7 和解
「鎖帷子は脱いだら? 俺は部屋の外にいるから」
「……そうね」
私は急いで衣装箱の中をあさって、男物を模したズボンとブラウスと上着を取り出した。とりあえずベッドの上に、脱いだサーコートと鎖帷子を伸ばして置いて、その下の鎧用の下着は、考えた挙句に見えないように箱に放り込んだ。手早く衣服を身に着けると、いかに鎖帷子やサーコートが重かったか身に染みた。せいせいした気分になった。
「どうぞ!」
彼を呼びこむと、食べようか、とエスコートされて、テーブルに向かい合わせに座った。
足が触れあってしまいそうな小さなテーブルで、彼との距離も近い。こんな近くで彼を見返す勇気が出なくて、すぐに手を組んで、目をつぶって、食前の祈りを捧げることにした。
「主よ、御恵みに感謝いたします。この賜物が我が体と心の良き糧となるよう祝し給え」
私が祈りを口にしはじめれば、彼も重なるように合わせて唱え、共に十字を切った。
目を開けると、先にどうぞ、と中央に置かれたポットを指し示された。あなたこそ先に、と言うべきところなのに、あ、とも、う、とも、とにかく声が喉の奥から出てこなくて、しかたなく無言でコクコクと頷き、突っ込まれているレードルを手に取った。
緊張に手が震える。カチャカチャとポットに当たり、左手で持っている皿もふらふら揺れていた。……駄目。こぼさずによそえる気がしない。
『話があるって言っただろ?』
またふいに兄さんの声が聞こえて、私はレードルを手放し、がたん、と音を立てて皿をテーブルに戻した。
ああ、そうだ、昨日、料理長のラモンは何て言った? 『グレッグ様が、これを丘の上の木の下まで届けてくれって、おっしゃってました』と、あのバスケットを私に渡した。
そして届けに行ったら、兄さんは、話があるから一緒に食事をしよう、と誘ったのだ。……もしかしたらあの時、エルバートのことを話そうとしていたのではないだろうか。
そう考えると、時々、兄さんが彼のことを口にしていたのを思い出した。侯爵の許に行くたびに、エルバートの噂を聞いたんだが、と。
私はそのたびに、あんな人のこと興味ないわ、と不機嫌に切り捨てていた。彼の名なんて、耳にするのも嫌だわ、と。
……ああ、私はなんてことをしてしまったんだろう。兄さんの最後の願いさえはねのけて、耳を貸そうとしなかった。
そう。私は、本当に、彼の言う通り、人の話に耳を貸さない人間だった……。
己の情けなさに涙がこみあげてきて、私は深くその場で頭を下げて、涙を隠した。涙を見せるなんてできない。彼は泣きながら謝る女性の謝罪を、受け入れないような人じゃない。どんなに許せないと思っていたって、それを曲げてしまうに違いないから。
「ごめんなさい。あなたを疑ってごめんなさい」
顔は上げられなかった。しばらくの沈黙の後、躊躇いがちな声が返ってくる。
「……もう、俺のこと、嫌ってない?」
「嫌ってなんかないわ! はじめから、嫌ってなんかない」
「いや、無理しなくていいんだ。婚約者があんな失態を犯して、嫌になる気持ちもわからなくもないし」
「あなたを嫌ってたわけじゃないの! ……ただ、信じたくないのに、お父様はあなたを追放してしまったから。だったら、本当なのかなって。あの人の肌に触れて、情熱的なことを囁いたのかって、すごく、すごく嫌で、考えたくないのに、そうしてる姿が頭の中を駆け巡って、ずっと、あなたの名前も聞きたくなくて。……忘れて、いたくて。
……兄さんもきっと、話そうとしてくれていたのに。……わ、私、最後に、兄さんが話したいことがあるって言ったのに、まさかそんなことだと思わなかったから、嫌だって、断っちゃったの。その直後に兄さんは倒れて、死んでしまったの……っ!!」
ばたばたと涙が膝の上に落ちた。こらえても、こらえても、次から次にあふれてくる。
「アイリーン、君のせいじゃない。あれは俺が間抜けで油断していたせいだし、グレッグが死んだのも、神の思し召しだ!」
エルバートが席を立ってやってきて、私の肩を抱いてくれた。
「違う。違うの。兄さんは、蜂に刺されて死んだの。庭師のフォンテが、悪魔が姿を変えた蜂だったに違いないって、テュルソーの誰かに呪い殺されたんだって」
「まさか、そんなことが」
「兄さんは立派な騎士だったのに。忠誠を尽くしただけなのに。どうして。どうして……」
「アイリーン」
たまらなくなって彼の肩に顔をこすりつけると、深く胸元に抱きこんでくれた。ゆっくりと髪を撫でてくれる。息を吸い込めば、懐かしい彼の匂いがして、胸の奥がきゅっと締まって、もっと涙が止まらなくなった。
慰めのキスが頭の上に何度もされる。それでも泣き止めないでいると、額にも降ってきた。優しい感触に目を上げれば、エルバートも切なそうなまなざしをしていて、眼尻に口付け、あふれたばかりの涙を吸い取ってくれた。
右に、左に、涙の跡をたどって彼の唇が頬の上を下りていく。優しく、気遣いに満ちたそれに、目をつぶって身をゆだねているうちに、涙にぬれた唇もついばまれ、私ははっとして目を開けた。
「愛してる、アイリーン。あの日の誓いを忘れたことはない。どうか、俺に誓いを果たさせてはくれないだろうか」
愛してる。その言葉に、それまでとは違った涙が湧き出してくる。あの日の気持ちと光景が、胸と脳裏に鮮明によみがえってきた。
「だけど、兄さんはもう……」
「亡くなってしまっても、同じだ。俺は彼の望みを助けたいし、アイリーンと生きていきたい」
「兄さんの、望み?」
「家族と領民の幸せだ。二人で、グレッグの子や奥方や、アンドール村を守っていこう。
君が当主となるなら、それでいい。招集には、家名に連なる誰か一人が従えばいいのだから、その時は俺が赴く。
君が領内を守り、俺が外で守る。俺に、そうさせてはくれないか」
「エルバート……」
私はしゃくりあげて、彼に抱き着いた。大きな体で、しっかりと抱き返してくれる。
悲しかった。不安だった。辛かった。誰にも頼れない寄る辺なさに、虚勢を張ってないと潰れてしまいそうだった。
誰かに助けてほしいって、……ううん、本当は、エルバートがそばに居てくれたらって、ずっと思ってた。
「う、わあああああああんっ」
張りつめていたものがなくなって、私は声をあげて泣いた。一度泣き声を出してしまったら、止まらなくなった。彼の胸に顔を押し付けて、声の限り泣き叫ばずにはいられなかった。
泣いて泣いて泣いて、声が出なくなって、涙も枯れて、しゃくりあげているのか呻いているのかわからなくなっても、私は彼にすがりついていた。ただもう、この広くて温かい彼の胸から、離れたくなかった。
「アイリーン、大丈夫だ、傍にいる。君と共に生きていく。もう二度と、一人にしたりしないから」
囁きながら、彼は子供をあやすように体を揺すってくれて。泣き疲れた私がそのまま腕の中で眠ってしまうまで、彼はずっとゆるぎなく抱きしめ続けてくれたのだった。