3-1話 病院に行く道の途中で、これは誰の物語なのかについて引き続き話す立花備
この物語の中でただひとり、超越的三人称視点で語ることができる年野夜見は、しだいに強くなる雨を、自分の部屋のガラス越しに見ていた。窓ガラスの上の水滴は、はじめは小さな銀色の粒で、それが集まるとその重さによって下に垂れ、光る糸となり、その糸が重なって面を作っていった。窓から見える庭の梅の実が少しずつ大きくなる季節だった。
年野夜見は、部屋の片隅にあるサイレントピアノから、ヘッドホンのコードを外して音の調子を見た。それは湿っていて、暖かく、電灯の光で育っているキノコのような、神々しい人工さがあった。
ボリュームを絞って、彼女はバッハの曲を元にヴェーベルンがピアノ用に編曲した「6声のリチェルカーレ」を弾き、音に合わせて歌った。冒頭は特徴的な5音ではじまる。
「とーしーのーよーみー」
その声は、誰も見ることができない北極圏の湖の氷が、ほんのわずかの春の陽射しを受けて割れるときのように、何かを人に感じさせない、非情な声だった。
*
それはもう、すっかり葉桜になった季節の、とある土曜日の午後のことだった。
夜見たちが通う高校からひと駅離れた別の駅に、物語部のメンバーは集まっていた。市川醍醐は学生帽に学生服、千鳥紋はうす紫のロングプリーツワンピース、立花備は黒地に白で「War is Over」と書かれていたTシャツにありふれたジーンズ、樋浦姉妹は夏のはじめにはふさわしいが春の終わりには少し早すぎる半袖ブラウスにチェックのスカート、それからはしばみ色と薄桃色の、お互いの髪の毛の色とは異なった色のカーディガンを身につけていた。姉の樋浦遊久は、駅前の、藤堂病院を訪れる人に作られたような花屋で買った花を持ち、妹の樋浦清は自転車を降りて押しながら歩いていた。
「少し病院まで歩くのは長いかな」
立花備は言った。
「しかし、自転車だったら先に清だけで行っててもよかったのに」
「うーん…ひとりで、というのはちょっと。だらだら歩くのもそれはそれでいいよ」
「せーちゃんは話しながら歩くのが好きなのよね。お姉さんはしょっちゅう、本読みながら黙って歩いてるけど」
「どうも共通の話題をする人間というのが、登下校を一緒にする中にはいないから仕方ないだろ。ていうか、見てるんなら声かけろよ」
「今日はそう言えば年野さんはいないんですね。おお、これはイエロー・ブリック・ロードだ」
「年野は、少し用事があるということで別行動なんだ。舗道にある黄色いのは、点字ブロックなんで、ハンディキャップドな人間以外はその上を歩かないほうがいい、醍醐」
そういうわけで、年野夜見は彼ら5人の中におらず、いなくても5人の話をすることはできるのだった。
*
その日、物語部の部活に集まった4人に、立花備が言った。
「始業式の日、交通事故で意識不明の重体になった女子が藤堂病院にいて、俺たちのクラスは現在27人なんだ」
「それ本当? 事故の話は聞いたし、ローカルニュースでも話題になってたけど、醍醐くんとわたしはとなりのクラスなんであまりその後のことはよく知らないんだよね」
「で、これはあまり言いたくないんだけど…俺たちはその子の見ている夢なんじゃないかって」
樋浦遊久がパイプ椅子から立ち上がって言った。
「いきなりネタバレ!? じゃ、俺たち、その子が目が覚めたら消えちゃうわけ?」
「そうなるんだろうな。彼女は意識が戻って、おれたちは消える」
千鳥紋は落ち着いて言った。
「立花くん、私たち物語部員がしてはいけないことの筆頭は、この物語の作者を探すことなのよ」