが、マリちゃんの自宅は商店街の近くにあるオートロックのマンションであった。
「なに、ぼーーーーーーっとしてんの。こっちこっち」
「あ、うん。ああ」
人とは突然懐に転がりこんだ幸せに、つい不安になるものである。上手い話には裏があるんじゃないだろうか。あのゴリラの生態を調べるだけで、これはさすがに出来過ぎなんじゃないだろうか。僕はもっと人を疑うことを覚えるべきなんじゃないだろうか。長年持病の童貞をこじらせ続けた僕は、自宅に招かれただけで満足してしまい、すでにこの時、賢者のごとき精神状態であった。
それにしても学生の一人暮らしにしては、随分と良いマンションである。エントランスをくぐりエレベーターで上がる五階。五〇三号室で足を止めるマリちゃん。僕はその部屋番を瞬時に暗記する。表札には山田。慣れた手つきでマリちゃんが玄関をあければ、女子らしい、いい匂いがした。そこにタッタッタッタと、廊下を駆ける足音。
「おかえりぃぃぃ」
自宅に帰ったマリちゃんに小さな子供が飛びつく。
結論から云えば、たしかにご両親はいなかった。ただし一人暮らしというわけではなく、小さなご家族がいたわけである。
「妹さん?」
「うんにゃ。娘だよー。サツキっていうの。九月生まれだけどね」
娘。ムスメ。む・す・め。
娘とは、女性の子供、即ち本人の一親等直系卑属のうち女性である者である。対義語は息子または母。(ウィキペディアより抜粋)
「このお兄ちゃん、だあれ?」
「ママのお店の従業員のお兄ちゃんだよー」
その瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。思考を放棄したのだ。ママ、ママ、ママ、ママとはいったい! ずれた期待と現実のピントを合わせようと四苦八苦思考を巡らす間、時計の針はチクタク残酷なスピードで秒針を進め、ストーリーは刻一刻と僕を置き去りにしていく。
結果、卓に着きスプーンでカレーライスを頬張る。マリちゃんの作るカレーは中々美味しい。前日から大きめに切った野菜を煮込んでおき、ブイヨンに市販のルーを二種類混ぜて作り、隠し味にウスターソースと愛情を「おいしくなぁれ」と注ぐ。誰が作っても美味しいものではあるけれど、そういう当たり前の幸せというものが儚く尊いことがわからないほど、僕も子供ではない。
マリちゃんこと山田真里亞。三十二歳バツイチ子持ち。そして彼女こそが、我らが山田リサイクルを先代の父親から引き継いだ、店長兼オーナーなのだと、この日彼女の作ったカレーを食べながら僕は聞かされることとなった。無言の食卓。無機質なテレビの声だけが、リビングにこだまする。ニュースキャスター曰く、駅前の外国人留学生殺害事件の犯人は、未だ逃走中らしい。物騒な世の中である。
「熱出たんで、帰ります」
「まてまて。まだきみに詳しく話してないじゃないか。タダ喰い? タダ喰い?」
「ゴリ……猫橋さんのことを探ればいいんですよね?」
「ちょっと、急に敬語とかやめてよ。寂しいじゃん。わたしが店長だって言い忘れていたのは、たしかに悪かったけどさ。あ、それとも三十二歳で子持ちのおばちゃんとは仲良くしてくれないのかな? くれないのかな?」
三十二歳どころか大人にさえ見えねぇ! いや、別にぜんぜん動揺なんてしてないからね! 知らずに浮かれていた自分が、正直超恥ずしいとか、そう言うわけじゃないからね! 口周りをカレーで汚した九月生まれのサツキちゃんは「行っちゃうのー?」と寂しそうな眼差しで、僕を見る。……まあ、カレー美味しかったし、良しとするか。そう自分に言い聞かせ、僕はサツキちゃんの頭を撫で、抱っこして自分の膝の上に乗せる。
「こら! サツキ! そのお兄ちゃん。ロリコンだから近寄っちゃいけません!」
「……やっぱ帰る」
「まって! 嘘! うそだから! 行かないで! 捨てないで!」
と、ふざけ続けるマリちゃん。やっぱ歳が幾つでも、子供がいても、例え彼女が職場のオーナーでも、可愛いことには変わりないや。顔がいいってずるいよな。
「それにしても元旦那にリリースされた中古品のわたしが、リサイクルショップの店長だなんて、因果な話だよねぇ」
食器を片付け、シンクで洗い物をしながら、マリちゃんはそう言った。後ろ姿なので、どんな表情で言ったのかは解らない。
「はいはい。上手いこと言わないの。同情して欲しかったら時給上げてよ」
僕の膝の上が気に入ったのか、そこから動こうとしない九月生まれのサツキちゃんと食後のアイスを食べる。買い置きのモナ王はモナカの中に板チョコとバニラのアイスミルク。原点とも云うべきシンプルなアイスである。
「で、マリちゃんは、あの人とゴリラを足して熟成発酵させたあと、人を引いたような人の何が心配なの?」
「最近、あの子さ……」