2 兄の死
「フィアン、兄さん!」
丘の上の木陰でくつろぐ二人に遠くから大きな声をかけたのは、私が近付くのにも気付かず、二人の世界で今まさにキスをはじめようとしていたからだった。
もちろん私は兄夫婦の睦まじさを嬉しく思っているけれど、恥ずかしがり屋のフィアンはいたたまれない思いをするに違いない。
それに私も重いバスケットを持って、いつ終わるのかわからないキスが終わるのを待つのは嫌だった。
「まあ、アイリーン、重そうね」
優しくてよく気の付くフィアンが、荷物を運ぶのを手伝ってくれようと立ち上がりかけた。それを兄さんがやんわりと座らせ、自分が立ってこちらに駆けてきた。
「ラモンが軽食をどうぞって」
料理長の心づくしの品が入っているバスケットを、兄さんに押し付ける。兄さんはすぐにかかった布をめくって中を確かめた。
「これは美味しそうだ。……おい、アイリーン、おまえの分もあるぞ」
さっさと丘を下りはじめた私に、兄さんが食い下がってくる。
「アイリーン、おまえに話があるんだ!」
「やあよ、新婚さんの間に入るなんて。馬に蹴られて死んじゃうわ」
「アイリーン!」
私はもう応えずに、背中越しに追い払うように手を振って、さっさと義姉のもとへと帰るよう、うながした。
明日、兄さんはガルトルード侯爵の招集に応じなければならない。それが侯爵に騎士として従い、このアンドール村を拝領しているベアハルト家の、義務であり名誉だ。
幸い今回は、街道に居ついた盗賊を狩るための招集と聞いている。少なくとも相手は訓練を積んだ騎士じゃないし、国境まで行くわけじゃない。侯爵旗下の騎士として五指に挙がるような兄さんに、何かあるわけがない。
それでも、家族を戦いの場に送り出すのはやっぱり辛いし、それにフィアンは身籠っている。そんな兄夫婦の邪魔はしたくなかった。
「グレッグ!? グレッグ!?」
ほとんど丘を下りきったところだった。フィアンの悲鳴みたいな声が聞こえて、兄さんたら何してるのかしらと振り返った。
いちゃついた挙句、フィアンが戸外で押し倒されてるのかと思いきや、フィアンが兄さんの上に屈んでいた。
「グレッグ、ああ、グレッグ、目を開けて!」
彼女の普通ではない動揺ぶりが見て取れて、私は丘を駆け登った。
「フィアン、どうしたの!?」
「ああ、アイリーン、グレッグが、グレッグが」
兄の顔に、赤い斑点が広がっていた。ゼイゼイとした息をして、意識がない。
「何か食べたの!?」
敷物に広げられた食物たちを見て聞くが、フィアンは首を横に振った。
「まだよ。急に苦しみだして、そうかと思ったら、倒れて、返事をしなくなって」
「わかったわ。家のものを呼んでくる。男たちなら、きっと何か知ってるわ。フィアン、それまで兄さんに呼びかけて、抱きしめてあげてて」
私はショールをはずすと兄の肩に掛けた。フィアンが膝の上に彼の頭を抱き上げる。私はドレスの裾をたくしあげて、館に向かって一目散に走った。
「誰か―! 誰かー!! 兄さんが大変なのー!!」
庭師のフォンテが気付き、館の中に知らせに走ってくれる。家令のビルが出てきて、私は兄さんの様子を急いで説明した。ビルはフォンテに他の男たちにも知らせるよう言いつけると、私と一緒に兄さんのもとへ駆けつけた。
だけど、その時にはもう。
「ああ、アイリーン、グレッグが息をしてないの、どうにかして、お願い……」
泣きぬれたフィアンの膝の上で、兄さんは、変わり果てた姿になっていた。
兄さんは寝室に運び込まれたが、手の施しようはなかった。皆、呆然と寝室に集まり、立ち尽くすしかなかった。
フィアンは兄さんにすがって泣いていた。私もその隣で彼女の肩を抱いて、とめどなく流れる涙にくれる。
「なぜこんなことに」
思わずつぶやくと、庭師のフォンテがおそるおそる尋ねてきた。
「……奥様、こんな時にお聞きするのはなんですが、旦那様は蜂に刺されやしませんでしたか?」
「……蜂?」
フィアンは少し顔を上げ、ぼんやりとフォンテを見た。
「なぜ知ってるの? そうよ、グレッグは蜂に刺されたわ。アイリーンが来る、少し前に」
「ああ、なんてことだ、そいつは悪魔が姿を変えた蜂だったんだ!」
フォンテは素早く十字を切り、祈る形に指を組み合わせた。
「普通の蜂なら一刺しで人を殺せねえですが、悪魔が姿を変えた蜂なら別です! 誰かが悪魔と契約して旦那様を呪ったんだ!」
「いったい誰が。旦那様は侯爵の覚えもめでたく、高潔な騎士として名を馳せていらっしゃる。旦那様のような方が、なぜ」
料理長のラモンが、料理帽を胸の前で揉みしだきながら言った。それに、家令のビルが抑えた声音で答えた。
「……だからかもしれません。テュルソーとの戦では、多くの高名な騎士を討ち取ったと聞いています。わが国では英雄でも、あちらでは恨む者も多いでしょう」
沈黙が落ち、侍女たちがすすり泣く声が大きく聞こえた。
ビルが進み出てきて私たちの傍らで膝をついた。彼の目も真っ赤だった。彼が一度、深く頭を下げた。
「奥様、お嬢様、このような時に、このようなことを申し上げることをお許しください。……ベアハルト家の後継のことでございます。それに、侯爵からの招集の期限も迫っています」
はっと息をついて、フィアンが、いやいやをするように頭を振った。
私は手で顔を覆った。そうだった。今、一番ベアハルト家に切迫した問題。
兄さんの他に男子のないこの家に、男子が生まれるかもしれないと、フィアンの腹の子を皆で待ち望んでいたのだ。
我が家は騎士家だ。騎士として仕えることのできる者がいなければ、その権利は義務を果たすことのできる者へと移譲される。そうすれば所領はその者の物となり、フィアンも私もこの屋敷を出ていかなければならない。もちろん、騎士家の名も、兄さんとフィアンの子に受け継がせることはできない。
「……エルバート様を呼び戻されてはいかがでしょうか」
「冗談じゃないわ!」
私は反射的に叫んでいた。
「あんな男を呼び戻せば、フィアンがどんな目にあうか! 家は、私が継ぎます。兄さんとフィアンの子が大きくなって、義務を負えるようになるまで、私が騎士として仕えます!」
「お嬢様」
「ビルも皆も知ってるでしょ? 私だって兄さんがこんなことになった時のために、兄さんと同じ訓練を受けてきたの。そのいざまさかが、今よ。そうでしょ?」
「アイリーン……」
フィアンが私の腕を掴み、顔を覗きこんできた。
「心配しないで、フィアン。あなたとお腹の子は、私が絶対守るから」
私は力強く頷いてみせた。