第九話 定例会と再生計画
「今日のテーマはヒューマンリソース・ディベロップメント。つまり若手育成よ」
真弓子の勉強会への参加は、相変わらず義務付けられていて継続していた。秋社長の落ち着いた声が、汐留本社の会議室に響く。
「元進学塾の先生の経験からして、育成についてはどう考えます?学生と若手とでは、一段階違うでしょうけど。学校教育の履修は終わっていることが前提ですからね、でも変わらない部分もあるかもしれない。斬新な意見を伺いたいわ」
「ビジネスで通用するのかな、塾の方針ではなくて、私が尊敬してた先輩のやり方です」
前置きしてから、真弓子は発言する。嘱望された若手の前で、中途採用が弱気な所は見せられない。
「育成に大切なのは、まず否定しないこと。質問には必ず回答してくれるという安心感がないと信頼関係が結べない。上が意識してモードチェンジする。教える方に訓練が必要です。何回言わせるんだとか、この前も言ったとか、口にも態度にも出してはいけない」
「プロとして?」
「理解度は人によって違うから習得にも差が出ます。それは主観を入れず段階に分けて判断、場合によっては点数化する。信頼が育った時点ではじめて、先に進んで自分で考え、学ぶ手段を指導する。できない子なら、促してあげないと」
「そこまでしますか?見捨てて終わりでは?」
「あくまで学生相手と仮定しても、全体のレベルを上げるためには、できない奴は切り捨てるだとかえって逆効果、できる子の信頼まで失うわ。礼儀や社会常識にたいしては厳しく望むべきだけど、それは新人教育に関しても同じじゃない?」
今日は土曜日だから、本当はみな、面倒だなぁと思っている。窓から入る午前の太陽、その光線が真弓子のローズの口もとや喉を舐めていて、細い首の付け根が動くのがはっきりと見えた。
「頭一つ先んじる子には、後輩の育成についても初期の段階から教えていく。人に教えることは自分の知識を客観的に見る上でも効果的だから」
隙一つ見せないグレーのスーツ姿は、真弓子の緊張の現れだった。
「パターンに当てはまらない子も勿論いる。物凄くできる子か、全然無理な子のどちらか。程度によるけど。中にはすごいのいるし」
「今日は会社休みますって、ママが電話かけてきたりとか?」いたいた、そういう奴、と笑いが起きる。
「ここで注意すべきなのは、否定しないというこれは、あくまで一般論というか、基本的に共有された空気というか。あまり縛りを設けると、それが足かせになるから」
伊野木さんステキ、と詩子が両手を合わせた。「わかりやすい」
真弓子は、座って頭を下げた。なかなか見られない秋社長の笑顔を、お世辞程度に受け止めておく。御船が横から口を出した。
「お前の言ってるのは、若手育成じゃなくて、新人が慣れるまでの周囲の扱いにすぎない。自分が優しくされたいだけの願望じゃねえのか?実際にどういうスキルが必要で、どう現場に慣れさせて、必要な資格の勉強もさせていくかって具体例にはまるで触れてない。しかもうちに必要なスキルや資格に、そのやり方があってるのかどうかも検証されてない。適当にしゃべってるだけだろ」
肩をすくめて聞いている若手相手に、追い打ちをかけるように続けたら、だるそうな気配はすぐ消えた。
「若手が自分から上司に受け入れてもらいたい、否定されたくない、なんて考え始めたら、それは害でしかない。甘えと一緒でダメにしていくだけだろう。生き馬の目を抜くって言うんだ。競争をさせないといけないし、伸びない枝は切るべきだ」
「ここは伊野木さんの元キャリアから一意見を発言してもらっただけなのよ。それは一方的すぎるわ」
「アキさん、お構い無く。価値観の多様性から色んな意見が出るのは当然のことですし、業界特有の認識もあるでしょうから」
にらみ返す変わりにすました顔をして、次の方意見をどうぞと促した。私だってこのくらいの冷静な顔はできるのよ。御船の言葉は、若手キャリアたちの方にこそ向いていることぐらい、真弓子にもわかっていた。
「彼女、フェイスブックもやってないし、ライングループにも入ってないでしょう」
休憩室でコーヒーの缶を開けながら、年若の鈴木一平が、先輩の高橋に声を潜めてたずねた。
「セミナーアシだったし、今は本社出て出向なったし、何でいつも会合にいるんです?」
「御船さんがいつも、電話で呼び出してるらしいぜ」
高橋は答えたくなさそうで、変わりに隣の別の若手が返事をする。「メッセやらないし、メールだと来ないからって」
「えぇ今どきそんなん、ありなんですかね。なんか可愛いのに怖いお友達もいるし、あの人、謎だわ」
「私が呼んでいるのよ」やめろと高橋がたしなめる前に、秋社長が後ろから答えた。一平は首をすくめて顔を隠した。
「彼女がいると場が引き締まる。いるといないとでは大違いだわ」
「だって御船さん、態度がいつもひどいでしょ。すっげキツくて。追い出したいのかなと思ってたのに。違うんだ」
一平は首をかしげて腑に落ちない顔をした。
「お前本当にバカだな」高橋が呆れ顔で言う。
会議室では真弓子が資料をたたんで帰ろうとしていると、御船が後ろに立っていた。
「お前、一度おれの事務所に来い」
横浜でちゃんと話せなかったから、と言い残して足早に去る。
新橋から武蔵小杉までは、横須賀線でほんの十五分の距離だった。事務所で、詩子がもてなしの準備をしているうちに、真弓子は御船の前に資料を広げた。
「個人情報だから、気を付けて」
「いちいち、名前消して集計データにしたのかよ?」
あのセミナーと新年会が終わってから、まとめた資料だった。
「本社のスパイだから私」
「楽しいだろ?」御船は床に足を投げ出して楽しそうに書類を繰った。「日報からすると、すげえ楽しそうにしてるじゃん」
お茶を運んできた詩子に、今日はもうあがっていいよ、と声をかける。詩子ちゃん行っちゃうのかと、真弓子の心がふいに沈んだ。努めて目の前の資料に集中しようとする。
「要はこのボロボロな会社をなんとかしろってことなんでしょ」
「そこまでは求めてない」
詩子はそっと扉を閉めて、音も立てなかった。邪魔をしないよう配慮してくれたようだった。
「わたしは、診断士じゃないのよ。なんでこんな下っぱを」
「だからだろ」御船の声は優しくさえ聞こえた。「一緒に切っても腹が痛まないからだよ」
真弓子は断固として宣言する。
「こうなったら、何としてもこのセンセイには立ち直ってもらうわ」
「お前バカか。一度傾いた会社がそう簡単に立ち直るかよ。構造よりも社長一人の意識によるところが大きいんだ。意識改革が一番難しい。習慣は変わらないしプライドもある、生活習慣の疾患は治せないって言うだろ、同じなんだよ」
「キリエと同じようなこと言うのね」
「女史、そういや債権回収専門だったか」
「あんたコンサルタントのくせに、そんなこと言ってていいわけ?そこを変えるのがコンサルなんでしょ」
「だから、変えようなんて思わないんだよ。変わる会社だけをピックアップするんだ。死ぬところは死ぬ、そんなところと心中したくないだろうが。本社の依頼だからやってるけど」
「もうほんと、サイッテー。これ以上聞きたくない」
御船は、書類に没頭しながら、もとからゆるめていたネクタイを片手で引っ張って外し、後ろの机上へ投げた。
「財務状況ギリギリだけど、まだそう悪くもないじゃん」
そうなんだ?と真弓子も期待顔で御船の手元に乗り出した。
「これなら再生の余地あるかも。でもあのおっさん、頑固だろ、今更やり方変えられるかね」
「余地あるならやりたいわ」
「それはお前の仕事に含まれてないけど、やりたいの?」
「貸出金を回収するなら再生努力は当たり前じゃないの。やり方なら変えてもらうわ」
御船は、何とも言えない奇妙な表情で真弓子の顔を見た。
「努力と時間が無駄になっても?」
「無駄な努力なんてないわ」
「あるだろ」
「その時の知識や努力は、その時は無駄なように思えても、自分で思ってもいなかった別の場所と時間で生きてくるものよ。ポジティブに考えないと何もできないわ」
「お前のはポジティブとは言わない。無理無茶無謀」
「いいからとっとと教えてよ!」
「タダ働きはしない。だからアドバイス程度しかできないよ」
「やるのは私だから、期待しなくていい」手を伸ばして御船の手から書類を奪う。「無責任なアドバイスだけちょうだい」
外は次第に薄暗くなり、電灯にいつしか灯が入っていた。ガラスの向こう、再開発の白いシート越しに夕焼けが雲を赤く染めている。
「何か食いに行くか」
御船が立ち上がった。
二人でゆっくり道を歩く。綺麗な塗装と時を経た道路とが無秩序に入り混じり、この街は、もうないものとして壊れかけているのに、まだ死んでいなくて、しっかりと息づいている場所も残っている、ひどくアンバランスだった。
「ずいぶん再開発されてるのね。それで事務所をここに選んだの?」
おれはここ出身なんだよ、と御船は言った。
「故郷がこんなに変わっていっていて、寂しくない?」
「おれはここで育ったが、もともと親もここ出身じゃないしな。実家は地上げされて、見慣れた古い消防署の鉄塔も二年前に取り壊された。でもおれは、ここが性にあってるんだよな。変わって行っていても。ダチもいるし」
灯りがつきはじめた街をしばらくいくと、駅のすぐ傍、センターロードと書かれた黄色い看板のアーケードを抜けて、狭くて古い小さな路地に入る。
「ここはまだ面影が残ってるよ」御船が歩きながら言う。「小杉は人一倍、いつまでも昭和な街だった。いわゆる工業都市ってやつ。ワンカップ大関持ってるようなおっちゃんたちが溢れてた」
南武線のこと、ギャンブルトレインって言うって知ってる?沿線に競馬、競輪、競艇、揃い踏みだから。そんな話をしながら路地に入る。再開発の槌の音は、酒と料理の匂いに遮られたようにやんでいる。店先に汚れたのれんが下がっていて、古びた軒下に揺れていた。
「こんな景色好き。懐かしくて」
「お前が?」
「東京の古い町並みに感じるのとは全然違う」
立ち止まり、中州、とつぶやく。「知らないよね」
「福岡の歓楽街のことだろ、新宿歌舞伎町みたいな」
「天神、中州、響きだけでも懐かしい。もちろん全然景色は違ってるし、中州とここが似てるってわけじゃなくて、ほんの少しの切り取られた場所だけなんだけど、おじさんたちで賑わう界隈を思い出したの」
真弓子は軒を見上げた。
「ここには、忘れられていく何かがあるわ。もうちょっと年上の、いとこの兄さんたちだったら、壊れていくのを悲しむのかも。でも私は、半分新しい時代に足を突っ込んじゃってるから、変わっていくのも受け入れられると思う」
タワーマンションばかりだと、どうかなと思うけど、と言う真弓子を御船はじっと見る。
若者も、コートとスーツ姿の年輩の男も、様々な層の人々がいたが、土ぼこりにまみれた労働者風の男たちの姿もあった。赤提灯と赤看板、古いのれんの下に置かれた丸椅子で、手に煙草を持って談笑している。作業服やよれたシャツは汗と土だらけでも気にもせず、顔は毎日が夏の日でなければこうはならないと思うほどに焼けきって陽は肌に染み込んでいる。カップを持つ手は節くれだってごつごつして大きい。長年の労働労苦がしわとなって身体全体に刻みついている。中には若いパーマのニッカ姿もあった。工事現場から着たらしかった。
真弓子は勉強会のままのビジネススーツとヒールの姿で、おじさんと気安く話しかけそうなほど馴染んでいた。ああやってずっと働きづくめできた人たちをわたしは見た目だけで嫌いになんてなれない、と真弓子は言った。御船はその頑張り全部、賭け事と酒に消えるけどな、と憎まれ口をたたく。少し上を見上げれば見える工事のシートはいずれ、銀色に輝いて空を隠してしまうのだった。
アーケード下に入ってすぐの焼鳥ののれんをくぐって座り、酒を待ちながら真弓子は聞いた。
「あんたの事務所は、二人なのにどうして利益出しているの?」
「経営支援フォームへの入力、キャッシュフロー作成なんか、本社に外注に出してやらせてる。お前、高橋にやってもらったろ、あれと同じ。ジョブトレーニングの一環も兼ねてるんだよ」
普通の会社ならまだ御船自身が若手だろうが、この会社に限っては、四十越えれば超ベテランで、独立を強く推奨していた。この社風について、真弓子は一度桂木部長に尋ねたことがある。
──ん~うちは、純然たるコンサルティングだけで食ってるわけでもないからね。色々、手を出してみてるから。
桂木部長は眼鏡を上げながら答えてくれた。
──コンサルって、知識はともかく活用やら提案やら指導はノウハウだけじゃうまく使えない。結局、向き不向きの話になっちゃう。だからむしろ実践しろと。起業に行っちゃえとね。トップセールスマンだけが皆を食わせていくような体質じゃなくて、もっと体系的に捉えようっていうか、会社をあげて人的資本を育てることありき。飛び立つことありき。うちから羽ばたいていきなさい!そしてちょっと思い出してお金も落として!っていうのがうちの会社のコンセプト。
「本社の若手を育てるのも今のおれの仕事でね」
御船が叩き上げたアナリストが、少しずつ大きな本社案件の分析を任されるようになり、御船は彼らの案件のアドバイスもする。大企業を扱うにも、網の目のように伸びた根を張るネットワーク、関連のある中小企業を知るのは大切だ。
格子戸を開けて入ってきた、黒いコートを着たサラリーマンの一人が、よう、次郎、と声をかける。おう、と肩を抱いた所を見ると地元の友達かと真弓子は見た。相手が御船の耳に口を寄せて耳打ちした。
「うるせえな、仕事なんだからからむなよ。酒ほどほどにしろよ」
悪ガキの顔している、と真弓子は思った。ここにいる御船は、どこにいた時とも少し違う雰囲気を纏っていた。
しばらくして、建付けのよくないガラス戸を開けながら真弓子は御船に言った。
「焼き鳥おいしかったわよ。じゃあ、このまま帰るわ、駅もすぐそこだし」
「改札まで送るよ」
二人が連れ立って無言のまま歩いていると、駅の中から、先生、伊野木さん、と聞きなれた声があった。詩子?と御船が眉を寄せる。
「遅くなるから上がれって言ったのに」
「事務所に忘れ物をして、取りに帰った所なんです」詩子らしくもなく、おろおろしている。しょうがねえなあ、と御船が黒髪の頭を上からつかんで小突くと、詩子は心底すまなさそうな顔をした。
「この時間帯、電車じゃお前なんかすぐ人混みで潰される、車で送るから行こう」
「私なら大丈夫、一人で行ける。ここでいいわ、彼女を送ってあげて」
じゃあね詩子ちゃん、と詩子のしょんぼりした表情に笑顔を見せ、軽く肩を叩くと、はい、と微かに笑いが帰ってきた。
真弓子は振り返らない。大きくて新しい駅の中、脚をひきずりながら歩いている疲れた姿が後ろをすれ違った。ホームレスと言うよりは、浮浪者という呼び方が合う。身なりもそれほど荒れきってはいなくて、でもこれから戻る家はおそらくない。真弓子はきゅっと唇を引き結んだまま、ホームへと足を進めた。